宿屋に帰ると、俺はクレイグの顔が見れなくなった。
村の様子も宿屋に泊まっている客の様子も、あまりにも変わらなさ過ぎて、今の自分がおかしいのかもしれないとすら考える。
明らかに俺に気を遣っているクレイグの腕も、いつまでもそうしているわけもいかないだろうし、それ以前に気まずさが先に立った。
だから、俺はいつもにも増して冷静であろうと――いや、冷静さを見せかけた表情を作ろうと苦労した。だが結局、クレイグの表情は変わらなかった。
「一人で休めるか?」
そう彼は何か懸念しているかのような表情で言う。
「当たり前だ」
そう応えながら、彼が考えていそうなことを予想して自分の手を握りしめる。爪が手のひらに食い込む痛みが、少しだけ心地よい。
宿屋の階段を上がって俺が借りている部屋の前に立つ。すると、クレイグはさらに何か言いかけ、そして口を閉ざして眉を顰めた。
何も言葉が見つからないのだろう。
当然だ。
俺だって、もしもクレイグが同じような目に遭ったとしたら、何も言えないだろう。言いたくもない、とも言える。
「大丈夫だ」
俺はドアノブに手をかけつつ、何とか口を開く。「あいつは、俺が殺す。今回のことは気にするな。これは俺の問題だ」
「いや」
そこでクレイグが真剣な表情で首を振る。「仲間を傷つけた奴は許せない。だから、お前があの獣人を殺すというのなら、手伝う」
「仲間、ね」
俺は小さく苦笑した。
俺たちは『仲間』と言えるほど親しいわけじゃない。
ただお互い、都合がよかったから偶然一緒に行動しているだけだ。
俺はクレイグのことは真面目な男だと思っているが、ただそれだけだ。必要なことだけをしゃべり、必要なことだけをする相手。それ以上でも以下でもない。ただ、一緒に旅をしているから接している時間が長いだけの相手。
「やれないことは言わない方がいい」
やがて、俺はそう呟いてから、ドアノブを捻って開けた。そのまま部屋の中に入ろうとすると、クレイグが俺の腕を掴んだ。
咄嗟に俺はその手を振り払った。
自分でもよく解らない。
急に身体が拒否反応を示したからだ。
凄まじく驚いた時に身体が跳ねるような感覚でもあった。
「すまない」
手を跳ね除けられて若干傷ついたような表情をするクレイグに、俺は小さく謝罪した。自分の手が震えていて、心臓が何かで掴まれているかのような息苦しさも感じた。
「わざとじゃない」
重ねてそう言いつつ、そこで自覚した。
誰かに触れられるのが怖い。
それが例え、クレイグ――人間であったとしても。
酷く、恐ろしい。
「お前はあの銀色の奴が気に入ってるんだろう」
俺は厭な音を立て続ける心臓を気にしつつ、クレイグに話しかける。頭が上手く働いてくれない。だから、思い浮かんだ言葉だけを連ねる。
「その仲間――獣人はあいつの仲間なんだ。つまり、お前には殺せない相手だということだ」
「それとこれとは」
「いいんだ、お前には何も期待しない」
「コンラッド」
「期待、したくないんだ。解るか? 土壇場で攻撃の手を緩められるくらいなら、俺には関わらずに放っておいてもらった方がいい」
そこで、俺は何とかクレイグの顔を見つめ直し、その厭になるくらいまっすぐな感情が浮かぶ彼の双眸を覗き込んだ。お前には何も期待しない、と言った直後、間違いなく彼の目には暗い影が浮かんだ。苦悩らしき動き。
ほらな、と思う。
見かけに騙されて、魔物寄りになった人間。それがクレイグだ。
どうせ、お前は戦えない。
だから、余計な期待などしない。今までもそうであったように、俺は俺の力だけで戦う。
そしてあまりにも唐突に、これは自己暗示に近いな、と理解した。
「それに、俺の手でやらなきゃいけない」
俺はそこで小さく肩をすくめ、ただの強がりにしか見えないだろう表情を作る。「立ち直るためには、俺の手であいつを殺して終わりにさせなきゃならない。解るだろう? そのくらいは」
「……解る」
クレイグも何故か、奇妙な表情をしていた。「それでも、俺は……」
「もういい」
俺はそこで部屋の中に入り、そのまま扉を閉めようとした。しかし、クレイグが慌てたように扉に手をかけて閉まるのを防いだ。
「仲間なんだ」
クレイグが口早に言う。「俺たちはそれでも、仲間なんだよコンラッド。だから俺はお前のことが」
「仲間だっていうなら」
俺の声が自然と大きくなった。「もう、放っておいてくれ。俺のために、さっきのことは忘れてくれ。お前はお前のことだけをやっていればいい!」
そう叫んでから、俺は勢いよく扉を閉めた。
そして、まだそこにいるであろう彼に、こう続けた。
「お前には感謝してる。戻ってきてくれて、あれほど安心したことはない」
そうだった。
それだけは間違いのないことだった。
さっきの絶望の後で、クレイグが近くにいると気づいた時のこと。あの時、俺は自分の弱さにも気づいた。
そして今も、奇妙な感じだった。
俺がこんなことを言うなんて驚きだ。
しかも、悪い意味で。
「感謝してる。……ありがとう」
くそ、心臓が厭な感じだ。
こんな言葉を口にするなんて、とても俺とは思えない。
木の扉はそれほど厚いわけではない。安い宿賃に見合うだけの扉。だから、俺のその言葉も、そしてクレイグの次の言葉も、それほど大きくないのに伝わった。
「なあ、コンラッド。俺は道を誤りたくない。だから、お前が迷惑だと感じようとも、仲間としてお前の力になる。お前を裏切るなんてことはしない。これだけは忘れないでくれ」
それを聞いて、俺は笑い声を押し殺した。
クレイグはバカな男だと思う。
そして一番愚かなのは、それを信じてしまいそうになる自分自身だということも解っていた。
その後しばらく、俺は自分の部屋にこもりきりだった。
心が弱っている。それを自覚したからこそ、鏡を見つめながら自己暗示をかけ続けた。
ギルバートを殺し、元の自分に戻る。
魔物を殺し、楽しんでいた自分に戻る。
そして、何もかも忘れて最初から出直す。
それしか俺に残された道はない。
自己暗示は上手くいったと思う。
自分の中が憎悪で埋まっていく感じは、自分が強くなったような錯覚さえ起こさせてくれた。
もう大丈夫だ、と思えるようになり、部屋の外に出る。
精神的なもので食事すらもまともに取れていない状況で、それでも疲れなど感じることがなかったのは、自分でもおかしいと感じていた。
クレイグは部屋から出てきた俺を見て安心していたようだったが、俺はそんな彼に自分から声をかけることもなく、ただいつもの生活に戻ることに必死だった。
いつも一緒にいた神官は、数日前から神殿に行ってしまっていて、宿には戻っていない。これも俺にとっては好都合だった。必要以上に誰かと接触を取るのも煩わしいからだ。
そしてそんな状況で、ギルバートの姿を見ることになった。
ギルバートの姿を何故か宿屋で見ることになった時、俺は血が頭に上るということを経験した。
全身に鳥肌が立ち、手が震える。思考能力が低下し、その直後に自己暗示のおかげなのかは解らないが、憎悪が俺の行動を支配した。
「よお、元気ー?」
そんなお気楽な口調と、満面の笑みを浮かべたあの獣人は、宿屋の階段を降りた場所で軽く手を挙げていた。
宿屋の中は騒々しい。
人間の姿も多い。
そんな中で、あまりにも自然に。
ギルバートも人間の姿をしているせいで、その場所に溶け込んでいて違和感はない。その雰囲気も、そいつが獣人であることを知らない人間から見れば、とても友好的なものに映っただろう。
俺は眩暈すら覚えつつ、何か口にしたような気がする。
しかし、気づけば俺は攻撃の魔法の呪文を詠唱し、周りのことなど気にせずそれをギルバートに向かって放つ。
「学習しねーなー」
ギルバートのその声で、俺は自分の魔法が上手くいかなかったことを知った。
ギルバートの腕には以前も見た銀色の腕輪があり、その力は弱まっているはずなのに壊せない。
怒りは俺の足を動かしてくれる。
憎悪が俺に生きる理由を与えてくれる。
だが、それは俺から冷静さと判断力を奪う。
いつもなら失敗しないであろう魔法の呪文に、粗が目立つ。攻撃力も大幅に減っているのだろうと思う。
こんなはずではなかった。
俺はクレイグの腰に下がった剣に手を伸ばし、魔法が駄目なら力づくでも――と考えた。もちろん、そんなのは無謀だ。
だが、もう自分が殺されてもいいような気がした。
このまま生きていくのが恥そのものであるなら、生きていくのは単なる苦痛でしかない。
この時、ギルバートの笑顔があまりにも明るすぎて、俺は吐き気すら覚えていた。
この獣人はお詫びをしたい、とか言いだしている。しかし、そんなもの、くそくらえだ。
大体、何がお詫びになるというんだ?
「とりあえず、綺麗なおねーちゃんのいる店を紹介するから」
と、奴が言いだした時には、殺意どころか虚無感しか覚えることができなかった。
俺は、こんな奴に――あんな目に。
そして結局、この日はギルバートを殺すことには失敗した。
宿屋で暴れてしまったせいか、追い出されてしまったために村の大通りで戦う羽目に陥り、そして村人の邪魔などが入ったせいで、ほとんど何もできなかった。
「おねーちゃん紹介じゃ駄目なの?」
ギルバートはその場を離れる時、困ったように頭を掻いていた。その仕草一つ一つにすら嫌悪感と怒りで我を忘れそうになる。
「この村じゃなくても、隣の村にもいい店があるし。お前、男じゃなくて女の方が好きなタイプだろ?」
そう笑う獣人の顔は、限りなく無邪気で、それがさらに俺から理性を奪いそうになった。
――当たり前だ。俺は男なんか。
「店って」
そんな俺の背後から、困惑したようなクレイグの声が響いた。「何故、知ってる? お前は森の住人だろう。それは――その言葉は罠か?」
「罠って何だよ」
ギルバートは不本意そうに鼻を鳴らした。「何かお前ら、俺たちのこと誤解してるみたいだけどさ。俺とか俺の仲間は、結構村に遊びにきてんの。美味い飲み屋だって知ってるし、美人のおねーちゃんがいる店も知ってる」
「何故だ」
クレイグはさらに問う。「それは人間を攻撃するための下見……」
「はあ? やっぱり誤解してるっしょ」
獣人はくくく、と笑ってから続けた。「魔王様からは村の人間を襲えなんて言われてねーもん。命令でも何でもなけりゃ、そんなめんどくさいことしないよ。だからホントは、お前のことも襲うつもりなかったっていって……」
俺はもう一度、そこでギルバートの方へ攻撃呪文を投げた。
しかし、それがぶつかる直前にギルバートの足は地面を蹴り、遠くへと身体を運んでしまっていた。
「……くそ」
俺はそこでその場に膝を突き、急に襲ってきた吐き気と戦った。
クレイグが慌てたように俺の肩に手を置いたが、それを何とか振り払って呼吸を整える。
――大丈夫だ、次は失敗しない。
そう思ったのに、どうしても上手くいかないことが続いた。
それから何度か、ギルバートからの接触があった。
獣人曰く、謝罪したいというのが目的らしい。だが、そんなものは建前に決まっている。
獣人の目的が何であるにしろ、彼からの接触があるというのは、俺にとってもチャンスだった。ギルバートを殺すための時間が与えられたということだから。
獣人の様子はいつも変わらない……と思ったが、だんだん奇妙な目つきで俺を見るようになった。
どうも、この状況を楽しんでいるようにも思える。
獣人一人で俺に接触しようとすることもあれば、銀色の魔物と一緒にやってくる時もある。でも、俺からの攻撃を楽しそうに避ける奴の姿を見るのは、あまり好ましい状況ではなかった。
違う。
殺すのを楽しむのは、俺の方なのだ、という想いが頭の中を渦巻いていく。
「もともと、獣人ってのは戦うのが好きな種族なわけよ」
ギルバートはある時、俺の攻撃を避けつつ目を細めて笑った。「こういうの、好きだな、俺。お前、本気で俺を殺そうとしてるのは解るけど、前の時より楽しい。楽しいのは俺だけだろーけど」
「当たり前だ!」
そう叫ぶ俺に向かって、ギルバートはさらに嬉しそうに唇を歪めて笑う。
「理由もなく殺されるよりは、理由あって殺される方が納得いくしね。今のお前、上から目線じゃないし。超楽しい」
「貴様」
「なあ、もう一回、エッチしねえ?」
「はあ!?」
「今度は優しくするからさ」
「お前……お前……!」
眩暈。
目の前が暗くなる感覚。
そして、忘れてしまおうとしていた光景が一気に頭の中に蘇ってきて、俺の声が情けないことに震えて掠れ、最後には声すらも喉から出てこなくなる。
「何か、今更だけどお前のこと、好きかも。俺、男には興味ねーけど、お前には興味ある」
――駄目だ、と思った瞬間、自分の魔法が暴発するのを感じた。
魔法の呪文が完成する前に、解き放たれたそれは、四方八方に飛び散って、俺や近くにいたクレイグすらも傷つけた。
「……畜生」
俺はひりつく自分の頬を手の甲で拭った。すると、赤いものがそこに線を作る。
それを舐めとりながら、俺はギルバートを睨みつける。
そいつが嫌いだと感じるであろう『上から目線』とやらを、何とかして作りたいと願いながら。
しかし、足が震えて立ち上がれなかった。
『あの』光景が脳裏にちらついて。
あの時の屈辱さえ蘇ったような気がして。
「なあ、コンラッド?」
ギルバートが俺の目の前に立って笑う。「せめて、話し合おう?」
――何を話し合えと。
「引け」
そこに、クレイグの声が響く。
クレイグはいつの間にか俺とギルバートの間に立って、剣の切っ先をギルバートの喉元に突き付けていた。そしてほんの少し、ギルバートの喉を傷つけ、赤い筋がゆっくりと彼の鎖骨の辺りへと降りていった。
「それ以上の攻撃は、俺が受ける」
クレイグがそう彼に強く言うと、ギルバートは困ったように頭を掻いた。
「そりゃ無理だ。あんたを攻撃するのは魔王様に怒られる」
「だったら引け」
「ちぇー」
ギルバートはいかにも不満げに唇を尖らせた後、それ以上俺たちに攻撃することはなく、そのまま森へと姿を消した。
そして、その場に残った俺たちはと言えば。
「戦えるのか?」
そう訊いたのは、クレイグだった。
何とか立ち上がろうとしている俺の手助けをすることもなく――たとえされても断っただろうが――、心配そうに俺を見つめながらさらに続けた。
「今のお前は危なっかしい。自覚はあるだろう?」
解っている。
そんなことくらい、俺だって解っている。
それでも。
「少し休もう。そろそろ、彼も帰ってくるはずだ」
帰ってくる。
ああ、そう言えば、神官がそろそろ戻ってくる時期――。
そこで、ふと思う。神官の力を借りれば、魔物は簡単に殺せるのだろうか。
いや、それでは駄目だ。俺が自分の力で殺すことに意義がある。
だから何としてでも。
「敵を殺すのに、手段を選べないこともある。そう思うことはないか?」
クレイグは酷く静かにそう言って、俺の肩を叩いた。
一瞬だけ、身体がびくりと震えたものの、何とか堪える。
彼の手の甲には、俺の魔法の暴走による怪我が見えた。赤い筋から血が流れ出ているのを見て、俺は一瞬だけ息を呑み、そして、掠れた声を絞り出した。
「それでも、あれは俺の獲物だ」
「そうか」
クレイグはそこで、抜きっぱなしだった剣を鞘にしまい、苦笑した。「らしいといえばらしいけども」
らしいのは俺だけじゃない。
クレイグもしょせん、クレイグだ。銀色の魔物が姿を現せば、心を乱されるらしい。
すると彼も戦うなんてことを忘れ、昔、何が起きたかということにだけ興味を示す。
以前の俺なら、早くそいつを殺せ、と心の中で呟いただろう。優しげな顔立ちの魔物を殺せないクレイグの甘さに舌打ちしつつ、悪態をついただろうと思う。
だが、もう俺は他人のことに構っていられる余裕はなかった。
ギルバートを殺せない現状にうんざりし、疲弊していた。
だから、『話し合い』という彼の言葉にも揺らいだのかもしれない。