目が覚めると自分のベッドの中に誰かがいるという状況は、今まで経験したことがありませんでした。ましてや目を開けた瞬間に、目の前に小さな足がにょっきりと突き出している状況など。
「……寝相が悪いですね」
私はグラントの足首を掴み、よいしょ、と横に退かしました。この小さな獣人の少年は、寝ている間に少し変身したようで、人間の姿と獣人の姿のときの姿が半々になっているようでした。
茶色い短い髪の毛の間から覗く、大きな三角の耳。それは、狼のような耳です。
ズボンの後ろには穴が空いていて、そこからふさふさとした尻尾が飛び出ています。どうやら夢を見ているせいなのか、その尻尾が時折ぴくぴくと動きます。
わずかに腕に生えている体毛は、いつもより濃く、その爪も鋭く伸びています。寝ながら引っ掻かれたら痛いでしょう。
私は大股を開いて眠っている少年を起こさないようにしてベッドから降り、寝間着からいつも身につけている服へと着替えました。
すると、私の部屋のドアが遠慮がちに叩かれたことに気がつきます。こんな朝早くから誰がきたのかと不審に思いつつドアを開けると、そこにはラースが立っていました。
「よう」
彼は少し躊躇したように笑いながら、その手の上にあった食料がたくさん乗った皿を私に渡しました。「お前はほとんど食事をしないから気づいてなかったかもしれないが、あの小僧は食うだろう。獣人は食欲も旺盛だ」
「ああ!」
私はびっくりしてそう小さく叫びます。そうです、食事のことなど全く考えてもいませんでした。私がベッドのほうを振り向くと、まだグラントは夢の中のようです。平和そうな寝顔を見せている彼を見つめていると、こちらもつい微笑みたくなります。
「ありがとうございます」
私はラースに向き直って笑いかけ、軽く頭を下げます。彼は少し目を細めて笑い返し、そのまま廊下を戻っていきます。
その背中を見送って、何だか私は首を傾げてしまいました。
何で彼がそこまでしてくれるのか、本当に不思議だったからです。
「シェリルは、この城で何をしてんの?」
食事を終えたグラントは、興味津々といった様子で私を見上げてきました。グラントは相変わらず大きな耳と尻尾を生やしたままの姿でしたが、それさえなければ普通の人間と大差はない姿になっていました。
無邪気な笑顔を見下ろしつつ、私はこう応えます。
「いつでも魔王様の命令を受けて外に出られるように、待機しています」
「命令?」
「ええ。たとえば、人間を襲ってこいとか襲ってこいとか襲ってこいとかです」
「それしかないんだ?」
「……たまには別のこともありますけどね」
私はそう言いながら、そっと首を傾げます。他に何かあったでしょうか? よく解りません。
そして我々は魔王様がいる大広間へと向かいます。私の日課といえば魔王様のそばに控えていることしかありませんでしたからそうしたのですが、どうやらグラントは私と一緒にいることを選んだらしく、迷いもなく後をついてきました。
そして、大きな扉をそっと開き、その中に足を踏み入れたとき、私は困惑して足をとめました。
魔王様が座っていらっしゃるのは、いつもの大きな背付きの椅子です。いつもと違うのは、今日の魔王様はどうやらまだ眠っておられるようで、肘掛けに肘をつき、その手にもたれかかるようにして眼を閉じておいででした。
そして、魔王様のすぐ横には、見馴れぬ姿がありました。
どうやらそれは、夢魔のようです。
背の高い男性で、金色のカールした短い髪と、深くて冷ややかな輝きを放つ蒼い瞳を持っています。痩せた身体にはえんじ色の服をまとい、黒いマントをつけています。派手なピアスをつけた彼は、どこかうんざりしたように魔王様を見つめていました。
彼は私たちの存在に気づかないようで、何ごとか小さく呟いた後、その右手を魔王様の額の辺りにかざしました。
途端、辺りに閃光が走ります。
気がつけば、魔王様の椅子の後ろの壁に、大きな映像が浮かび上がってきていました。おそらくそれは、魔王様が今見ている夢の映像です。ひどく鮮明な映像に、私は驚きます。
そして、その夢の映像に視線を奪われました。
夢の中に、魔王様がいらっしゃいます。そして、それに向かい合っているのは勇者です。
しかし。
「何あれ何あれ何あれ」
困惑したグラントの声が聞こえて、私は慌ててグラントの目を両手で塞ぎました。
夢の中で、魔王様はあろうことか──いえ、そういう言い方はないのかもしれませんが──勇者の手首をベッドの柵に鎖で縛りつけ、その服を乱暴に引き裂いて馬乗りになっていました。
勇者は鎖をがちゃがちゃ言わせながら悪態をついています。しかし、魔王様がその両足を割り開き、そしてその……。
「シェリルシェリル、何これ」
グラントがまた何か言っています。私は何と言ったらいいのか解らず、ただグラントの目を塞いでいましたが、手があと二つ欲しいと思いました。グラントの耳も塞ぐべきじゃないのかと思いましたから。
勇者の苦痛に満ちた呻き声と、それと呼応するかのような──肉のぶつかる音。
「ねえねえ、これって何の音?」
「いえ、それは」
私はほとほと困って辺りを見回しました。そうしている間にも、魔王様の夢の中ではとんでもないことが起きていて。
「……やめろ……」
やがて、勇者の声が苦痛とは違うものに変わっていくのも、聞いてしまいました。屈辱と、羞恥。怒りと悦楽。そんなものが入り交じり、勇者──クレイグが苦しげに首を振り、やがて魔王様を見上げます。魔王様はそれを嬉しそうに見下ろして、さらに乱暴にその腰を彼にぶつけるようにして動かし──。
今回はモザイク処理が必要だと思いました。
「まさに悪夢よねえ」
夢魔がその首を振ってため息をこぼしました。そこでやっと彼は私たちの姿に気がついたようで、苦笑しながらこう話しかけてきました。
「ねえ、そう思わない? こんなことをされてる男も可哀想だと思うけど、こんな夢を一緒に見ているあたしたちも可哀想だと思わない?」
「そ、そうですね」
私はそう頷きながら、その夢魔を観察します。
彼は自分のことを『あたし』と言いました。それに気がつくと、少しだけ彼の振る舞いにも違和感があることにも気づかされます。顎の辺りに手を置いたその姿は、どことなく男性らしいというよりも女性らしい仕草に見えます。
「だって、男と男よ? 男と女、女と女ならさぞかし素敵な光景なのに!」
夢魔はまるで嘆かわしい、と言いたげにそう叫び、両腕を高らかに上げて見せます。私はつい、首を傾げました。
こう言ってはおかしいのかもしれませんが、どこからどう見ても彼は──。
「あら、あたしは女の子が好きよ?」
夢魔は私の疑問に気がついたようで、その動きをとめて私を見つめます。彼はそのまま両手をゆっくりと自分の身体の前に出し、こう言います。
「女の子の好みは……こう、胸を包み込むようにして触ったときに、ちょっと余るくらいの大きさで、お尻は小さめの子がいいわね」
その手のひらが微妙に卑猥な動きをします。
私はつい眉をしかめましたが、彼は気づいてはいませんでした。
「日に焼けていて健康的な肌、光に透けて反射しそうな髪の毛、抱きしめると壊れそうな華奢な肩、何もかもが素晴らしいわ!」
「ええと……」
私は思わず声を挟みます。「ではなぜ、そんな言葉遣いを? 失礼ですが、もう少し言動を……」
「あら、こういう言葉遣いをしていると、意外と女の子にモテるわよ? 気を許しやすいっていうのかしら、男扱いされないで近づけるし、ここぞというときに男らしさを見せつけてあげると、女の子はイチコロよ!」
そんなものなのでしょうか。
私は首を傾げたまま、彼の言葉を聞いていました。
すると、私に目を塞がれたままのグラントが、また戸惑ったように声を上げました。
「ねえ、何やってるの? この声、何?」
「うーん」
私と夢魔はそれに応えるべきか悩みました。いえ、何というかその……魔王様の夢の中では、まさにそう……佳境に入ってましたので。
「完璧である」
目が覚めた魔王様は、満足そうに笑って壁に映し出されている『夢』の映像を見つめています。どこかうっとりしたようなその横顔は、本当に楽しそうです。
夢魔はにこにこと笑いながら──明らかに愛想笑いです──魔王様を見つめ、明るく言いました。
「魔王様、この夢をどうなさいますか? 何のためにお使いになります?」
すると、魔王様がにやりと笑って続けました。
「もちろん決まっておる。勇者の元に向かい、彼にこの夢を見せてやれ。できれば、やられている感覚も彼に感じさせて欲しい」
「かしこまりました!」
夢魔が明るく叫んで頭を下げ、大広間を出ていこうとしました。私の横を通り過ぎるとき、彼がちらりと私を見て小さく囁いていきます。
「魔王様って趣味悪いのね」
同感です。
それからしばらく経ってから、魔王様が水晶球にじっと見入りました。
私とグラントも、大広間の隅で小声で話し合っていましたが、水晶球の中で色々光景が映りだしたのに気がつくと、つい視線がそちらに向かってしまいます。
水晶球の中では、勇者たちの姿がありました。彼らはどこかの村の宿屋に泊まっていて、それぞれの部屋で眠りにつこうとしています。そして、問題は勇者クレイグです。
彼は剣を枕の下に隠した後、眠りにつきました。そして、しばらく経ってから彼の枕元に現れる夢魔。
夢魔の手が勇者の額の上にかざされ、閃光が走ります。
それから、勇者が苦しげに唸るのが見えました。彼はすっかり眠り込んでいるようで、目を覚まそうという気配はありません。ただ、時折身体をよじって何かから逃げるようにしています。
凛々しいといった顔立ち。しかし、やがて悩ましげな吐息が漏れます。
──見てはいけないのではないでしょうか。
何となく、私は水晶球から目をそらしました。しかし、魔王様の楽しげな声が聞こえてきて、つい視線が戻ってしまいます。
「意外と色気がある」
魔王様は椅子の上で落ち着かなげな仕草で両手を膝の上で組み、私に同意を求めるかのように言ってきます。
水晶球の中で勇者は額に汗を滲ませていて、時々苦しげに声を上げ──そして、目を覚ましました。
彼は上気した頬のまま、枕元に立っている夢魔を見つけ、小さく悪態をつきました。問答無用で枕の下にあった剣を引っ張り出し、凄まじい勢いでそれを鞘から抜き、慌てて逃げようとする夢魔に向かって飛びかかっていきました。
「くそったれ!」
間一髪、勇者の剣をかわした夢魔は、そのまま空気に溶けるようにして消えてしまいます。それを見て、勇者が大声で叫んだのです。
私は勇者に同情しました。
しかし、魔王様は本当に嬉しそうでした。
「ねえシェリル、さっきの何?」
今日はほとんど、何ごともない一日でした。私はグラントと一緒に魔王様のそばにいただけで、役目も何もありませんでしたから、のんびりとグラントと会話をしていただけです。
しかし、私の部屋の戻って寝る準備をしていると、グラントがベッドの上に飛び乗りながら訊いてきました。
「魔王様とあの人間の男の人、何をしてたの?」
「それは……」
私はまた言い淀みました。さすがにまだ幼い少年にあの行為のことを説明するのには躊躇いがあります。
「ああいうのって、誰とでもすることなの?」
しかしグラントは無邪気です。ベッドの上で俯せになり、枕のところで頬杖をしながら私を見つめます。私は寝間着に着替えながら、少しだけ考え込みました。誤魔化しておいても問題はないと思いましたが、下手に誤魔化して彼が変な風に考えてしまったら、という恐れもあったからです。
だから、私は言葉を選んで言いました。
「誰とでもしていいことではありません。ああいうことは、好きな相手とするものですよ」
「好きな相手?」
グラントがベッドから身を乗り出して、床に落ちそうな格好をしながら言います。「僕、シェリルが好きだよ?」
「私もグラントが好きです」
私は苦笑を漏らしました。「でも、弟のように好きなんですよ」
私はやがて、ベッドの端に腰を下ろして、グラントの短い髪の毛に触れました。とても柔らかい髪の毛。触っていると心地よいです。
「弟のように? でも、好きは好きなんでしょ?」
グラントは首を傾げます。その仕草は、犬が首を傾げているかのような、奇妙な可愛らしさがあります。私はそっと微笑みました。
「『好き』という感情には、色々あるんですよ。……そして、ああいうことをするのは特別な『好き』ではないといけません。多分、まだグラントには解らないでしょう?」
「うん、解らない」
グラントはごろりと身体を回転させ、私の膝の上に頭を乗せてきました。「でも、シェリルと一緒にいるのは嬉しいから、それでいいや」
「そうですね」
私はグラントの髪の毛をくしゃくしゃとかき混ぜてから、ゆっくりとその頭をベッドの上に下ろしました。部屋の灯りを消し、ベッドに戻ります。そして、やがてグラントが静かな寝息を立てるのを眠らずに聞いていました。
特別な『好き』。
自分でグラントにそう言っておきながら、それが何なのか解りません。
魔物である私に、誰かを好きになることなどできない。そうも思います。だから、きっとこれからもずっとその『特別』を知らぬまま生きていくのかもしれません。
そして、知らないまま死ぬ。
私は黒い天井を見上げたまま思います。
ラースはどうなんでしょう? 彼の私に対する感情は何でしょうか?
彼は今、人間ではありません。その感情の動きすら、人間のときとは違うでしょう。
もしかしたら、ただ単に誰かとセックスしたいだけかもしれない。私ではなくても、誰とでもいいから、と。
手近なところで私に目をつけたのではないと誰が言い切れるのでしょうか?
でも、それを責めるわけにはいきません。
だって、お互い、優しさとか愛情とか無縁であるはずの魔物なのですから。
私はやがて、そっとベッドを抜け出しました。グラントはとてもよく眠っています。私が起き出したことも、彼は気づかないまま身じろぎを一つしました。
私は寝間着姿のまま、廊下に出て、真っ暗な屋外が見える窓の前に立ちました。
ぼんやりと外を見つめ続けていると、こちらを気遣うような咳払いが聞こえました。
「大丈夫か?」
ラースです。
彼はどこか疲れたような表情をしていましたが、いつもと変わらぬ笑顔を見せていました。戸惑う私の横に立って、同じ風景を見下ろします。
「眠れないときには、こうして起きているのもいい」
彼はそう言って私の肩を軽く叩きました。私は少しだけ緊張しながら彼の横に立っていましたが、どうしても居心地が悪くてその手を振り払い、部屋に戻ろうとしました。
彼は追ってきませんでした。
私はそっとドアを閉めてからも、ドアのところに立ちつくしていました。そして、どうしても気になってもう一度ドアを開けました。
ラースは先ほどと同じ場所に立っていて、遠くを見つめたままです。
その背中にどこか違和感を感じて、私はそっと彼に声をかけました。
「大丈夫ですか?」
その途端、彼が驚いたように振り向きます。まるで、私が戻ってくることなど意識もしていなかったかのように。
「大丈夫だ」
彼は明るい笑顔を見せて、壁に寄りかかります。両腕を組んでわずかに首を傾げながらこちらを見るその表情は、いつもと変わらないように見えました。
でも。
「起きて外を見ているのも悪くないですね」
私は何となく彼の横に戻り、窓の桟に手をかけました。
それから、会話はありませんでした。お互い、窓の外を見つめているだけで。
しかし、こういうのも悪くない。
私はそう思ったりもしたのです。