「おい、帰るぞ」
やがて魔王様が、宿屋の近くにいたラースに声をかけました。その途端、彼の服装がいつものものへと変化します。魔王様に向けた顔には、相変わらずの仮面もありました。
ラースの姿が瞬時にその場から消えたかと思うと、我々のすぐそばに現れます。彼は魔王様だけを見つめていたのですが、その目はどこか戸惑っているようにも思えました。
「ここでは奴らに見られてしまう。後で話は聞こう」
魔王様がそう笑いながらおっしゃって、ちらりとその視線を宿屋の方へと投げました。そこにいるのは、勇者クレイグとコンラッド、神官。彼らの表情はそれぞれ気難しげでありました。
どうやらクレイグが何か質問し、神官がそれに応えているようです。コンラッドはただ口を閉ざしたまま、眉根を寄せています。
「勇者はどうやら騙されやすい性格をしているようだ」
ふと、魔王様が小さく囁きます。
確かにそうかもしれません。先ほど、あの神官たちの前で「話が違う」とか何とか言っていたような気がします。きっと、上手い言葉で騙されてあの場にいたのではないでしょうか。
「他の誰かに騙されて強姦される前に、何とか私が先を越さねば」
魔王様は酷く真剣にそう続けましたが、何となくそれはないんじゃないかなあ、とも思ったりしました。
私たちが魔王様の城に戻ると、ちょうど中庭にはシーザーが木陰で休んでいるところでした。獣人たちの姿は相変わらず少なく、森の見回りに出ているのかもしれません。
私は一瞬だけ彼に話しかけようと考えたのですが、魔王様が大広間の方へ向かうのを見てそれを諦めました。ラースも魔王様に続いてそちらに足を向けたので、きっと先ほどの話があるのだろうと考えたからです。
「助けて欲しいと言われました」
私が考えた通り、大広間にある玉座に魔王様が腰を下ろすとすぐ、ラースがそう口を開きます。
「あの女にだな?」
魔王様はつまらなさそうに鼻を鳴らし、唸るように言います。「あの女、勇者にも色目を使っていたように思えたが」
「色目……」
ラースは困惑したようにそう繰り返した後、苦笑しつつ肩をすくめます。「逃げ出すために手段は選ばないということではないでしょうか」
「ふん」
魔王様はそこで私に視線を移すと、目を細めつつ続けました。「お前と同族なんだろう。人間に捕まる理由、お前が狙われる理由も解らないと言ったな? もともと、お前たちはどういう種族なのだ? 確かに強い魔力を持っているようだが」
「……それが……」
私は一瞬、言いよどみました。でも、正直に言います。
「私は幼い頃、母親と二人で暮らしていたのですが、物心ついた時には母が殺されたのでよく解らないのです」
「父親はどうした」
「死んだ、と教えてもらったと思います。死んだ、というのがおそらく……」
「人間に殺されたか」
「はい、多分」
子供の頃……母と暮らしていた時のことはほとんど思い出せません。記憶を失ったわけではなく、私が幼すぎたからでしょう。
ただ、母は人間から隠れるようにして森の奥に私と一緒に住んでいたのは確かです。でも結局、人間に見つかった。
「ユーイン……いえ、同族の魔物もいましたが、彼も人間に捕まっていたようなのです」
私は魔王様を見つめ直し、話を続けました。「彼の身体には神官につけられたという赤い痣がありました。我々魔物を服従させるためのものだと聞いています。その痣のせいで、人間と戦うことができないと」
「ああ、確かにそういうことができる神官がいる。ただ、できるのはかなり力のある神官だけだ」
魔王様はふと、興味が出たと言わんばかりに身を乗り出してきました。「ああ、なるほど、あの女にもその痣があるというわけだな。だから人間に逆らうこともできず、逃げられない、と」
――おそらくそうでしょう。
そして多分。
私がもし彼らに関わって、万が一にでもその術をこの身に受けてしまったら、彼らの奴隷になってしまう。
「ふむ、面白い。面白いな」
そこで魔王様は玉座から立ち上がると、その場をぐるぐると歩き回り始めました。そして何事か考え込んでいましたが、急に足をとめるとこちらに顔を向けました。
その笑顔!
絶対に何か楽しいことを思いついた、と言わんばかりの笑顔!
「奴らが何を企んでいるのか知りたい」
気が付けば魔王様の姿が目の前にあり、その手は私の肩に置かれていました。「一番簡単なのは、お前が奴らに捕まって話を聞きだしてくることだ」
「え」
私は一瞬、自分の思考が停止するのを感じました。
でもすぐに我に返ると、慌てて首を横に振ります。
「あの、でも! もし私もユーインと……いえ、その彼女と同じ術を受けてしまったら。そうしたら……」
人間に逆らえなくなってしまったら。
人間と戦えなくなってしまったら。
そうしたら、本当に私は『終わって』しまう。
もう、魔王様のために死ぬこともできなくなってしまう。
そんなのは、そんなことだけは!
「確かに、強い魔力の持ち主を失うのは我々にとっても痛手だと思います」
そこで、ラースが困惑交じりの声を上げました。
その言葉を嬉しいと思うと同時に、胸が痛くなりました。ラースの顔を見ることもできず、私は魔王様のことだけを見つめ続けます。
「私、私は」
私が言葉を探している間も、目の前にいる魔王様の笑顔は崩れることがありません。
どうして?
魔王様は……酷い方です。
私、私は……私の存在意義は。
「魔王様のそばにいさせてください」
ただ必死でした。自分がどんな表情をしているのかは解りませんが、きっと変な顔をしていたのだけは間違いないだろうと思います。
「私の居場所はここだけしかないんです。魔王様は……私に」
「何を心配しているのか知らないが」
ふ、と魔王様は何か含んだような笑みを作ります。「お前は私のために死ねと言ったろう」
「そうですが、でも」
「お前は奴らに渡さない。安心しろ」
そこで魔王様は私から数歩遠ざかり、その右手に魔力を集めました。奇妙な炎のような魔力が広がったかと思えば、そこには見覚えのある『モノ』が。
「もしもその術を受けたとしても、私が破ってやろう。だから、安心して捕まってこい」
魔王様がそう言うのを聞きながらも、私は魔王様の右手にある『モノ』から目をそらすことができませんでした。
「あの、魔王様?」
術を破っていただけるなら、それはそれで助かるわけですけども。
あの、『それ』は一体何なのでしょう。
魔王様の右手にある『モノ』、淫靡な動きをする肉塊、妖しい粘液をまき散らしながら蠢く触手。それは確か、クレイグを『襲う』時に使ったものではなかったでしょうか。
「これをお前の身体の中に入れておく。そうすれば、たとえ奴らの術を受けたとしても、必要な時にその術を破って出てくるだろうから、安心するといい」
「あああああの」
魔王様の浮かれたような声、楽しげな笑い声。
術を破っていただけるという約束をもらっても、何だかものすごく嬉しくない展開がここにあるというわけですけども!
「げ、厳密におっしゃって、ど、どこにそれを入れると……」
私が後ずさりつつ問うと、魔王様はニヤリと口角を上げました。
「もちろん尻の穴に入れておけば、楽しさ二倍というわけだ!」
全然楽しくないです!
「あああ、あの! でも、それは!」
私はいつの間にか、大広間の壁に背中を押し当てていました。自分でも意識していないうちに逃げようとしていたようです。いや、逃げるべきです、それだけは間違いないはずです。
壁に背中を押し当てたまま、じりじりと横に動いて扉の方へと向かいつつ、自分でも訳の解らない言葉を口にしました。
「やっぱり、アレです! せめて初めてくらいは、そういうものではなくて別の……いえ、好きな相手とすべきだと思うんですけども!」
「何を言うか」
魔王様はゆっくりと私に近寄ってきます。「その初めてを神官どもに輪姦されることを思えば、こっちの方が楽しいし気持ちいいだろう?」
「輪姦されたくないです!」
「じゃあ、やっぱり『これ』で拡張しておくべきだろう。輪姦された時に初めてでなければ、結構感じることもできるかもしれんし」
「話が通じてない!」
泣きたい。
さっきは魔王様に見捨てられる、と思って少しだけ本気で泣きそうでしたが、今度は別の意味で泣きたい!
気づけば、ラースが疲れ切った様子で額に手を置いてため息をこぼしているのが見えました。
助けて欲しいと切実に思いましたが、でもやっぱり助けを求めるなんてできません。
「やっぱり無理です!」
私は心の底から懇願します。「術を破っていただける別の方法を教えていただきたいです! とてもそれを……その、入れるなんて!」
「気持ちいい方がいいだろうにな」
そこで、魔王様は眉間に皺を寄せて笑みを消しました。「まあ、身体の中に入ってしまえば別にどうでもいいのだ。尻の穴が使えないというのなら、直接身体に入れるから痛いぞ。ああ、上の口があったな。飲むか?」
「えええええ!?」
私はぶんぶんと首を横に振ったので眩暈すら覚えました。「口とかも怖いのでやめて欲しいです! ええ、その、絶対に! だから、ええと、痛くてもいいですので一番平穏な方法でお願いします!」
「平穏か」
魔王様は不満そうにそう呟いてから、その右手に視線を落としました。
うねうねと蠢く触手に、さらに魔力が集中する気配が伝わってきます。すると、触手がゆっくりとその姿を変えていきました。先ほどまでの脈打つ肉塊といったものから、細い蛇のような形へと。
その細い蛇は、魔王様の手から落ちて床を這ってこちらにやってきます。そして、身体を強張らせている私の足から伝い上がってくると、ゆっくりと私の腕に巻き付きました。
「痛いぞ」
魔王様が短くおっしゃいます。
私は慌てて何度も頷きます。もう、痛くても何でもいいです。変なことをされないなら。
すると、その蛇の頭の部分がぐぐぐ、と持ち上がって細い剣のような形へと変わります。そして、私が何も言えずにそれを見つめた瞬間、一気に腕に突き刺さって皮膚の下へと潜り込んできました。
確かに激痛でした。
皮膚を破る感覚よりも、中に入ってくる感覚が凄まじいまでに痛い。
あっという間に蛇が腕の中に潜り込んで姿を消してしまいましたが、入り込んだ腕の中を蠢く感覚が。
血管が裂けるような、腕がちぎれるような痛みと、そして私の押し殺した悲鳴が辺りに響いて。
「術を破る時はもっと痛いだろうがな」
魔王様が小さく笑いながら続けました。「だが、痛みは快感によく似ている。癖になるだろうな」
――もう、何でもいいです。
私は肩で呼吸をしながら床を見下ろしていました。
私の身体の中に『アレ』がいる。それが解ります。肉を食い破る感覚が消え、ただ強力な魔力の塊があるというのが解るだけになり。
そして、それもやがて消えていく。
私の魔物としての魔力の中に溶け込むように。
「後は適当にタイミングをみて捕まるだけだな。不審がらせずに接触してくるといい」
魔王様は楽しげな口調でそう言った後、玉座へと戻っていってしまわれました。私は呼吸を整えながら顔を上げ、魔王様の背中を見つめます。
本当にとんでもない方だと思います。
無茶苦茶なことをおっしゃるし、破天荒な行動に出るから予測はつかないし。
でも奇妙なことに、少しだけ嬉しかったのも事実でした。
お前は奴らに渡さない、そうおっしゃっていただいたことにだけは。
そして、思わずラースの方を盗み見た瞬間、ほんの一瞬だけ私とラースの視線がぶつかったのを感じます。私は彼に何と言ったらいいのか解らず、慌てて視線をそらしました。
そして、急に中庭にいたシーザーを思い出してそちらに足を向けました。大広間の扉を開けて外に出て、振り向かずに歩く。
そう言えば、グラントも留守番をしているはずで。
まだ混乱している頭の中を整理しようと意識しつつ、何とか意識を辺りに向けようとして。
「シェリル」
背後からラースの声がかかって、私は足をとめました。
緊張に肩が震えるのが解ります。
「はい」
私は何とかそう応え、冷静さを装いつつ振り向きました。
すると、長い廊下の先にラースが立っていて、ぎこちなく微笑んでいるのが見えます。その笑顔がとても……何て説明したらいいのか解らないほど、とても懐かしい感じがして。
「上手く言えなくて申し訳ないんだがな」
ラースはそれ以上こちらに近寄ってくる気配はありませんでした。私を気遣うような口調と、それでも少しだけ警戒しているような声。
「仲間同士の不和というのは、士気に関わる。それは解ってもらえるだろうか」
それは優しい声でしたが、事務的なものでもありました。
私は一瞬だけ息を呑んでから、小さく頷きます。
すると、彼は安堵したように笑います。
「そうか、それならいい。お前の冗談に乗ってしまった自分も軽率だった」
「冗談?」
「冗談だろう」
ラースは僅かに首を傾げました。「ただ、たちの悪い冗談だったとお前も理解した方がいい。もし、『初めて』といったお前のさっきの言葉が本当ならな」
初めて。
私は胃の辺りを自分の手で押さえつつ、慌てて彼に頭を下げました。
「すみません。あれは……その、何ていうか、苛立っていたから八つ当たりというか。その、本当に私が悪いんです。ラースは全然、何も悪いことなどなくて」
謝罪しなきゃいけない。
たとえ合わせる顔がないと解っていても、きっとこれが謝罪するための唯一のチャンスなのでしょう。ラースが話しかけてきてくれた今こそが。
「すみません。私が悪かったんです。だから」
何とか言葉を探して続けようとした瞬間、ラースが手を挙げてそれを押しとどめました。
「いや、誰にだって馬の合わない相手がいるものだ。きっと、お前にとって俺がそうだった、ってだけでな」
「いえ!」
「だからな、必要以上に関わらないようにしよう」
「え」
私はそこで顔を上げてラースを見つめます。ただまっすぐにこちらに向けらている双眸を見つめ、そこに真剣な色が浮かんでいることに気が付きました。
「さっき、仲間同士の不和は士気に関わると言ったろう?」
ラースは穏やかに言います。私はただそれに頷くことしかできません。
「だから、他の仲間がいる場所では上手くやろう。せめて形だけでもな。もちろん、それ以外の時は好きにしていい。こちらも必要以上には関わらないようにする。それでいいだろう?」
――ああ、そうか。
私はただぼんやりと考えました。
もう、無理なのだ、と。
ラースはきっと、もう私のことを嫌いになったのでしょう。それが当然です。あれだけ酷い態度だった私なんか、嫌いにならないはずがありません。
だから、もう無理なのだ、と。もう、以前のように隣に立って歩くことも、からかうように話しかけてくるなんてことも。
もう、きっと期待なんてできない。
してはいけない。
そういうことなんだ、と。
「……すみません」
私はもう一度、彼に頭を下げました。すると、ラースは低く笑ってから首を横に振りました。そして、ふと話題を変えました。
「さっきの……お前の同族という彼女だが、助けられそうか?」
その言葉に私は唇を噛みます。
きっと、これが本題なのだ。最初からラースの興味はこの話題にあったのかもしれない。だから話しかけてきてくれた。ただそれだけ。
「何とかやってみます。魔王様の助けがありますから、状況だけは確認できるはずです」
私は何とか笑みの形を唇に作りました。すると、ラースが乱暴に頭を掻きながら言いました。
「どうも、ああいうのに助けを求められると弱い。力が必要ならいつでも貸そう。後で情報を教えてもらえると助かる」
「はい、必ずお伝えします」
そう言ってから。
私はさりげなくこう続けました。
「彼女のことが心配なんですね」
「……何ていうかな」
そこでラースが困惑したように私から目をそらします。「彼女のことが気になるだけでな」
――ああ、同じことを繰り返そうとしている。
私はラースに微笑みかけながら、心の奥底で思うのです。
昔と同じことを繰り返そうとしている。そう、何もかも同じです。
魔王様がおっしゃってました。今のラースのように。
『彼女のことが気にかかる』、と。
そして、それは恋に変化して。
だから、今度こそは。
今度は素直に応援しなくてはいけない。そう、同じことを繰り返さないためにも。
「彼女を助けましょう」
私は静かに続けました。「きっと、助けられると思います」
すると、ラースが小さく苦笑しました。そして、何も言わずに姿を消してしまいます。
誰もいない廊下に一人残される形になった私は、ただぼんやりと天井を見上げて笑いました。
もしもラースが彼女のことを好きになって……彼女と恋に落ちたとしても。
今度は泣かないようにしよう。
大丈夫、私は強い魔物なんですから。たとえ何があっても、大丈夫なんです。