本日の魔王様 34


 私の喉から獣じみた苦痛の声が上がりました。右腕の付け根が熱い。床に転がっている私の右腕を見下ろしながら、左手でもともとあったはずの場所を押さえました。
 押さえた場所から血が凄まじい勢いで吹き出しています。何とか治癒の魔力を使って血をとめようとしましたが、魔力が手のひらに集まる前に四散してしまうのも解りました。
 神官による傷は塞がりにくい。
 そうユーインが言っていた通りです。今の私の魔力では、この傷は治せない。
「シェリル!」
 今にも泣きそうなグラントの声が聞こえてきて、私の身体に抱き付いてきましたが、私はその時、目を開けるのもつらくてその場に膝をついたままでした。
「何故、かばった!?」
 そこで苦し気なラースの声が聞こえてきたので、必死に目を開けて彼を見上げました。彼は私のそばに膝をつき、私の右肩に手を置いています。眉間に皺を寄せた彼は、酷く焦っているようにも見えます。
「……すみません」
 そう言った私の声はかすれていました。

 怪我はないだろうか。

 そんなことをぼんやりと考えつつ、私はラースの身体をのろのろと見つめました。そして、どこにも怪我がないということが解ると安堵の息を吐きました。
 魔王様が人間に殺された時のことが頭に浮かんで、胸が痛みます。そして今、思うのは。
 よかった、今回は失敗しなかった。
 ――ただ、また死に損なってしまったけれど。
 今、死んでいたら『完璧』だったのに。
 大切な誰かを守って死ねたら、きっと幸せだったのに。

「……彼女を連れて逃げてください」
 私はラースの顔を見つめ直し、何とかそう言葉を吐き出しました。自分の声ができるだけ事務的に聞こえるように気を付けながら、ラースから目をそらします。
 床に倒れているコルネリアの白い頬を少しだけ見つめてから、私はゆっくりと立ち上がりました。グラントが私に抱き付いたまま、それを引き留めようとしています。
「大丈夫」
 そう言って彼の頭を撫でようとして、利き腕がないことを思い出すのは情けないことです。
 血が流れ過ぎているせいで、立ち上がるのに苦労しました。それでも、床に落ちた腕を拾ってから、働かない頭を何とか使ってグラントに言いました。
「すみません、気持ち悪いでしょうが、この腕を持って安全な場所に逃げてください」
「やだよ!」
 すぐさまグラントが首を横に振りました。
 こうしている間にも、だんだんと靄がかかったように目の前が白く染まっていきます。グラントの姿さえ、ぼんやりとしたものとなっていき、彼の表情までは上手く見て取ることができません。ただ、少年が鼻をすする音が聞こえてきて、今にも泣きそうなのではなく、泣いているのだと知りました。
 だから、私はできるだけ普通の笑顔を作って言いました。
「後でくっつけますから、安全な場所に置いておいて欲しいんです。駄目ですか?」
「くっつくの!?」
 それを聞いて、グラントが混乱しきったような声を上げます。
 私は曖昧に笑いました。無理かもしれませんが、可能性はあるかもしれません。だからこう続けました。
「気合いと根性でくっつけてみせます」
 その前に死なないようにしなきゃいけない……かもしれないですねえ。
 そんなことも考えたりします。私が死んだら、グラントが悲しんでしまうかもしれないし。
 死んでしまいたいと思いつつも、ほんのわずかな心残りが私をこの世界につなぎ止めようとする。不思議なものだと思ってしまいます。
「うー」
 やがてグラントが不承不承といった様子で頷く気配を感じて、私は安堵の息を吐きました。

 その時、誰か――神官らしき声が辺りに響きました。
「腕などなくてもいい、捕まえろ!」
「女もだ!」
 途端に伝わってくる、敵意の波。それは空気を震わせていました。
 私は思わず身構えましたが、眩暈も覚えて焦っていました。グラントと話している間にどんどん体力が消耗していって、今では身体が震えまています。酷く寒かったですし、白く霞んだ目の前がゆっくりと暗くなっていく。これでは戦えない。
「下がれ!」
 そう叫んだのクレイグでした。
 私の前に立っているであろう彼の姿もよく見えません。でも、彼は神官に対して完全に敵対する立場としてそこにいました。私を庇うようにして立つ彼のことを、複雑な思いを抱えながら私は笑うのです。
 ――本当に真面目な人、だから。
 だから。

 もし、私も彼のことが好きになれたら、もう少し……楽だったろうか。
 もちろん、魔王様の思い人なのですから、絶対にあり得ない、許されないことですけども。

 そこで私は軽く頭を振って、そんな馬鹿げた考えを振り払いました。ただ、そのせいで眩暈はさらに強くなり、地面が揺れている感覚に囚われて。

「シーザー」
 私はふと、その名前を呼びました。どこかにいるはずの彼。
 獣人なら少しくらい精気を吸いすぎても大丈夫、と言ったユーインの言葉を思い出したからです。
「シーザー? すみません、少しだけ精気を……」
 そう言いかけた瞬間、私は背後から誰かに抱き止められました。
 誰か、に。
「シェリル」
 そう私の耳元で囁いたのはラースでした。

 心臓が震えました。
 いえ、心臓だけではなく、身体中が。

 駄目だと思いました。
 今の私は、彼のことを好きだと自覚してしまっています。だから、彼に酷く優しく抱きしめられているこの状況は、とても苦しくて仕方ありませんでした。

 今のラースは、私の好きだったラースじゃないはずだと自分に言い聞かせます。
 彼が一緒にいるべきなのは、コルネリアの方だから。彼女のことが気にかかると言ったのは彼なのだから。
 だから。
 だからもう、私はあなたなんか好きじゃない。
 あなたも私のことなんか、好きじゃない。 

 私は何とか彼の腕を振りほどこうとしましたが、その前にラースが私の唇をキスで塞いだのが解りました。利き腕がないことをこれほどまでに呪ったことはありません。押しのけることが難しいからです。
 もう片方の腕はラースに握られたままで、動かすことができませんでした。
 でもきっと、本当は押しのけたくなかったのかもしれません。
 以前、彼と交わしたキスよりもずっと、今のキスの方が優しかったから。

「精気が必要か」
 僅かに私の唇に触れるくらいの位置で、彼の唇がそう動きました。
 私は何も言えませんでした。その代わり、もう一度彼が私にキスをしてきた時、ただ黙って彼の唇から彼の精気を分けてもらうことにしたのです。
 これはお礼?
 私が彼を庇って怪我をしたから、その責任を感じた?

 それならそれでいい。そこに何の感情もないなら。

 彼の唇から精気を奪うと、私の目も見えるようになりました。それと、少しだけ身体が暖かく感じます。自分の右肩を見ると、まだ血は流れているものの、先ほどよりもずっと痛みは少ない。
「ありがとうございます」
 私はラースを見上げ、小さく笑いました。それから、ゆっくりと身体を捻って彼の腕の中から逃げると、周りを見回して続けました。
「神官たちの狙いは私とコルネリアです。一緒にいるより、別れて戦った方が得策です」
 私はふと、前方にいるクレイグの背中を見つめました。
 彼は剣を抜いていましたが、神官たちから放たれる『神の力』をその剣で受けるだけで精いっぱいのようでした。きっと、その剣では――神官による祝福を受けた剣では、攻撃はできないのでしょう。
 彼は時折、こちらを気にしたように振り向き、私がまともに動けるようになったことに気づくと、大きな声で叫んできました。
「早く外に出ろ!」
 私はその声を無視して、彼の近くに寄りました。
 そして、左腕に魔力を集めました。
 爪が伸びる感覚。これなら戦える、と安堵した時。

 私の前にラースが立って言うのです。
「怪我してる奴は下がってろ」
 その背中。
 こんな状況で、神官たち相手にとても不利な立場にいるというのに、その姿はあまりにも堂々としていて。
 彼は少しだけこちらを振り向くと、小さく笑って言いました。
「今度は俺がお前を守ってやる」

 ――駄目だ。

 私が彼に何か言うよりも早く、ラースの右腕に魔力が集中していくのが見て取れました。
 その手の先。
 何もなかった空間に突如として現れたのは、普通の人間では扱うのは難しいだろうと一見して解るほどの大剣です。刃は分厚く、鈍い輝きを放ち、柄はただ無骨。
 彼はそれを強く握りしめると、軽々と一閃させました。その途端、凄まじい風圧が渦となって巻き起こり、前方にいた神官たちを吹き飛ばします。壁に叩きつけられて呻き声を上げる神官たちを見下ろし、ラースは低く笑いました。
「戦い慣れしてねえなあ。ま、当然だろうがな」
「ラース!」
 私が何とか彼の名前を呼びましたが、ラースは視線をクレイグに向け、短く言います。
「その女を連れて逃げろ」
 その女。
 床で意識を失ったままのコルネリアのこと。
「団長?」
 そこでクレイグが困惑したように剣を握り直し、横目で彼を見やります。
 ラースは大剣を肩に担ぎ直し、僅かに首を傾げながら苦笑しました。
「負け戦に付き合うのは馬鹿のすることだ。そうだろう?」
「俺は馬鹿だって言われてますよ」
 ふと、クレイグの口調が改まって応えます。「昔からそうでした。……騎士団に入った時から」
「昔は昔だ。今は……シェリルを頼む。このままじゃそいつも死にかねん」
「それは……」
 クレイグがそこで苦しげに口元を歪めて私を見ました。
 でも、私はそんな二人を睨みつけながら言ったのです。
「お断りします」

 私はそこでラースの隣に立って、神官たちを見つめました。
 壁に叩きつけられた神官たちは呻きながらも立ち上がり、警戒したようにこちらを見詰めています。コルネリアの方へ近寄ってこようとしている人間もいました。
 神殿長はラースの攻撃が届かないであろう遠い場所で、何か近くにいる神官たちに命令をしています。しかし、命令を受けたと思われる神官たちの顔色は優れません。
 この場には、私たちだけではなく、獣人たちもいます。他の魔物たちも窓から入ってきていて、混乱の様相を呈していました。
「魔王様のために戦うために私はここにいるんです」
 ラースの方を見ずにそう言いましたが、本音は違います。
 でも、それは絶対に口にはできません。

 そして唐突に気づきました。

 ――そう言えば魔王様はどこに?

 辺りを見回してみても、ただ神官たちが必死の様子でこちらを攻撃しようとしているだけです。攻撃というか、我々――私とコルネリアの捕獲が目的、というか。
 ただ、魔物たちが神官たちの目的を阻むために攻撃しているため、辺りはただ神官たちの怒号に近い声が上がっているだけ。
 私が困惑して辺りを見回している間に、ラースがまた剣で辺りを薙ぎ払います。神官たちの叫び声が次々に上がるせいで、神殿長が何か叫んでいる声もかき消されてしまいました。
 神官たちはラースが強敵だと気づいたのか、目くばせをしあって彼を同時に攻撃しようとしています。
 私はつい、彼の背中合わせに立ち、もう一度この身を犠牲にしてでも『神の力』がラースに届かないようにしようとした、その時でした。

「ふっふっふ」
 と、魔王様の傲岸不遜そのものといった含み笑いの声が辺りに響きました。
 しかし姿は見えず、誰もが困惑して動きをとめます。
「ふははははは」
 また魔王様の楽しげな声が辺りに響き、あまりにも唐突に、私たちと神官たちの間にその姿が現れました。まるで、どこからか降ってわいたかのように。
 そして。

「これ、なーんだ?」
 と、魔王様がその整った唇を邪悪な三日月の形へと変えて、その手に持ったものを高く掲げました。

 神殿長の言葉にならない叫び声が上がったと思います。

 魔王様の手の中に握られたもの。
 魔王様の手は、まるで火傷でもしているかのように変色していました。そこからは薄い煙すら上がっていて、肉の焼ける不快な匂いまで伝わってきましたが、誰もがそんなことどうでもよかったのだと思います。
 何故なら、魔王様の手の中にあったのは『神の石』だったからです。

 祭壇の上に飾られていた、この神殿の――そして全ての神官たちの力の源とでも言うべきもの。
 それが魔王様の手の中で強烈な力を放っていました。『神の石』が持つ神聖な力は、魔王様の手を、そして腕を、凄まじい勢いで焼き尽くしていこうとしていましたが、魔王様はそれを気にした様子もなく笑い声を上げています。
「愚かなり、神殿長とやら! 魔物を同衾させることに必死で、一番大切なものから目を離すとは!」
「やめろ、返せ!」
 今までで一番、魔王様は恐ろしい微笑を浮かべていました。
 美しい顔をしているからこそ、余計に際立っています。魔王様の悪意の塊ともいうべき笑み。神官たちの動きが完全にとまり、誰もが息を呑んで魔王様を見つめているのです。
 そして魔王様は悠然とその石を自分の胸元に持ってくると、もう片方の手をその石の上にかざしました。
「私は興味あるぞ、神殿長。この『神の石』とやらだが」
「返せ! それは!」
「長い年月をかけ、穢れのないものたちの命を――血を捧げて力をつけてきたこの石、本当に綺麗な色をしている。いや、無色透明というべきか? ただ穢れのない色」
「魔王よ、何を!」
「ふっふっふ」
 そこで、魔王様の爪が一気に長く伸びました。
 その唇も、さらに口角が上がって、今にも裂けそうな形へと変化して。

「試してみようではないか? 生まれながらにして穢れきった存在、魔王の血を受けたらどうなるのかを」

 神殿長の耳障りな悲鳴。
 そして、魔王様の鋭い爪がもう片方の手首を思い切り抉って、その傷口から真っ赤な血が吹き出しました。それは凄まじい色。深紅の血。

 美しく輝いていた『神の石』がその血を受けて、赤く染まった数瞬後、その色はどす黒く変化していきます。
「ふはははは」
 魔王様が高らかに笑い声を上げる中で、『神の石』はおそらく――『魔の石』へと変化したのです。


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