本日の魔王様 番外編1-12


「俺とお前が恋人同士ならさ、口移しで、っていう手段もあるけど」
 ギルバートの楽しげな声を聞きながら、俺は必死にそのでかい図体を押しのけようとしていた。
 これは、おそらくクリストの暗示なのかもしれない。大声を上げ、この屋敷の人間を呼ばねばならない、という強迫観念のようなものが頭の中を渦巻いている。
 頭の中では、暴れてはいけない、静かにしなければ、と自分に言い聞かせているのに身体だけが勝手に暴走していた。
「……ま、後で殺されるの確実だからやめとく」
 やがて、ギルバートの片方の手が俺の腕から離れた。
 すかさず声を上げようとした俺の顔を乱暴に掴み、無理やり口を開けさせ、その中に何か丸薬らしきものを放り込んだ。咳き込みそうになる俺の顎を押さえ、口を閉じさせる。
 そして俺の喉がそれを飲み下した音が聞こえると、ギルバートは心配そうに俺の顔を覗き込みながら小さく囁く。
「金髪、似合わねえなー」
 緊迫感のない男だ、と内心で呆れつつ、だんだんと俺の身体から力が抜けていくのが解って目を細める。
 俺の身体が動かなくなるのを確認した後、ギルバートはそっと俺の身体の上からどいた。
「……王子様って何だ」
 俺は何とか声を絞り出した。そのままゆっくりと身体をベッドから起こすと、頭を押さえつつ目を閉じる。
「キラキラしてるから」
 楽しげな彼の声。
 目を開けて彼を見つめ直すと、ギルバートはまじまじと俺を観察するかのような目がこちらに向けられていて、躊躇いがちにその手を上げた。
「触っていい?」
「どこをだ」
「髪の毛」
「さっき、押さえつけてきた時に触っただろう」
「そうなんだけど、もっと何ていうかゆっくり……」
 妙に歯切れの悪い彼の言葉を遮り、俺は軽く手を上げて話をそらした。
「とにかく、何を飲ませた?」
「ん?」
「俺に何を飲ませた?」
「ああ」
 ギルバートは近くにあった椅子に腰を下ろすと、少しだけ首を傾げて続けた。「お前の服、このでっかい屋敷の一階にあったから。洗濯室っての? ちょっと忍び込んで薬だけ盗んできた」
「ああ」
 俺は眉を顰めた。「俺の服は捨てられてはいなかったわけか」
 そう言ってから自分の恰好を見下ろして、やはりこの格好は俺には合わない、と内心で思った。
「捨てられてなくてよかったな。薬も効いてよかった。まあ、効くかどうかは賭けだったけど」
 その言葉に俺は顔を上げ、ギルバートの笑顔を見つめる。
 確かに、効いてよかったと言わざるを得ない。さっきまでは確かに自由に動かすことができなかった身体も、今は自分の意志で動く。唇が強張る感じもしない。
 薬と暗示。
 あの男――クリストが仕掛けたのがそれだけだったというのもよかったと言うべきなんだろう。もし、この身体が彼の魔法によって何らかの制限を受けていたのだとしたら、その魔法を解いた瞬間にクリストに気づかれるだろう。自分の魔法が第三者の手で破られる瞬間の感覚は、絶対に伝わってくるものだ。
 つまり、きっとクリストには気づかれていない。
 このまま逃げ出したとしても、何とかなる……のかもしれない。
 逃げ切れるかどうかは別としても。

「まあ、俺も事前の情報があったからお前のことを見つけることができたけど、そうじゃなきゃ見つからなかったかも」
 ギルバートが乱暴に頭を掻きながら笑っている。「いくら鼻が利くとはいえ、こんな街中じゃどうにもならねーよ」
「そうか」
 何となく事務的にそう返しつつ、俺は少しだけ考え込んでいた。
 すると、ギルバートが俺の頭の中を読んだかのように続ける。
「で、どうすんの。逃げる?」
「逃げる、か」
 俺は唇を噛んだ。
 俺が厄介ごとに巻き込まれているのは間違いない。それもこれまで経験してきたことの中で一番と言えるくらいの面倒な立場だ。
 クリストという男が俺の実の父親であるというのは間違いないことで、クリスト自身もどうやら厄介なことに巻き込まれているらしいとは解っている。
 面倒事は嫌いだった。
 俺は今まで、厄介ごとは避けて通ってきた。仕事にしろ何にしろ、単純に片付く方がいいと思ってきたし、余計なことは考えない主義だった。
 しかし。
「……一体、何が起きているのか知りたいと思う」
 俺はやがてそう呟いて、ため息をこぼした。「あのバカの癖がうつったらしい。全く、本当に厄介な……」
 思わず舌打ちもしつつ、クレイグのことを思い出して頭痛すら覚えた。
 そういや、あのバカは今ごろ、何をしているのやら。
「知りたいって……つまり、ここに残んの?」
 ギルバートがそう訊いているのすら、何だか現実味がない。自分が巻き込まれていることだというのに、まるで他人事のように感じているのが自分でも意外だった。
 いや、違う。
 他人事のように感じていたかったのかもしれない。
 認めたくない事実がそこにあったからだ。
 クリストが俺の父親だということ。
 あれが本当に魔物の血を引いた存在だとしたら、つまり、俺にも。
 あれほど憎んできた存在が。魔物の血というものが、俺の中にも。

 やはり、逃げようか。
 どこか遠い場所に逃げたら、クリストは諦めるだろうか。
 それとも、追ってくるのだろうか。
 追って……いや、間違いなく追ってくるだろう。俺を捕まえるのは簡単なはずだ。あれだけの力を持つ魔法使いなら。そうだ、俺にだって解る。あの男が持つ力が、アリウス様よりも強大だということくらい。
 ――くそ。

「少し、様子を見たい」
 諦めといった感情が俺の胸の中を渦巻き、やがて俺が疲れたように低く言うと、ギルバートは「解った」と頷く。それから、彼は素早く部屋を見回して続けた。
「とりあえず、俺はお前の親父さんのところに行って、状況説明してくる。それから……何をすればいい?」
「何を、って?」
 ギルバートの目が俺に向けられ、酷く真剣な口調で言う。
「俺にできることがあるなら手伝うって言ってんの。それとも迷惑?」
「それは」
 俺は思わず言葉に詰まった。それでも、何とか言葉を探して続けようとする。上手くはいかなかったが。
「いや、迷惑というよりは……」
 語尾が消える。
 自分がこの獣人のことをどう扱ったらいいのか解らないのも奇妙だった。
 この男を殺したいと思っていたのは事実だが、今、俺が頼れるのは――いや、利用できるのはこの男しかいないわけだ。
 俺は改めて表情を引き締め、彼に言った。
「じゃあ、ライルを探して欲しい。あの男が俺を探していた理由が何であるにしろ、今回のことに関わりがある可能性は捨てられない。それに、関係がなかったとしても、あいつはこの街の住人だ。クリストについて、何か情報を持っているかもしれない」
「解った、ライルね。ルーズベリーにいるはずだもんな」
 ギルバートの目にも真剣な光が宿り、小さく頷いて見せた。「何とかへましないように頑張るから、お前も気をつけろ。お前は下手に動かない方がいいと思う」
「動けないさ」
 俺は苦々しく笑った。「下手に動けばあの男が何をするか解らん」
「それもそうだけど……あのさ、コンラッド」
 そこで、ギルバートが複雑そうな表情で椅子から身を乗り出し、小さく言った。「リィンとかいう奴の遺体、まだこの屋敷にある」
「え?」
「忍び込んで様子を見て回ったんだけど、ここには地下室があってさ」
「はあ?」
 様子を見て回った?
 この屋敷を?
「お前、何をして」
 俺が呆れきった声を上げても、彼は気にした様子もなく真面目な声で続けた。
「お前の顔にそっくりな遺体がそこにはあって、胸に傷があったわけ。あれが致命傷だな」
 傷。
 俺はそこで口を閉じて、眉を顰めた。
 クリストはリィンが夜盗に襲われたと言ったか? しかし、エリーゼも殺されるとか言っていなかったか?
「致命傷というか、急所を一突きってヤツかな。リィンを殺したのは凄腕だったんだろう。あいつは魔法使いだったんだろ? 魔法による抵抗すらできなかったんかな、と思えるくらい、綺麗な傷だったよ」
「つまり……何が言いたい?」
 何となく厭な雰囲気を感じつつ俺が訊くと、ギルバートは曖昧に笑って見せた。
「俺もよく解んないけどさ」
「おい」
「たださ、思うわけよ。殺された人間の身代わりにしようとしてる意味って何かな、って」
「は?」
 そう返しながら。
 なるほど、と思う。
「俺も危険だと言いたいのか」
 そう言葉を続けると、ギルバートが肩をすくめた。
「うん、多分な。でも、どっちにしろ情報が少なすぎる。何か解ったらまたここに忍び込んでやるよ。それまで無茶すんな」
「……」
 俺は何となく胸の中にもやもやするものを感じつつ、無言で頷いた。
 すると、ギルバートが明るく笑って椅子から立ち上がった。そのまま窓から出て行こうとする彼に、俺は思わず小さく呟いた。
「その、助かった」
「え?」
「……あり、がとう」
 窓を開けてバルコニーに出ようとした彼が、驚いたようにこちらを振り返った。何だか妙に気まずくて、俺は彼から目をそらす。
「何だよ、もう一回言えよ」
 ギルバートの声が少しだけ嬉しそうに響く。
 俺はすぐに舌打ちして、話は終わりだという意思表示のために手を上げて軽く振る。
 しかし、足音もしないままギルバートが俺のところに戻ってくると、そのまま俺を抱き寄せて頭をぐりぐりと俺の頭に擦りつけてきた。俺がぎょっとして彼の頭を押しのけようとしていると、ギルバートが嬉しそうに囁く。
「やっぱ、お前、可愛いとこあるじゃん」
「うるさい、離れろ」
 彼の声が俺の耳元で響く。何とか彼の頭を押しのけようと手に力を込めると、ギルバートはそれを気にせず上機嫌な声で続けた。
「俺の匂いつけとこ。こうしとけば探しやすくなるし」
「暑苦しい」
 そこで俺はやっとの思いで奴の頭を引きはがすと、これから殴る、というポーズだけして見せた。途端、ギルバートの目が一瞬だけ暗くなった。その表情だけは笑顔であったものの、確かにぎこちない緊張が走ったのが解る。
「とにかく、また後でな」
 ギルバートが冗談めかしたように笑い、慌てたような足取りでバルコニーへと向かう。その身体が流れるような動きで柵を飛び越え、一瞬だけ草が踏みしだかれる音が響いた。
 そして、残ったのは静寂。
 いや、俺の心にも僅かな感情が残る。
 罪悪感にも似た、奇妙なしこりのようなものが俺の中に生まれていた。

「ねえ、リィン、お仕事はどんな感じ?」
 翌朝、食事の場に現れたのはエリーゼとクリストだけだった。
 大きなテーブルの前にエリーゼの父親であるだろう年配の男性の姿はなかったが、誰もそれを気にしている様子はない。
 どうやらこの屋敷にはたくさんの召使がいるらしく、それぞれが甲斐甲斐しいまでにエリーゼの周りで働いている。飲み物をグラスに注ぐ手、料理が消えた皿を下げる手、入れ代わり立ち代わりといった言葉が似つかわしい。
「順調です」
 俺はその様子を視界の端に見ながら、エリーゼに応えていた。エリーゼは女性らしい仕草で食事を口に運び、輝くような笑顔を俺に向ける。
 悪意というものに縁のなさそうな笑顔。
 優しげな顔つき、そしておそらく……愛情というものにあふれた声。
 緊張を上手く隠せているか自信はなかった。
 暗示が解けているということをクリストに気づかれないように、必要以上に余計な行動はしない。もちろん、言葉も少なくしなくてはいけない。
 そう思いながら、俺はクリストを見ないようにしてエリーゼからの言葉に反応するだけだ。
「順調? ほら、お城に行ったのでしょう? お父さまの言う通り、お仕事もこなせている?」
 エリーゼは心配そうな表情で俺とクリストの顔を交互に見やる。
 クリストはあまり料理に手をつけていない。穏やかに笑ってはいるが、時折、刺すような視線が俺に向けられているのも感じる。
「無理はさせていませんよ」
 そう彼が口を開き、エリーゼに微笑みかけた。「慣れるまでは、できるだけ私の下で動いてもらっていますから」
「そう?」
 エリーゼは含み笑いを漏らし、その手で口元を覆った。「あなたは見かけによらず、無茶をなさるから」
「リィンには無茶はさせません」
 そう言った彼の声には、僅かに冷ややかな響きが混じったようだった。ただ、エリーゼは気づかなかったようだが。

 何だか奇妙な感じだった。
 俺には母親の記憶がない。だからというわけではないが、エリーゼの存在というのは不可解でしかない。
 彼女が見ていると思っているのは、リィンの姿だ。
 今、彼女が目にしているは偽者ではあるものの、『愛すべき存在』なのだろうと思う。彼女が見せている笑顔も、気遣うような表情も、何もかもがリィンが得るべきものだった。
 リィン・キンケイド。
 一体、どんな男だったんだろう。
 俺がクリストに植え付けられた『記憶』の中では、リィンがどんな人間でどんなことを考えて生きてきたのかまでは解らない。彼の口調、仕草、そういったものだけしか真似ができない程度の薄い『記憶』だ。
 裕福な家庭において、エリーゼに大切に育てられた。
 礼儀正しく、笑顔を絶やさない男。
 そのくらいしか解らない。

「今日も城に同行してもらいます」
 やがて、クリストの声が聞こえてきて俺は我に返る。
 エリーゼはクリストを見やり、薄く笑って見せた。
「あまり厳しくなさらないでね。リィンは元々、身体が強いわけでもないし」
「解っていますよ」
 クリストはそう言って立ち上がり、俺の近くに歩み寄ると俺の肩に手を置いた。心臓が厭な音を立てたが、何とか平静を保ったまま俺も椅子から立ち上がった。
「気をつけてね、リィン」
 そう言ったエリーゼに俺はただ頷いて見せると、先に立って歩き出したクリストの後を追った。

「おはようございます」
 屋敷から出ようとすると、大きな扉の向こうに馬車が準備されていた。黒塗りの馬車の扉には家紋らしき模様があり、その扉を開けながら声をかけてきたのはハルだった。
 ハルはにこやかな笑顔をクリストに向け、その後で意味深な目つきで俺を見やる。
「どうぞ、リィン様」
 そう言って仰々しい仕草で馬車の中に乗るように促す彼は、やはりどこかいけすかない感じがした。俺をからかうような輝きがその目の中にはあったからだ。
 それでも俺は無表情で馬車に乗ると、クリストがそれに続こうとする。
 しかしその直前、ハルが小さく彼に囁いた。
「……それらしい遺体が見つかりました。おそらくは口封じかと」
「そうか」
 クリストが低く返し、すぐに俺の後に続いて馬車に乗り込んできた。
 どうやらハルは御者でもあるらしい。馬車の中に乗り込んだのは俺とクリストだけで、そして移動中、彼は俺を見ようともしなかった。

 馬車を降りた瞬間に目に入ったのは、白い石畳だ。
 それから、整然と並ぶ立派な木。
 木々の向こうには厩舎と思われる建物があった。俺とクリストが馬車から降りるのを確認したハルは、御者台から馬に鞭を打ってそちらの方向へと進ませた。
 そして、城。
 巨大な建物が目の前にあった。
 警備の人間だと思われる騎士たちが、庭に複数出ているようで、そっと辺りを見回しただけでも結構な人数の人影が見えた。
「魔法書のある図書館が解放されている」
 クリストが俺の横に立って、小さく囁く。「お前はそこで時間を潰しているといい。下手に動き回られると困る」
 俺はそっと彼の横顔を見て、ぎこちなく頷いて見せた。
 だが、その表情が僅かに強張ったのが見えて、彼の視線の先に目を向けた。
「……これはこれは」
 そう声をかけてきたのは、白髪の老人だった。
 アリウスよりも年上だろう。その顔に刻まれた皺はかなり深く、伸びた眉毛すら真っ白だ。長い眉毛に隠れてその瞳はあまり見えなかったため、彼がどんな表情をしているのかは解らなかった。
 口元だけは笑みの形をしていたが、それは……作り物めいていたのだ。
「こんにちは、ヴァイロン様」
 そう返したクリストの声は朗らかだった。
 気さくな雰囲気、誰からも好かれるような――。

 だが、相手はそんなクリストを警戒したように見つめ、さらに俺に視線を投げてきた。刺すような視線。それは不愉快極まりないものでもあった。
 そこに、若い男性が姿を見せ、ヴァイロンと呼ばれた老人の後ろに立った。赤毛の男で、妙に険しい表情で俺を見た。
 その後で、赤毛の男はヴァイロンの耳元に顔を寄せ、何か囁いた。
 ヴァイロンは微かに頷き、そのままクリストに軽く会釈をすると踵を返した。
 そして。
 その二人の背中を見つめていたクリストが、ふ、と息を吐いたのが解った。
 俺がその横顔を盗み見ると、クリストの横顔がぞっとするような笑顔を貼り付けていたのが見えた。
 綺麗な顔立ちをしているからこそ、その笑顔は恐ろしかった。


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