「そういや、移動魔法は使えないのか?」
男はふと思いついたかのように俺に訊いた。
ルーズベリーまでの道のりはそれほど近くはない。だから、馬での移動よりは移動魔法の方がいいと考えたのか。
「使えるが、できるだけ使わないようにしている」
俺は小さく返した。彼の目に疑問らしき色が浮かんだので、簡単に理由を説明した。
「結構な力を消費するからな、移動後に隙ができる。敵が近くにいる状態でやるには、リスクが大きすぎる」
そう言って傍らのギルバートに視線を投げると、男は「なるほど」と苦笑した。
「じゃあ、俺が背中に乗せていこうか?」
ギルバートがすかさず口を挟んできたが、俺も男もそれを無視する。
男がすぐに表情を引き締めて俺を見つめ直した。
「移動魔法って俺は使えないけど……っていうか、使える人間はかなり強い魔法使いだって話だけど。お前って、師匠は誰? 有名?」
「さあな。興味ないので知らん」
とりあえず、俺はさりげなく見えるように首を傾げた。アリウスの名前を隠したのは、面倒なことを避けるためだ。以前、別の人間にアリウスの名前を教えた時に、紹介して欲しいとしつこく粘られたから。人間嫌いの域に達しつつあるアリウスに、余計な面倒をかけたら俺すら拒否されそうな勢いがある。
「そういうお前はどうなんだ? ルーズベリーに師匠はいるのか?」
すると、彼は眉間に皺を寄せて唸る。
「……うーん、まあ。師匠は有名らしいけど、俺はなあ……不肖の弟子っていうか、残念な感じなんだろうな」
と、そこで彼は複雑そうな表情でため息をついた。
俺はやっとそこで彼のことに興味を持ち、「そういや、お前の名前は?」と訊くと、彼は驚いたように俺を見つめ、苦笑しつつ応えた。
「そういや、名乗ってなかったっけ。俺はハル。ハル・レナード」
「本当に俺の背中に乗っていかないのか?」
俺たちが馬に乗って移動しようとしていると、ギルバートがそっと近寄ってきて、俺にだけ聞こえるように言った。「利用してくれていいのに」
「迷惑だ」
そう短く返すと、彼は苦笑しつつ続けた。
「二人きりになりたいなら、あいつを振り落とすこともできるし」
「……お前」
俺は小さく舌打ちしたが、ギルバートの表情は真剣だった。
「何か、あいつは厭な匂いがするんだよな。でもまあ、お前なら大丈夫かも。強いし」
「……」
俺は奇妙なものを見るかのようにギルバートを見つめた。そして、改めて気づくことがある。
ギルバートはハルというこの男を信用していない。いつものようにバカっぽく笑ってはいるが、その気配がいつもより緊張しているようだ。
「ハル、先に寄りたいところがあるんだが、いいだろうか」
俺はそこで大きく声を上げ、馬の背中に乗って居心地悪そうにしている男に話しかける。どうやら馬の機嫌が悪いらしく、それをなだめるのに必死で俺たちの会話は聞いていなかったらしい。彼は馬のたてがみをぎこちなく撫でながら、こちらを見ないまま応える。
「別にいいけど、あまり時間のかかる寄り道はしないでくれ」
「解った」
俺がそう頷くと、そこでやっと彼が俺に視線を向けた。
「で、どこに寄るんだ?」
「……家に寄ってくる」
「家? お前の?」
そこで少しだけハルの目が細められたが、空気を読まない――それとも、わざとなのかもしれない――ギルバートのお気楽な声が俺たちの会話の邪魔をした。
「コンラッドのお父さん? 何? もしかして俺たちの交際宣言? 挨拶するよ、俺!」
「お前は黙ってろ」
一瞬、俺はこのバカの頭を殴ってやろうかと考えたりもしたが、この台詞を聞いた後にハルが呆れたように笑い、先ほどその瞳に散らついた影が消えたので、やはりバカはバカなりに頭を働かせたのかとも考える。何はともあれ、ハルは俺が家に寄ると言ったことに何の疑いも抱かなかったらしい。
奇妙なことだが、俺は急にハルという男について疑問を抱き始めていた。
――ギルドで俺に声をかけてきたのは、本当に偶然俺を見かけたからだったのか?
バカは今、厭な匂いがすると言った。
それはどういう意味だ?
家に寄る、と言ってしまったが、それは失敗だったろうか。このままルーズベリーに向かった方がよかったのか。
俺はしばらくの間、ハルをそれとなく観察したが、結局何も答えは出なかった。
俺が暮らしていた村、シルフェは、ルーズベリーに行くには少し遠回りになる位置にあった。それほど大きな村ではなく、商人たちでさえ滅多に寄ることもなく、ギルドもない。
ただ、豊かな自然はあった。
作物を育てるにはちょうどいい地域で、若い男性はその作物を荷馬車に積んで近くの村へ――シルフェよりも大きな村へと売りに出る。
長閑な村だと言えるだろう。
そんな村に、義父とアリウスは住んでいる。
村のはずれにある俺の家には、魔法使いが住んでいるとは思えないくらいの広い菜園があった。義父であるハリスンがそこで庭仕事しているのもいつもの光景だった。
俺が招かざる客を連れてそこに一時帰宅すると、義父は酷く驚いて俺の名前を呼んだ。
そして、俺が義父に言葉を返すより早く、ギルバートが俺の前に出て暑苦しいまでに無邪気な笑顔を浮かべて言った。
「息子さんを俺にください」
そのバカの後頭部を殴り飛ばすことになったのは、当然の結果というか、予想できていたことと言えるのかもしれない。
殴られた頭を抱えて前のめりにしゃがみこんだギルバートの背中をさらに蹴り飛ばしてから、俺は義父に短く言った。
「『これ』は気にしないでくれ」
「……一体、どうしたんだ」
地面にうつ伏せの状態で、俺の足で踏みつけられているバカを途方に暮れたように見下ろした義父は、眉間に深い皺を寄せて言った。
ここしばらく会っていない義父の顔には、幾分かの疲れが見て取れた。
「色々問題が起きたんだ」
俺が小さく言うと、義父の瞳が俺に向けられた。しかし、何か言う前に俺の背後でこの様子を見ていたハルにその視線は向かい、困惑したような笑みが浮かぶ。
「随分と客が多いようだ。とにかく、中に入れ。疲れているだろう」
そう言って、義父は穏やかな笑みをハルに向け、軽く頭を下げる。俺がちらりと視線をハルへ投げると、どことなく奇妙な目つきの彼の表情が目に入る。
その時。
「……あのさあ」
俺の足の下でバカが情けない声を上げているのが聞こえた。「俺が新しい性癖に目覚める前に足をどけてくれないかな」
「『それ』については話を聞かせてくれ」
義父は俺の足元にも目をやって、顔を顰めた。
俺は小さく溜息をこぼし、ギルバートについてどう話したらいいのかと悩む。
今は見た目だけは人間だが、獣人であることは間違いない。義父は魔法使いであるのだから、ギルバートが人間とは違う気配であることにも気づいているのかもしれない。
だが、その表情には怪訝そうな色が浮かんでいるだけで、警戒している様子は見て取れなかった。
「……お前を探している人間がいる」
俺がバカから足を離して家の中に入ろうとすると、すれ違いざまに義父が囁いた。「どうやらルーズベリーから来たらしいが、こんな村まで足を延ばすなんて、よほどのことだろう」
「それは」
俺が思わず問い返そうとしたが、義父が俺の肩を軽く叩いて家の中に入るように促したのでそれに従う。
ありがたいことに、義父に触れられるのは嫌悪感を感じない。
それどころか、自分でも理由のつけがたい安心感を覚えた。
「へえ、ここがお前の家なんだ」
ハルが俺の後に続いて家の中に入り、興味深そうな声を上げている。
義父が台所に足を向け、飲み物か何かを準備しようとしていることに気づいて、俺は一緒に行くべきか悩んだ。
ハルとバカを居間に二人きりで残していくのは不安だった。目を離して勝手に家の中をうろつきまわられても困る。
しかし。
「なあなあ」
ギルバートが、椅子に腰を下ろしたハルの顔を覗き込んで笑顔を浮かべているのが見えた。相変わらずの暢気さだったが、それは演技なのかもしれない。
「やっぱりさ、相手のお父さんに挨拶するってことは、手土産とか必要だったんかな?」
「……ま、男女間だったら必要だろうな」
呆れたように言葉を返すハルも、戸惑っているように見えた。「っていうか、お前、どこまで本気?」
「どこまでって……全部本気だけど」
バカがハルの向かい側にあった椅子に腰を下ろし、真剣な眼差しで彼を見つめている。「あいつを嫁に欲しいっていうか、俺が嫁になってもいい」
「バカだろ、お前」
「あー、よく言われる」
バカが笑顔を見せ、ぎこちなく頭を掻くとハルがさらに情けない顔をした。
「照れるな、褒めてないからな、今の!」
俺はしばらく額に手を置いて目を閉じて、彼らの会話をそれとなく聞いてから、のろのろと台所へと移動した。
バカが変な話をしているせいで、ハルが万が一、家の中を見て回りたいと考えたとしても、その暇はないだろう。とはいえ、それはそれで不安もあったが。
「誰が俺を探してたって?」
台所に入ってすぐに、俺は義父の背中に声をかけた。
以前と同じ、整然とした台所だ。義父の趣味は料理といっても間違いではないくらい、ここで過ごす時間は長い。いつも綺麗に掃除され、必要なものが色々と並んだ棚はあっても、雑然とした様子はない。
お茶の準備をしていた義父は、その手をとめて俺の方を振り返った。
「ライルという男の使いだとか言っていた。知り合いか?」
「ああ、面識はある」
俺は眉を顰める。
だが、それ以上の関係ではない。こんなところにまで探しに来るなんて、一体何があったというのか。
いや、それよりも気になるのは。
俺はライルに家の話などしていない。何故、ここを知っている? どうやって知った?
「アリウス様もお前と話をしたいと言っていた。……俺はもう、話をした」
「義父さんも? 一体何の話を……」
俺は困惑して首を傾げ、義父の顔を見つめ直す。
すると、義父は苦笑と共に言った。
「今まで信じていたものが嘘だと解ったら、お前はどうする?」
――意味が解らない。
何を突然言い出したのか。
俺がただ黙って義父を見つめたままでいると、義父の目に苦しげな感情が浮かんだのが解る。そして、俺から目をそらすと小さく言った。
「とにかく、後で話そう。しばらくここにいられるのか?」
「それは……」
俺が一瞬だけ視線をそらし、ハルたちがいる方向へ目をやると、義父も何か察したらしく苦笑した。
「元気でやっているようで何よりだ。仕事は順調そうだな」
「いや、全く順調じゃない」
俺がつい舌打ちすると、義父の目元に笑い皺ができた。そして、飲み物の入ったグラスを二つ俺に押し付けた後、あと二つのグラスを手にして居間へと歩き出した。
その後を追いながら、俺は義父の声に含まれる暗さ――陰鬱といっても間違いではないものに困惑していた。
「でもな、結局は金がないと生きていけないわけだ」
居間に入ろうとすると、中からハルの声が漏れてきていた。扉はそんなに薄いわけではなかったが、隙間はあった。だから、簡単に会話の内容が聞けるというわけだ。
「食うものに困る状況で育ってきたら、信じるものは金だけ、ってなるもんだろ?」
そのハルの声は酷く真剣に聞こえたが、楽しげな響きも確かに混じっていた。
「んー。そうかもしれないけどさ」
ギルバートの声は納得いっていないような響きがあった。「それだけって寂しくねえ? 金に固執してると、結構色々なものをなくすもんだぜ?」
「解ったようなことを言うねえ」
ハルが小さく唸る。「そういうことを言えるのは、幸せに育ってきた奴だけ。本当の底辺の生き方ってのを知らないんだよ」
「……結構、俺だって不幸せだと思うけどなー」
見なくても解る。
今、ギルバートは明らかにすねた表情をしている。あの、バカっぽい顔だ。
「頭の中は幸せそうだよな」
俺が考えていたことをハルが口にした。
そして、ギルバートが小さく言った。
「……コンラッドと同じようなことを言うのな。くっそー」
「コンラッド、ね。ってか、お前、諦めたら?」
「え、何が?」
「もともとあいつが男好きならともかく、それ以前にめちゃくちゃ嫌われてるじゃん、お前。無理だろ」
「そりゃそうだけど」
ギルバートがため息交じりに言う。「やっぱり、ちょっとは無理やり押し倒した方がいいのかな。じゃなきゃ、もう絶対にやらせてくれない気がするし」
「黙れケダモノ」
俺は居間の扉を足で蹴り開け、バカの顔を睨みつけた。
そして、テーブルの上に飲み物の入ったグラスを乱暴に置くと、そのままソファに座っているギルバートを見下ろした。
明らかにバカは身体を強張らせ、やがて引きつったような笑顔を俺に向けた。
「……どういう仲間なんだ?」
俺の後ろから続いて居間に入ってきた義父は、困惑したように笑いながら皆の顔を見回していた。そして、俺よりもずっと優しく飲み物の入ったグラスをテーブルの上に置く。
「あ、俺は息子さんの」
「いいから黙れ」
瞬時にソファから立ち上がって義父の手を取ろうとしたギルバートの肩を掴むと、そのまままたソファへと押し戻す。
しかし、ギルバートは諦めなかった。
ソファに座った格好で義父を見上げ、にこやかな笑顔で続けた。
「息子さんの命を守りたいと思ってます」
そう言ってから、その視線はハルへと向けられる。「で、お前、何者? 敵なんだろ?」
ハルはその時、テーブルの上からグラスを手に取って口をつけたところだった。
その目だけがギルバートに向けられ、動きがとまった。
「なあ、どうなん? コンラッドに目をつけたのは何でだ?」
真剣な表情のギルバートは、『バカ』には見えなかった。その双眸に揺らめくような輝きが灯り、風もないのに僅かに髪の毛が揺れる。
髪の毛の間を割って飛び出てきた獣の耳、笑う口元から覗く犬歯。
「俺を――獣人を売り飛ばして金にするなんて話も、あんまり現実味がないしな」
そう低く笑ったギルバートを見つめながら、俺は小さくため息をついた。
――やっぱり聞こえていたか、と思った。
「別に、本当に金が欲しいだけさ」
やがて、ハルはグラスをテーブルの上に戻し、足を組んで笑う。
酷く余裕の感じられるその仕草に若干困惑したものの、俺はただ無表情で彼を見つめていた。
「金がなければ生きていけない。さっき言った通りだ。金になるものだったら何でも利用する。これも当たり前のことだろ?」
「獣人……?」
俺の横で義父が小さく呟いたのが聞こえたが、そちらを見ることはできなかった。俺の目の前で、ハルの表情がゆっくりと変わっていくのが見えたからだ。
お気楽な魔法使い。
あまり魔法使いとしての力は感じない、一見するとただの旅人でしかない彼。
しかし、その表情が酷薄なものへと変化していく。
「コンラッドのことだって偶然ギルドで見かけただけだよ。探している人間によく似てたから。それじゃ納得いかない?」
その言葉を聞いて、ギルバートが鼻を鳴らした。
「いかないね」
「へえ?」
ハルは馬鹿にしたように笑い、目を細めて続けた。「でも、間違ってる。俺は敵じゃないし、『お前の』コンラッドの命も狙ってない。本当にルーズベリーに連れていくだけが目的で、それ以上のことは何もないんだ」
「ルーズベリーに……何をしにいく?」
そう訊いたのは義父だった。
そこで視線だけ義父の方へと向けると、僅かに顔色の優れない横顔が見えた。
「別に? 金儲けにいくだけだけど」
ハルの笑みは崩れない。
そして、義父の硬い口調も変わらず。
「息子を連れていけば金になる、そういうことか?」
「そう。悪い話じゃないと思うんだけどな。全く危険なことなんて何もないんだし」
「……リィン・キンケイドという男に似ているから、面通しって話だったろう」
そこで、俺も口を挟んだ。「本当に信用していいのか? 本当にそれだけの目的なのか? いや、違うんだろう?」
「面倒くさいなあ」
そこで、やっとハルの笑みが消えた。そして、小さく肩をすくめてから俺を見つめ直し、困ったように続けた。
「説明とかしたくなかったんだよね。時間の無駄だし、適当な嘘で誤魔化されてくれていればよかったのに。大体、家に寄るなんて言い出すから厭な予感はしたんだ」
「適当な嘘、ね」
俺は舌打ちしてから続けた。「まあいい。金は確かに必要だが、それほど困っていない。俺は手を引くから、あんたはルーズベリーに帰るといい」
「そりゃ困るよ」
「何故だ」
「だって、これが仕事だから」
――だったら、別の男を探せばいい。
そう言おうとした。彼の目的は、リィン・キンケイドという男を探すことだったはずだ。もしくは、似てる男を探す。
だが、ここまでくれば簡単に予想はできた。
それが目的じゃなかった、ということだ。
「俺はさ、師匠に言われてあんたを探してたんだよ」
やがて、ハルが仕方ない、と言いたげな表情で言った。「でも、あのギルドで見つけたのは運だよ。あんたの足取り、なかなかつかめなかったし」
「師匠?」
俺が眉を顰めると、ハルは一瞬だけ警戒したような目つきで義父を見つめた。
「師匠とやらの名前は?」
義父が静かに訊いた。
すると、ハルは薄く笑って首を傾げて見せた。
「……クリスト・キンケイド。ここにいる、コンラッドの実の父親」