本日の魔王様 30


 異変を感じたのは、それから数日後だったと思います。
 魔王様の夜の外出は続いていましたが、その表情が曇り始めたことに私もユーインも気づきました。
「どうかなさったのですか?」
 ユーインが大広間にいた魔王様にそう問いかけると、魔王様は疲れたように額に手を置きながら笑いました。
「どうも、厭な気配がする」
「厭な気配ですか?」
 ユーインが怪訝そうに眉を顰めたのを私は見つめ、それから視線を魔王様へ戻しました。その時、魔王様の目が大広間の大きな窓へと向けられました。
 そして、私たちも気づきました。
 窓の外に人間たちの気配。

 魔王様がバルコニーに出て行きます。
 その後をユーインが追い、おそらく魔王様が見た光景と同じものを見たのだと思います。その肩が緊張に震え、後ずさっています。そして、慌てたように私の方へ顔を向けると、鋭く言いました。
「神官がいます」
 それを聞いて、私はすぐにユーインの前に立ちました。ユーインの姿が外から見えないように、大広間の中に押しやりながら。

 確かにユーインの言う通り、神官らしき男性が一人、そこにいました。
 しかし、それよりも目立っているのは騎士らしき人間の多さです。いかにも高価だと思われる甲冑と、飾り石のついた剣を身に着けた男性たちが何十人も。
 そして、その彼らの先頭に立って馬に乗っているのが。
 ギデオン・カーライル王子だろうと予想はつきました。
 誰よりも派手な甲冑と、自信あふれる表情。金色の髪の毛は、セオ王子たちと同じ色でした。
 ギデオン王子の横には、神官服に身を包んだ男性。その神官は、ギデオン王子を守るかのように傍に控えていました。
 魔王様は最初、口を閉ざしたまま彼らを見下ろしていました。
 外は夕暮れが近い時間帯でした。空は赤くなりはじめ、風が冷たくなる直前の時間。
「お前が魔王か」
 ギデオン王子がどことなく馬鹿にしたような笑顔を浮かべつつ、魔王様を見上げていました。
「……だとしたら?」
 魔王様は低く返しました。
 すると、ギデオン王子はどこから取り出したのか、その手の中に風に揺れる何かを持って、地面へと投げます。
 何だろう、と私が目を細めてそれを注視すると、どうやらそれが――髪の毛の束だと気づきました。
 血に汚れ、束ねられた金色の髪。

「処刑した」
 ギデオン王子がそう言った瞬間、魔王様が僅かに息を呑むのが聞こえました。

「いえ、殿下。……尊い犠牲です」
 すぐに王子の横にいた神官が咎めるような口調で続けます。しかし、ギデオン王子はそれを聞き流したようで、さらに厭な笑顔――悪意の塊のような笑顔を浮かべて肩を揺らしました。
「あの女は魔王に通じていた。つまり、我々を裏切ったのだ。万死に値するとはこのことだろう? 曲がりなりにも王家の――いや、形だけは王家の血筋だったはずなのだがな」
「……処刑した? 姫……王女を?」
 魔王様がその手をバルコニーの桟にかけ、強く握りしめます。
 すると、ギデオン王子は笑みを消して舌打ちします。
「王女とも言いたくはないな。私の妹とも認めない。魔王に誑し込まれた婢女(はしため)とはあれのことだ」
「馬鹿なことを……。処刑?」
 魔王様が笑ったような気配が伝わってきました。私の位置からは、魔王様の背中しか見えません。どんな表情をしているのか、見たくないと思いました。きっと、苦しんでおられるから。

「処刑ではありません、殿下」
 神官がさらに口を挟んできましたが、ギデオン王子はそれを遮ってさらに続けました。
「お前と会わなければ、生きていられただろうに。あの女、お前の命乞いをしたぞ。森から撤退してください、と。あれが死んだのは、お前のせいだ。お前が関わったから、お前があの女に手を出したから」
「殿下」
「うるさい」
 そこで、ギデオン王子は神官を睨みつけて腰に下がっていた剣に手をかけました。その途端、神官が顔を青ざめさせて口を閉ざします。
「弟君はどうした。貴君よりも人望が厚いという噂の、セオ殿下は?」
 魔王様が酷くゆっくりとその台詞を発音していきます。いつもとはあまりにも違う魔王様の様子に危機感を覚えたのは、きっと私だけではありません。私の後ろでユーインの魔力の気配が強くなっていくのも感じます。
「セオ? お前が殺したのだろう?」
 そこで、ギデオン王子が低く笑いました。「あの女に手を出し、それを邪魔する兄……兄らしき生き物を殺した。さらに、それに気づいたセオの側近たちも手にかけた。だから我々はここにやってきたのだ。私の弟を殺した魔王を倒すために」

 ――え?

 私は一瞬だけ彼の言葉に困惑し、そしてすぐに理解しました。

 ギデオン王子は、セオ王子をも殺した。
 そして、近衛兵団の人間に、魔王様が彼を殺したのだと嘘をついて連れてきた。そういうこと。
 そう気づいてしまえば、近衛兵団の騎士たちの様子が一様に怒りに満ちた視線をこちらに向けていることも理解できました。
 ――こんなの、って。
 私が茫然としている一瞬の間。
 魔王様の身体はぴくりとも動かなかったのに。

 突然、ギデオン王子の周りが赤く染まりました。
 血の雨。
 足元の草に叩きつけていくかのような、水飛沫――いえ、血飛沫が。

「森から出て行くといい」
 その直後、魔王様が何の感情もない声でそう小さく言って、身を翻しました。大広間の中へと入ってきた魔王様の顔は、今まで見たことのない表情をしていました。いつも悠然と、穏やかな表情をしている魔王様ではない、別人の顔。
「無駄な殺生をした」
 魔王様がそう呟いた瞬間、ギデオン王子が悲鳴じみた声を上げました。
 今、庭で生き残っているのはギデオン王子だけでした。
 一緒にやってきた近衛兵団の騎士たちも、そして神官も、地面の上に転がっていたのです。

 そして。

 ギデオン王子は森から逃げました。自分の帰る場所、カーライル城に戻り、そのまま我々に関わらないでいて欲しかったと私は思います。
 しかし、彼はどうやら、神殿に助けを求めたのです。
 神殿で、神の祝福を受けた剣を手に入れた勇者と、勇者と共に戦う魔法使いと。そんな彼らと一緒に行動していた神官に魔王様の討伐を命じたのです。
 魔王様はどうやら、『無駄な殺生』を悔いておられるようでした。
 魔王様の城の中は、ただ重苦しい雰囲気で。
 魔王様を心配する配下の魔物たちもざわついていて。
 そんな状況で、戦いは始まりました。
 いいえ、虐殺が始まりました。
 勇者たちによる、魔王討伐。魔物討伐。それはあまりにも簡単に、短い期間に達成させられたのです。

「おい、シェリル」
 私はシーザーの困惑したような声で我に返りました。
 辺りをゆっくりと見回してから、私はシーザーに微笑みかけます。
「何の話でしたっけ」
「村に行くなら誰か一緒に連れていけって話だ」
「……一人の方が好都合なんだと思いますけど」
 私がぼんやりとそう返すと、シーザーは乱暴に頭を掻きながら唸ります。どうやら彼は私のことを心配してくれているようです。
「あ、いたいた!」
 そして、そこに突然姿を表したのはギルバートで。彼は上機嫌そうに耳をピンと立てて、尻尾を振りながら走ってきます。
「村に行くなら俺もー!」
 と、彼は私のそばにあっという間に駆け寄ってくると、肩を乱暴に揺さぶってきました。

「すみません、ちょっと急ぐので」
 私は何とかギルバートに微笑みかけると、彼の手を振りほどいてシーザーの肩を軽く叩きました。心配しないでください、という意味を込めたつもりでしたが、彼はさらに唸って不満を露わにしてきました。
 とにかく、私の今やるべき使命は、人間に捕まってくること。
 彼らが何を企んでいるか調べてくること。
 のんびりしている時間なんてありません。早く行動を起こさないと魔王様に失望されてしまいます。
 だから、私は何か言いたげなシーザーをその場に残したまま、空間移動のために魔力を使いました。目の前が歪む感覚、そして眩暈。
 森の出口辺りまで一気に飛んできた私は、しばらくその場に立ち尽くしていました。
 そして、何となく厭な予感がして森を振り返りました。
 ――ギルバートが追いかけてくる前に、何とかしないと。
 私はそう心の中で呟くと、村の中へと足を向けました。クレイグたちがいるであろう宿屋の方へ。

 ただ、同族の『彼女』の気配は感じませんでした。
 宿屋の前に立って、思わず首を傾げてしまいます。もう、彼女はこの村にはいないのかも?
 彼女の敵意のある瞳も気になります。今まで会ったことがないのに、あれほどまでに嫌われる理由って何があるんでしょうか。
 そんなことを考えつつ宿屋の窓を見上げていると、案の定というか何というか、私の魔力の気配に気づいたらしい神官の男性が窓を開けてこちらを見下ろしてきました。
 そして、少し遅れてクレイグとコンラッドも顔を覗かせます。
「……すみません」
 私は恐る恐る彼らに声をかけました。「もう、さっきの神官たちはいないでしょうか?」
「何でここにきた」
 クレイグが窓の桟に手をかけたまま、困惑交じりに言います。隣にいるコンラッドの表情は何の感情もなく、冷ややかです。しかし、神官の年配の男性は何とも複雑そうに苦笑を漏らしました。
「危機回避能力がないと言われないかね」
 神官がそう言って、私はぎこちなく首を傾げました。
「……さっきの人間たちがいないなら多少は安全です」
「確かに」
 神官が頷いたその横で、クレイグが真剣な口調で言いました。
「お前は帰った方がいい」
「帰った方が?」
 私は慌てて首を横に振りました。「そういうわけにはいきません。あの、少しは説明してもらえないでしょうか」
「何の説明だ?」
「あの……ええと」
 私は必死に質問する内容を考えました。「さっきの彼女のことです。同族の……彼女、とてもあの説明では納得できないのです」
 これはいい質問だ、と自分でも思いました。
 とにかく、私がここにいる理由としては充分な内容でしょう。違和感など感じるはずがない、完璧な質問です。
「先ほどの神官たちは、彼女を保護したと言いました。それは事実でしょうか」
 私が彼らを見上げて質問を続けていると、近くを通りすがる人間たちが怪訝そうにこちらに視線を向けています。それに気づいた神官が、小さくため息をついてからクレイグに何か耳打ちしました。
「……上がってこい」
 クレイグは神官の言葉に小さく頷いてから、私に向かってそう言います。なので、手っ取り早く地面を蹴って一気に窓の中へと飛び込むと、呆れたようなクレイグの声が上がりました。
「せめて人間っぽく振る舞ってくれ。悪目立ちしてるぞ」
「あ、すみません」
 確かにそうだ、と窓の外を見下ろしました。案の定、私の動きに驚いたような様子の人間たちがこちらを見上げているのが解ります。
 そして、ついでに気づきたくなかったことも。

「シェリル! おーい! シェリルさーん?」
 と、ギルバートが窓の下で手を振っている姿が見えました。
 私がため息をついて頭に手を置いていると、コンラッドが窓のところで短く吐き捨てるように言うのが聞こえました。
「お前はそこで死ね」

 ――明らかに険悪そのもの。

「死んだ気になってお前に奉仕すると誓おう」
 ギルバートが酷く真面目な表情でそう言いましたが、コンラッドの冷たい表情は全く動きませんでした。
「いいからそこで死ね」
「やっぱり思ったんだけどさ、前にもう会わないって約束したじゃん? でもさ、諦められないっつーか気になるっつーか」
「……約束を守れないのはお前もだな。死んだ方がいい」
「でもさ、身体の関係から始まる恋もあ」
 そこで凄まじい轟音が響き渡りました。それと同時に、コンラッドが乱暴に窓を閉めてから腕を組んで私を見やります。
「死体を持ち帰れ」
「え」
 私が困惑して首を傾げていると、コンラッドは近くに置いてあった木の椅子に腰を下ろします。そして気が付くのは、この部屋にあったベッドは二つだったと思うのに、今は一つしかないということ。
「……宿を追い出されるのも時間の問題だな」
 クレイグが疲れたように壁に寄りかかり、うんざりとした様子で天井を見上げています。
 ――さっきの轟音。
 きっと、ベッドが破壊された音なんでしょうねえ。おそらく、ギルバートの身体の上で。
 私は曖昧に笑いながら口を開きます。
「獣人の生命力は侮れません。特に相手が……アレですから」
「くそ」
 コンラッドの眉間に深い皺が寄りました。

「……すまないが、説明できることはないだろう」
 やがて、その場に立ち尽くしたままの神官が口を開きました。その途端、その場にいた人間たちの視線もそちらに向かいます。
「どういうことでしょうか」
 私はできるだけ自然に見えるように笑顔を作りながら問い返します。「口止めされている、ということでしょうか?」
「口止めも何も、俺たちはきっとまともな説明を受けていないんだ」
 そこでクレイグが一つだけ残ったベッドに腰を下ろし、苦々しく言葉を吐き出します。「何しろ、彼らがいきなり彼女を連れてきて言った言葉が、『必要以上のことは説明できない』だからな」
「では、あなたは?」
 私は再度神官に目をやって、その表情を観察するように努めました。しかし困惑しているのは明らかで、しばらくの間、彼は言葉を探しているようでした。
 やがて、神官はため息交じりに口を開きました。
「山の神殿のことはよく解らんのだよ。神官にも色々いるのでね、私のように何が起きているのか全く知らない者も多いだろう」
「つまり、彼らはミアス山から――山の神殿からやってきたと?」
 何となくそう感じてはいましたが、何も知らないふりを装いつつ質問を続けます。「今回の全貌は、山の神殿の神官たちしか知らない、そういうことなんですね?」
「そうだ」
 神官はそっと苦笑してから、少しだけ口元を引き締めました。「そして、私は何も知らないとはいえ、神官という立場だ。だから、彼らの命令には従うしかない。君を捕縛せよというのなら、全力でそうしなくてはならないわけだ」
「なるほど」
 私は小さく頷きます。そして、ふと思い出したことに意識を囚われて小さく唸りました。
「そう言えば、尊い犠牲とか言ってましたよね」
 私はそう言いながらクレイグを見つめました。
 その途端、彼は渋い表情でため息をこぼしました。
「俺をあの変態魔王に引き渡す代わりに、お前を……ってヤツか」
「はい」
「何だか、もううんざりだな」
 クレイグはその言葉の後で、宙を見つめたまま独り言のように続けます。「もっと単純だと思ってた。『勇者』ってやつはな」

「なぜ、勇者に?」
 私は素直に疑問を口にしました。「もともと、あなたは騎士団に所属していたわけですよね?」
「……ああ」
 クレイグは暗い瞳をこちらに向けて笑います。「騎士団にいることに意義を感じられなくなったからだ。だから、もっと有意義な――魔物を倒し、魔王を討伐する、明確で正しい道を選んだはずだった。だが、ここにきてその意味すら解らなくなりつつある。……コンラッドには馬鹿にされるだろうが」
「ああ、馬鹿だと思うね」
 コンラッドはそこで低く笑いました。「剣を振り回すしか能のない人間は、多くを望むもんじゃない。ただ目の前にいる魔物を倒す、それだけでいい」
「本当に?」
 クレイグが真剣な眼差しをコンラッドに向けます。「それが本当に正しいと思うのか?」
 そして、コンラッドが冷ややかに見つめ返しました。
「だから勇者なんてやめろと言ったんだ。お前には向いていない」

「来たな」
 急に神官が緊張したように囁きます。
 ――何が来たというのか、と訊こうとして、その直前に理解しました。
 空間が歪むような気配。誰かがこの場所にやってくる気配。それは。

「最後の警告だ。我々は君を庇えない。逃げるなら今が最後のチャンスだ」
 神官はまっすぐに私を見つめていました。
 私は一瞬だけ困惑したものの、すぐに首を横に振って笑いました。

「私が逃げたら、クレイグ――勇者が犠牲になってしまうじゃありませんか」

 その途端、彼らの視線が同時に私に向けられて。
「馬鹿なのはクレイグだけじゃないらしい」
 コンラッドが呆れたようにそう呟くのと、その部屋の空気が歪み、空間が爆ぜるような衝撃が伝わったのが同時でした。


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