「よう」
私が中庭に出ると、シーザーが声をかけてきました。いつの間にか彼のそばにはグラントもいて、何か会話をしていたようです。そして、グラントも私の姿に気づくと笑顔で駆け寄ってきました。
「お帰りー! ねえ、何があったの?」
小さな獣人は無邪気に、そして少しだけ不安げに私を見上げて言いました。
「何が……」
私は少しだけ躊躇いつつ、シーザーの方へと視線を向けました。すると、彼は頭をぼりぼりと掻きながら笑いました。
「こっちは見回りが一段落だ。人間たちの動きが少し変わった。森から遠ざかって、どうも様子見といった感じだな」
様子見。
私は唇を噛んで考え込みました。
今回の人間たちの動きというのは、本当に理解できませんでした。ただ、彼らの目的が私という魔物の捕獲にあるのだとしたら?
あの同族の少女を連れてきて、私に見せるのが目的だったとしたら?
あの神官の言葉は胡散臭いとしか思えませんでしたが、それでも、彼女と同じように支配下におきたいと考えているのは間違いないと思われます。
ただ、本当の目的が見えない。
だから、その目的を知るために私は――。
「私は人間たちに接触してこようと思います」
「接触?」
シーザーが困惑したように首を傾げました。「誰と?」
「うーん、とりあえず勇者たちでしょうか」
「誰か一緒にいかせるか? お前一人で行くのはどうも危険な感じがする」
「いえ、大丈夫です。それに、今回は一人で行った方が都合がいい理由がありますから」
そう、彼らに捕まってくるのが今回の魔王様の命令なのですから。
私はグラントの頭を撫でまわしながら、小さく笑いました。
「またお留守番ですねえ」
などと言っていると、シーザーが躊躇いがちに口を開きます。
「お前、あいつと何かあったのか」
「あいつ?」
「以前はいつも一緒にいたろう? ラースって奴だ」
「ああ」
私はその名前を聞いて、自分でも理解のできない胸の痛みを感じましたが、何とか微笑みを返します。「いえ、何もありませんが」
「そうか? だったらあいつと一緒に行くのが一番だと思う。お前は人間について知らないことが多すぎる。俺たちだって人間と接触する機会は少ない。どうも最近は、人間との戦が近いような気がしてならん」
「戦……」
私は眉を顰めました。
私が人間たち――神官に捕まったら、それで彼らは満足するのでしょうか。この森に攻め入らないと約束してくれるのでしょうか。
でも、人間は嘘をつく。
攻撃しない、と上辺だけの約束をして、あっさりその考えを翻すことだって考えられるはずです。
それでも。
「何とか、戦にならない方法を探してみることになると思います」
私はやがてシーザーにそう言ってから、心の中で続けました。
――そう、昔の魔王様と同じように。
「王子と王女か」
魔王様――今の魔王様ではなく、私の敬愛する以前の魔王様は森の中で彼らの姿を見つけると苦笑交じりにそう囁きました。
ユーインを城に残して森へと出て行くと、魔王様は凄まじい勢いで空を飛んで移動していきます。それを追った私は、森に異変がないか確認しながらでの移動でしたので、魔王様の姿を見失わないようにするのが一苦労でした。
深夜、夜行性の動物たちがそれぞれ鳴き、活動している時間帯。完全に静寂というわけではありません。風に揺れる木々、葉のこすれる音も絶え間なく聞こえてくるような夜です。
そんな中で、村に近い場所、森の入り口辺りに人間たちの気配があることが私にも解りました。それもかなりの人数のような気配。
魔王様は人間たちの気配に向かって真っすぐに飛び、そして少し離れた場所に降り立って動きをとめます。私はすぐに魔王様の背後に寄ると、魔王様に習って耳を澄ませました。
声が聞こえます。
風にかき消されてしまうくらい、微かな声。
それでも、意識を集中させればその内容は聞き取れました。
「あの兄をとめられるのは、お兄様だけ」
若干、冷ややかにも聞こえる若い女性の声。
「いや、違う。神殿長だけだろう」
そう応えた若い男性の声には、明らかに苦笑が混じっていました。「もう、兄上は父上の話も聞かない。今回の進軍も、神殿長の言葉に踊らされている」
「確かにそれは事実だけど、今なら何とかとめられるのでは? 父上がもし……もしも……そうしたら、きっとタガが外れるような……」
女性の声は幾分、苦しげに響きました。すると、一瞬だけ男性の言葉に詰まったような気配が伝わってきます。それでも、男性は何とか言葉を吐き出したようでした。
「兄上はそれほど危険なことはしないと思う」
「どうしてそう言いきれるの?」
「残念なことだけど、兄上は『安全なところにいる』のが好きだからだよ。今回の進軍だって、実際に戦うのは兄上じゃない。我々と近衛兵団の人間だけだろう。それはとても残念だけどね」
一瞬、女性が小さく唸ったような雰囲気が伝わってきました。そして何か言いかけたようでしたがそれは言葉にはなりませんでした。どうやら何か異変を感じたのか、すぐに誰何の声が上げてきたのです。
「誰かいるの!?」
女性が鋭く叫んだ直後、明確な緊張の空気が広がって。
「……セオ・カーライル殿下、エルヴィラ・カーライル姫殿下と思われるが、いかがか」
そこで、魔王様がゆっくりと足を進め、彼らの前に出ていきました。私も慌てて魔王様の後に続きます。
そして、暗闇の中に二人の人間がいるのが見えました。木々が鬱蒼と茂る中、葉の合間から月明かりが微かに彼らを照らし出しています。
「誰だ」
セオ・カーライルと呼ばれた男性は、美しい金髪と暗い緑の瞳を持っていました。まだ年若く、二十歳になったばかりといった様子の美青年であります。甲冑は身に着けていませんでしたが、その腰には剣が下がっています。その剣の柄に手をかけながら、彼はこちらを鋭く見据えています。
「魔王?」
その隣にいた女性は、彼と同じ色の長い金髪を後頭部できっちりと編み込んでまとめていました。女性というよりも男性のような黒い服に身を包み、マントを付けている彼女は、小柄ながらもとても存在感がありました。それは、その瞳に理由があったと思います。強気な性格を思わせる双眸は、こちらが人間ではないと気づいていても恐れなど見せてはいませんでした。
「返事はいい。こちらも余計な説明などはしない。だから簡単に終わらせよう」
魔王様は彼らと距離を取って立ち止まり、穏やかに続けました。「兵を引いてもらいたい。我々は余計な争いは好まん」
「あなたが魔王と呼ばれている存在で間違いないなら」
エルヴィラ・カーライルという名前であるらしい女性は声をさらに低くさせました。「その言葉は信用できない」
「悪いが、少しだけ話は聞いてしまった」
魔王様はそんな彼女を無視して、彼女の隣にいる男性へ話しかけました。「君たちの兄上とやら――カーライル王国の次期国王陛下となるであろう、ギデオン・カーライル殿下はこの戦を願っている。そう考えてよろしいか」
「我々の名前を知っているのか」
セオは目を細めて魔王様を見つめました。しかし、剣にかけられた手はそのままです。
魔王様は小さく苦笑して頷きます。
「時々、村の様子を見に出ている。色々と情報はそこで仕入れられるのでね」
「村へ? 何をしに? 神官たちの言う通り、あなたは村人を襲っているの?」
エルヴィラの声が少しだけ大きくなります。そこで、セオが慌てたように彼女を宥めました。
「誰かに気づかれる。黙っててくれ」
そう言ったセオは、素早く辺りを見回します。
ここにいるのは彼ら二人きりのようです。結構離れた場所に人間たちの気配を感じながら、どうやら彼らが仲間たちから離れて秘密の会話をしていたのだろうと理解できます。きっとそれは、彼らの兄上とやら――ギデオン・カーライルという人間に聞かれたくなかった、ということなのでしょう。
「でも、兄上」
そう言って悔しげに唇を噛んだエルヴィラを面白そうに見つめた魔王様でしたが、すぐにその視線をセオに戻します。
「村人を襲ったことはない。そんな面倒なことはしない」
「本当に?」
セオの声には明らかに疑念のようなものが混じっていましたが、魔王様はそれを気にした様子もありませんでした。
「君たち人間がどう考えているのかは解らないが、私が『魔王』としてこの森に現れてからは、必要以外の戦いはしていない。私が求めているのは森の中の安全と配下たちの平安だ。ここは正直に言うが、森の中にいる魔物たちの統率だけは何とかなっている。ただし、世界は広い。私の目の届かない魔物もいるだろう。彼らがもし人間を襲うようなことがあるのなら、君たちは好きに攻撃してくれていい。逆もまたしかり、君たちが我々を攻撃するなら、こちらも反撃しなくてはならない。我々は黙って殺されるような道は選ばん。それを許さないというのなら、君たち人間とは解り合えないと思う」
「確かにその通りだが」
セオは眉間に皺を寄せて続けます。「だが、我々はお前たちが人間たちを無差別に襲っていると聞いた」
「誰から?」
「それは」
「我々は神殿の人間を信用はしていない」
魔王様はセオの言葉を遮って続けました。「私の配下には、神官に捕まっていたものもいる。魔物を隷属化し、自由自在に使いこなそうとする彼らとは話し合いなど成立しないと考えている」
「隷属化?」
「君たちは言われたのではないか? 魔物は危険な生き物であると。見かけたら討伐しなくてはならないと。たとえそれらが人間を襲っていなくとも、だ」
「……」
セオはその整った顔に困惑の表情を浮かべました。そんな彼を見つめたまま、魔王様は笑いました。
「私はこちらから攻撃した覚えはない。だが、君たちは我々を危険だと判断し、狩ることにした。そういうことだろう」
「それは」
「待って、お兄様」
エルヴィラが一歩こちらに歩み寄ります。私は咄嗟に魔王様の前に出て、エルヴィラが攻撃してきたらそれをはね避けることができるよう、身構えました。
「おいシェリル、大丈夫だ」
背後から魔王様の呆れたような声が飛んできます。でも、私はただ緊張して彼女を見つめることしかできませんでした。
エルヴィラは鋭く私を睨みつけた後、すぐに魔王様に視線を向けました。
「お前たちが我々人間に敵意がないとなぜ解る? 戦うつもりがないと言うその言葉が嘘ではないとなぜ?」
「姫殿下」
魔王様が私の肩に手を置いて、ゆっくりと下がらせました。それは少しだけ不満でしたが、従うことしかできません。それでも、彼女が魔王様に攻撃しないか不安で、彼女から目をそらすことはできませんでした。
「敵意がないと証明するのに何が必要だろう」
魔王様がそう穏やかに言った瞬間、エルヴィラが言葉に詰まったようでした。
魔王様はそんな彼女に優しく続けます。
「相手に跪き、忠誠を誓うか? つまり、隷属化せよと仰せかな」
「それは」
「無理なことはしない。私は――我々は貴殿方の家畜でも何でもない。それは理解していただけるだろうか、セオ殿下」
そこで魔王様はセオ王子へと言葉を投げました。「あなたは第二王子であるが、第一王子であるギデオン殿下よりも近衛兵団の人間に人望があると聞いている。その理由が、部下の話をよく聞いてくれるからだとか。私の話も真剣に聞いて考えてくれないだろうか」
「退去の件か」
セオ王子は苦笑しました。いつの間にか、その手は剣から離れていて、居心地悪そうに肩をすくめて見せます。
「兄上は聞かないだろう。たとえあなた方に敵意がないというのが本当だとしても」
「お兄様、信用なんてしないで」
エルヴィラ王女は本当に小さく、セオ王子にだけ聞こえるように囁きました。ただ、耳のよい我々魔物には聞こえるものでしたが。
「姫殿下、失礼だが」
そこで、魔王様が少しだけ揶揄うように続けました。「あなたはとても強い魔力をお持ちだ」
それを聞いて、彼女の目に忌々しそうな色が浮かんだのが見えます。明らかに不機嫌そうな声が彼女の唇から零れました。
「それで?」
「人間において、魔力というのは遺伝も関係していると言われているのを知っている。人間たちの中にいる魔法使いという存在も、ほとんどが親からその魔力を受け継いでいると」
「だから何よ」
彼女が一歩こちらに近寄ったので、魔王様が一歩下がります。必然的に私も。
「姫殿下は幼い頃から、城の塔に閉じ込められていたと聞いた」
え?
私は困惑して魔王様の背中を見つめました。
少し意外な展開だと思ったからです。
魔王様の声はエルヴィラ王女の険悪さが露わの表情とは裏腹に、とにかく穏やかそのものでした。
「詮索好きな貴族連中の間ではいい話のタネになっていたようだな。カーライル王族の中には、魔力を持つ人間は姫殿下しかいない、と。さて、ここで貴族たちの疑問はこれだ。『姫殿下は一体誰の子供なのか?』」
「母上は不義などしていない!」
突然、彼女の周りに凄まじい風が巻き起こりました。彼女の魔力。それは、私が考えていたよりもずっと大きいのだと今気づきました。慌てて魔王様の前に出て、その風圧を自分の身体で受けようとします。
「全く、シェリル」
またそこで魔王様が呆れたようにため息をこぼします。「連れてきたのは間違いだったか」
「私は魔王様をお守りするのが役目です」
「もういいから下がれ」
そこで魔王様は乱暴に私の頭を掻き回すと、無理やり私の腕を引いて後ろに追いやります。納得できません。
「とにかく」
魔王様は軽く右手を上げ、彼女からこちらへと向かってくる風の刃をさらりと受け流しました。「姫殿下はずっと、不義の子であると噂されていた。これは事実であるのは確かだ」
「エルヴィラ、落ち着け」
セオ王子が彼女の方に手を置いて囁きます。しかし、王女の目には怒りが燃えていて、とても落ち着くなんて状況ではないのは確かでした。
「それゆえに塔に閉じ込められ、幼少の時は外の世界を知らずに育った。それでも、姫殿下は今、こうして森にやってこられた。つまり、塔から出て生活しておられる。それは、どうやって今の状況を作った?」
「それは」
エルヴィラ王女の目が苦痛に歪みました。「懇願したからだ。出して欲しいと。この魔力を国のために使うと父上に誓って、許してもらったからだ」
「つまり、不義の子ではないと証明できたわけではない。そうとも、『していない』ことを証明するのは難しいからだ。たとえ、姫殿下が不義の子ではないというのが事実であっても、証明できなかった」
「黙れ」
「姫殿下は我々に敵意がないということを証明しろとおっしゃる。それは、どう違うのだ。姫殿下が苦しんできた幼少時代の時と、今の我々。どこがどう違う?」
「証明しろとは言っていない!」
そこでエルヴィラ王女は苦しげに叫びました。「お前たちは敵なのだ! そうでしょう、お兄様!」
そこで、セオ王子が困惑したように眉間に皺を寄せ、疲れたように髪の毛を掻き上げました。
「……今の声を聞いて誰かくるかもしれない」
「う」
エルヴィラ王女が我に返ったように手で自分の口を覆いました。気まずそうな視線がセオ王子に向かいます。
「確かに我々は敵同士だ」
セオ王子はそこで魔王様に顔を向け、静かに笑いました。「ここで私とお前……あなた方と一緒にいるところを兄上に見られるとこちらも立場がまずいことになる。すまないが、これで話は終わりだ」
「そうか」
魔王様は小さく頷きました。「だが、考慮してもらえると助かる。君たちの兄上を説得して、森から退いてもらいたい」
「考慮はしよう」
セオ王子はそこでエルヴィラ王女の腕を引いて、我々から少しずつ遠ざかろうとします。「ただし、期待はしないで欲しい。長兄は人の話を聞かないことでは有名なのでね」
「解っている」
魔王様は楽しそうに笑い声を上げました。その笑顔を見て、セオ王子の困惑はさらに強まったようです。
「その表情が演技なら尊敬に値する」
彼はそう言い残した後、木々の合間に妹を連れて消えました。
そして、その場に残された我々はといえば。
「彼女は何となく……気にかかるな」
魔王様は低く笑って、そう呟いていました。
――気にかかる?
私が困惑して魔王様の顔を見つめていると、魔王様はそんな私の視線に気づいて、また私の頭をくしゃくしゃと掻き回して笑います。完全に子供扱いされている、と思いました。
「とにかく、第二王子殿下の交渉能力に期待しよう」
魔王様はそうおっしゃって、城へと戻るために地面を蹴って空へと昇りました。
私はそんな魔王様を追って。
何となく、厭な感じがしたのは否定できません。
そしてそれは的中することになったのです。
魔王様はそれから、夜になると外出することが増えました。私もご一緒できれば、と考えていたのですが、魔王様は毎晩、気が付けばお一人で外に出られてしまう。
何となく、彼ら――人間たちの様子を見にいっているのだろうとは予想がついたのですが、私はただ城でおとなしく魔王様の帰りを待つこと以外はどうしようもありませんでした。
ユーインもどことなく、魔王様の外出を気にしているようでした。
やはり、魔王様だけでの外出は不安があります。もちろん、凄まじいまでの魔力をお持ちの魔王様のことですから、それほど危険は考えなくてもいいのかもしれません。
それでも、私は納得できませんでした。
だからある晩、私も様子を見るために森へ向かうことにしたのです。魔王様に気づかれないように、かなりの距離を確保しながら、自分の魔力の気配を消そうと努力しながら。
そこで見てしまいました。
最初は理解できませんでした。理解することを私の頭が拒んでいたのだと思います。
魔王様はエルヴィラ王女と一緒にいました。
セオ王子の姿はどこにもなく、森の人気のない場所で二人きり。
その時のエルヴィラ王女は、以前見た時とは随分雰囲気が違っていました。強気な瞳はそのままでしたが、魔王様に笑顔すら見せていて。その笑顔が、照れているような、そして不安げであることも、遠目でも解ったのです。
そこで。
――愛している、という魔王様の声。
――信用できない、と返したエルヴィラ王女の声。
「証明は難しいな」
魔王様がそう言って笑っています。でも、その笑顔は。
そんな笑顔は今まで見たことがありませんでした。城でも、穏やかに笑っているのが当たり前である魔王様でしたが、それでも。そんな熱っぽい眼差しの魔王様なんて見たことがなかったのです。
それに続いたのは、二人の……。
魔王様が彼女を抱き寄せて、そしてお互いの顔が近づいて。
――こなきゃよかった。
私は自分の軽率さを呪いました。
どうしても気になってしまったから追ってきてしまった自分が滑稽でした。
私は二人に気づかれないように細心の注意を払って、その場を離れます。森を無茶苦茶に進んで、暗闇の中でただ茫然として。
「お帰り」
城に何とかたどり着いて、自分の部屋へと向かおうとした私の前に、ユーインが立って迎えてくれました。
「……ただいま帰りました」
私はユーインの顔を見ることができませんでした。足元がふらついています。まるで貧血みたいな感覚の中、ただ部屋に向かうことだけを考えて。
そこで、ユーインが私を優しく抱き止めました。
「いつか、思い出にできる日がきます」
ユーインは静かに私の耳元で囁きます。まるで、私がさっき見てしまった光景を知っているかのように。それとも、本当に知っているのかもしれない。私が魔王様の外出を気にしていたように、ユーインも心配していたのは事実なのです。
もしかしたら、魔王様の毎晩の外出の理由をユーインは知っていたのかも。
そう、私よりもずっと前に。
あの二人の逢瀬を。
「思い出になんてできません」
私はユーインにしがみついてその胸に頭を押し付けました。「一緒にいられるだけで幸せなんて、嘘です。私、私は」
「シェリル」
「魔王様が好きです。誰よりも好きなんです」
そう重ねて言うと、ユーインは優しく私の頭を撫でました。
「解ってますよ。あなたは本当に不器用だから」
「こんなにつらいなんて……」
私はそう囁くと、ユーインの胸の中で泣きました。