禍々しいまでに黒く染まった石は、魔王様の手の中で先ほどとは違う輝きを増していきました。すると、魔王様の焼けただれた手と腕も、ゆっくりと治癒していきます。
「綺麗なものというのは、簡単に汚れるものだ」
魔王様はそうおっしゃって、まじまじとそれを見つめた後、無造作にその石を神殿長へと投げつけました。
神殿長は慌てた様子でそれを受け止め、黒曜石のようになった『神の石』を苦々しげに見下ろしました。
しかし、その表情が変化していきます。
神殿長の肩が震え、全くの無表情となり、その場に膝をついて唇を震わせました。
「神殿長」
そばにいた神官の一人が、神殿長の肩に手を添えると、神殿長がまるで激痛でも覚えたかのようにそれを振り払います。
そして、床に膝を突いたままの神殿長の手から、ごろりと『神の石であったもの』は真っ白な床に転がり落ちました。
「汚れた石はどうだ、神殿長」
そこで、魔王様は少しだけ眉を顰めて神殿長を見つめます。「見事なまでに私の欲望にまみれてくれたようだが……」
何だか魔王様の表情から笑みが消え、小さな舌打ちまで聞こえてきます。
一体、何が――と私が困惑して魔王様と神殿長を交互に見やると、魔王様はまるで不愉快そのものといった目を彼に向けて続けました。
「神の石とやらは、それを触れた魔物を焼き尽くすような聖なる力があっただろう。神官に力を与え、あらゆる魔物をはねのける力を持っていた。だが、今は違う」
「一体、何をした」
そこで、近くにいた神官――以前、私に赤い痣を刻みつけた神官長が恐怖を覚えたかのような表情で、それでも魔王様を睨みつけながら叫びました。「一体、お前は何をしたというのだ!」
「ふふん」
魔王様は軽く肩をすくめ、つまらなそうに唇を歪めます。「おそらく、アレだ。今の石は触れたもの全てを……クソ、性奴隷にする力が」
――性奴隷?
魔王様は神殿長のそばに近寄ると、床の上に転がっている黒い石を手に取って見つめました。
そして、ちらりと神殿長の姿に目をやって、嫌悪感に満ちた声で笑います。
「だがしかし! 私はジジイになど興味はないのだ! 不愉快だからどこかに持っていけ!」
そう言われて気づく、神殿長の横顔。
苦しげに顔を歪め、その場に身体を丸くして蹲っている彼は確かに――その頬は上気していましたし、ええと、その……。
誰もがぎょっとしたように神殿長を見つめました。
さっきまで確かに戦闘に集中していたと思われる神官たちでしたが、今は怖気づいたように後ずさり、今にもこの場から逃げ出したいと言いたげでもありました。
そう、さっきは怒りに満ちた叫びを上げた神官長ですら。
「どうせ性奴隷にするなら若い方がいい」
と、魔王様は手にした『魔の石』を見下ろしてニヤリと笑います。
その途端、神官たちがさらに後ずさっていくのが見えます。
魔王様はその場を見回して、おそらく自分好みの男性を探そうとしたのだと思います。しかし、神官という人種は身体を鍛えているわけではありません。顔立ちは整っている男性もいましたが、それらほとんどの人間が細身でありましたし、明らかに魔王様が気に入るような人間はいませんでした。
それでも、魔王様はやがて一人の若い神官に目をとめると、まるっきり無造作に手の中にあった石を彼に投げつけました。
その凛々しい顔立ちともいえる神官は、急に投げつけられた石に気づいて嫌悪の声を上げ、当たり前ですが――逃げました。
がつん、と鈍い音がして。
気が付けば、『神の石』――もとい、『魔の石』は床の上に勢いよく落ちて、ガラスが割れるかのように砕け散ったのです。
何人もの神官たちが声を上げました。
ただ、その叫び声は複雑でした。安堵のようでもあり、失望のようでもあり、誰もがそこで言葉を失って床の上を見つめた後。
「まずはそのジジイを先に片づけろ。見苦しいわ、ボケ!」
と、魔王様が綺麗に治癒した手で口元を覆い、神殿長を汚らわしいものでも見たかのように目を細めつつ鋭く言った途端、誰もが我に返ってそれぞれ動いたのです。
それからは騒然となりました。
主に人間たち――神官たちが、ですが。
神殿長は――すみません、見たくなかったので意識してそちらには目を向けないようにしていたので、よく解りませんでしたが、他の神官たちに助け起こされてどこかに連れていかれたようでしたが、そこでもひと悶着あったようです。『性奴隷』とやらになってしまった神殿長は、身体を触れられるとどうも――でしたので、彼を助け起こした人間たちは修羅場だったと思います。
そして、すっかり戦意喪失してしまった神官たちは、いつしか我先にとばかりにその場から逃げ出して神殿のどこかに隠れてしまっていて、我々の前に残っているのは立場が上と思われる神官数名だけになっています。
「さて、まだやるか?」
魔王様はその残った神官たちに意地の悪い笑みを向け、揶揄う口調で続けます。「神の石はなくなった。お前たちの力の源が消え、おそらくもう、我々には敵うまい。だが、戦うというのなら受けてたってやろう。暇だしな」
――暇だし?
私はぼんやりと魔王様のその背中を見つめました。
自信にあふれた魔王様の背中は、何というか――。
「……手を引こう」
神官長が苦しげに顔を歪め、低く呟きました。「もう、我々にはどうにもできん」
「結構!」
魔王様はそこで満面の笑みをたたえ、ぱん、と手のひらを叩き合わせます。それから、ふと床の上に砕け散っている黒い小石を拾い上げ、それを見つめた後に私のそばに立ち尽くしていたクレイグに目をやりました。
その途端、クレイグが後ずさります。
でも、魔王様は小さく首を振って笑いました。
「安心しろ、お前には使わない。お前は私のテクニック全てを駆使して快楽の味を覚えさせてやるからな」
「お前」
クレイグが苦々しげに舌打ちします。「やることしか頭にないのか」
すると、魔王様は叫びます。
「当たり前だろう、愚か者! 私の頭の中はそればっかりだ!」
くくく、という小さな笑い声が聞こえました。
その声の方に目をやると、ラースが笑うのを堪えたように肩を震わせています。手にした剣を床に突き刺して、その柄に寄りかかるようにして小刻みに身体を震わせた後、やがて背筋を伸ばして魔王様に向き直り、静かに言いました。
「あなたの配下でよかったと思います、魔王様」
それを聞いて、魔王様がふとその目を細めて真剣な色をそこに浮かべました。
「どうした、抱いて欲しいのか」
「いえ」
ラースはさらに肩を震わせて笑った後、酷く真剣な口調で続けます。「冗談でもそんなことはクレイグの前では言わない方がよろしいかと。あれは真面目な人間ですので、浮気は許さない人種でしょう」
「ちょ、おい」
慌てたようなクレイグの声にかぶさるようにして、魔王様が高らかに笑い声を上げました。
「確かにそうだな! 安心しろ、私はお前を一番に愛しているぞ」
そう言って魔王様がゆっくりとクレイグの方へ歩いていくと、クレイグは素早く飛び退って恨めしげな声をラースに飛ばしてきました。
「余計なことを!」
「まあ、諦めてくれ」
「団長!」
「もう団長じゃない」
そして、ふと。
そのラースの表情がとても懐かしく感じられて、私は思わず息を呑みました。
「……記憶、は」
クレイグが困惑したように声を上げます。そしておそらく、私も似たような表情をしていたかもしれません。
ラースはそこで乱暴に頭を掻くと、小さく笑って続けました。
「さっき思い出した。あの夢魔ってやつ、あまり使えないな」
「しっつれいね! あんたたちの魔力が強すぎんのよ、そこんとこ解ってんの!?」
と、急に私たちのそばに現れた姿がありました。
空間の裂け目が現れたかと思えば、話をすれば何とやら、夢魔のジャッキーがその裂け目から顔を覗かせ、するりと身体を滑らせて地面に降り立ちます。
ジャッキーはラースを睨みつけ、歯をむき出しにして敵意を露わにして大声を上げました。
「何よ、あんたもシェリルと同じで集めた夢を壊してくれちゃって! ムカつくったらありゃしないわよ! ……って」
そこで、ジャッキーは私に目をやって顔色を変えました。「何よそれ、大丈夫なの!?」
ジャッキーは口を手で覆うと、何とも情けない表情で私の右肩を見つめます。
「あ、大丈夫です」
私は慌てて左手を上げ、ひらひらと振って見せましたが、そこで魔王様がクレイグの前で足をとめてこちらに目を向けました。
「そう言えば、お前」
魔王様の声は少しだけ不機嫌そうでした。
私は慌てて魔王様に頭を下げました。
「あ、申し訳ありません。大丈夫です」
「お前な」
魔王様の姿が急に目の前に移動してきて、私は思わず後ずさりました。
魔王様は私を睨みつけると大きな声を上げました。
「お前は私のものだと言ったろう! 勝手に怪我なんぞするな!」
「え、あ」
「腕はどこだ! 持ってこい!」
魔王様がさらに険悪にも近い声を上げた瞬間、どこに隠れていたのかグラントが私の腕を大切そうに抱えたまま駆け寄ってきました。そして、恐る恐るといった様子でその腕を魔王様に差し出します。
「つけてやるからこい」
グラントから私の腕を受け取った後、そう、魔王様が厭そうな表情のまま私を見つめて。
――意外と優しい、のかも、しれない。
私はまじまじと魔王様を見つめた後、我に返って慌てて魔王様のそばに駆け寄りました。
魔王様の細い指が私の右肩に触れました。そして、酷く乱暴に千切れた腕を切断面に押し付けてくると、魔力をそこに集めてくださったのです。
ちりちりとした感覚。そして、急に襲ってくる痛み。何というか、筋肉や神経といったものを直接引っ張られているような不快感を伴う痛みの後、凄まじい熱を感じます。そしてその直後、私の腕は以前と同じように右肩から存在していて。
思わず、右手を何度も握りなおしてみて、そこに何の違和感も感じないことに微笑んでしまいました。
「ありがとうございます、魔王様」
私がそう言って魔王様を見上げると、眉間に皺を寄せた魔王様が短く言いました。
「そんな顔をしても抱いてはやらんぞ!」
――いえ、それは全力でお断りしたいです。
「引き上げるぞ、ここにいてもつまらん」
やがて、魔王様がそうおっしゃって、その場にいた魔物たちに合図をします。
そして、そんな魔王様の背中に向かって、ジャッキーが声をかけました。
「あのう! これ、持ち帰ってもいいでしょうか?」
そう言った彼は、いつの間にか床に倒れていたコルネリアを優しく抱き起していました。「すっごい好みの子なので」
と、彼は目元を緩ませつつ魔王様を見上げています。
そんな彼を振り返った魔王様は、いとも簡単に頷いて見せました。
「私は女には興味ない。好きにするといい」
「ありがとうございます。……ゆっくり口説こうっと」
ジャッキーは今にも鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気で、彼女を抱えて立ち上がりました。私はそんな夢魔を見て慌ててラースに目をやりました。
「あの! とめなきゃ……」
そう言いかけると、ラースは困惑したように私を見つめ直してきます。
「何故だ」
「何故って……」
私はその時、胸に微かな痛みを覚えつつ彼から目をそらしました。気づけば、グラントが私のそばに駆け寄ってきていて、泣き笑いのような表情で私の腕を掴んでいました。
「彼女が気になるって……その」
私はグラントの頭を撫でながら、小さく囁きます。
すると、ラースはため息をこぼして言うのです。
「記憶のない俺が彼女を気になるって言った理由なんぞ、一つしかない。お前に似てたからだ」
その言葉を聞いて私がその場に硬直していると、ラースはその視線をクレイグに向けて言いました。
「悪いが、シェリルは渡せない」
「……」
クレイグの目が苦しげに歪みました。そして、ゆっくりとその視線が私に向けられます。
「俺は」
そう言いかけた彼の言葉を遮るように、私は彼に頭を下げて言いました。
「すみません。……ごめんなさい」
「団長がお前を苦しめたら、いつでも来るといい」
やがて、クレイグは笑みをその口元に作って見せました。私は顔を上げて彼を見つめましたが、その表情はどこか虚勢のようにも思えます。
「俺は、それでも」
「……すみません」
私は重ねて彼に謝罪の言葉を口にしました。
誰かの想いを拒否すること、その鈍い痛み、罪悪感のようなもの。こんな感情を、私は初めて知ったのです。
神殿から出ていくと、庭にはコンラッドの姿がありました。
クレイグが何の怪我もないのを確認すると、少しだけその表情を和らげたようにも思えました。
「無事でよかったな。貞操も大丈夫か」
と、冗談めかして彼がクレイグに声をかけてくると、クレイグはむっとしたように眉根を寄せます。
「やめろ、縁起でもない」
「安心しろ、夜這いをかけてやる」
そんなクレイグの背中に向かって、魔王様が楽しげな声をかけます。そして、いつの間にか持ち出してきていた例の石――黒い小石をその手の中で弄びつつ続けました。
「そのうち、これをお前のピー(すみません)に入れて焦らしプレイというのもいいかもしれんな」
途端にクレイグの肩がぞっとしたように震えましたが、クレイグはそれ以上何も言わずにコンラッドの隣に並んで歩き出してしまいました。
そして、その場に残された我々は、それぞれ好き勝手に魔王様の城へと帰る帰途についたのです。
私の隣にはラースがいて、グラントもいて。
私はただそっと、ラースにだけ聞こえるように言いました。
「あなたを傷つけました。すみません」
「いいさ」
ラースは穏やかに笑って小さく返してきます。「ああいうお前も『お前』なんだ。前も言ったろ? お前は魔物らしくねえって。お前は心の中に複雑な何かを持っていて、そこに惹かれたんだよ、俺はな」
「……う」
私は言葉を失って、そしてラースの顔を見つめているのが苦しくなって、慌ててグラントの手を握りました。そして、そのまま一気に魔王様の城へと空間移動をしようとしたのですが、ラースにその腕を掴まれて足をとめます。
「あの」
私が彼を見ずにそう言いかけた時、ラースの唇が私の耳元に寄せられました。
「お前がクレイグにほだされる前に、俺のものにしたい」
そう耳元で響いた彼の声は、とても優しく、そして甘やかでした。