高級住宅街の一角。
私は少し、戸惑っていた。彼らの後について歩いていった先が、あまりにも『らしくない』場所だったからかもしれない。
吸血鬼が生活する場所が、こんなところでいいのだろうか。右を見ても、左を見ても、一目で裕福な──裕福すぎると言っていいほどの家々が並んでいる。
七瀬さんが足をとめたのは、そんな中でも大きな家の一つで、私はまず、その家を取り囲む塀の高さに驚いた。そして、頑強そうな門が現れたことにも。
七瀬さんが門の右側にあったインターフォンのボタンを押して、少し経った後。
「今、開けます」
そこから静かな女性の声が聞こえてきて、門にかけられていた鍵が自動的に解除される。七瀬さんは門を押して中に入ると、私たちを振り返った。
すると、並んで立っていた秋葉が私を気遣うように見つめた後、わずかに私よりも後ろに下がる。それは、先に中に入れということに違いない。私は一瞬躊躇った後、ゆっくりと七瀬さんの後に続いた。
庭も広い。綺麗に手入れされた植木と、大きな庭石。家の右側にあるガレージには、黒いインスパイアが停まっていた。
門を通り抜けて辺りを見回しているうちに、ふと目に留まった物がある。
玄関の右上に取り付けられたビデオカメラ。
「セキュリティには気を使っているの」
七瀬さんが私の視線を追って、小さく笑う。「何かと危険が多いからね。悪いけど、あなたにも我が家のルールに従ってもらうわよ」
もちろん、それに逆らうつもりはない。
私が彼女の言葉に頷いて見せたとき、二十歳くらいの女性が玄関のドアを開けて我々を出迎えた。
「お帰りなさいませ」
彼女は礼儀正しく七瀬さんと秋葉に向かって頭を下げた後、その瞳を私に向けた。長くて真っ直ぐな黒い髪の毛が印象的な女性だ。彼女は白いブラウスに黒いタイトスカートという格好で、物静かな雰囲気をまとわせていた。
それから、彼女は七瀬さんに視線を戻す。それは、七瀬さんの説明を待つための行動だったろう。
「彼は蓮川大介さん。我が家にしばらく滞在するわ。客間の準備をしてもらえる?」
七瀬さんが玄関で靴を脱ぎながらそう言うと、すぐに彼女は頷いてドアから一歩下がる。我々が家の中に入ると、ドアを閉めた後に彼女は頭を下げて二階へと歩いていってしまった。
「……身の回りのことは彼女──冴子が全部やるわ。何か足りないものがあったら彼女に言ってちょうだい」
「ありがとう」
私はそう応えながら、やはり居心地の悪さは感じずにはいられなかった。広い家、高価そうな置物。玄関を上がるのも躊躇う。
「家の中を案内するから、早く上がって」
私がしばらく玄関先に立ったままでいると、七瀬さんが苦笑しながら続けた。「男がそんなところに二人も立ってられると邪魔だわ」
私はそれを聞いて、すぐそばに立ったままずっと無言だった秋葉の横顔を見やる。彼は無表情に宙を見つめていて、あまり七瀬さんの言葉が頭に入っていないようだった。私が彼のことを見つめているのにも気づいていないようだ。
私はそんな彼に戸惑いながらも、先に家に上がらせてもらう。
そして、背後に秋葉が続く気配を感じながら、七瀬さんの後をついていった。
広いリビングにダイニング。七瀬さんはゆっくりと廊下を歩きながら、家の中の間取りを説明していく。私はずっと黙ったままそれを聞いていたが、いつの間にか廊下の先に男性が立っていることにも気づく。
もちろん、七瀬さんも彼の姿に気づいた。
そこにいたのは三十歳くらいの背の高い男性で、どこか影があるながらも、やはり整った顔立ちをしている。それを見ると、秋葉たちと同じ種族なのだろうという直感が働く。
七瀬さんは彼に向かって軽く手を上げ、明るく言う。
「真治さん、後で打ち合わせしましょう。色々問題が起きたわ」
「──かしこまりました、お嬢様」
彼は無表情のまま頭を下げた後、その視線を私に向けた。その冷ややかな輝きが見る者を威圧させる。
「誤解しないでね」
七瀬さんがすぐに彼に向かって口を開いた。「『彼』が問題を起こしたんじゃないわ。うちの馬鹿が起こしたのよ」
「……悪かったね」
ふと、我に返ったように秋葉が呟く。私が彼の方に視線を投げると、乱暴に頭を掻きながらため息をついている横顔がある。
秋葉は続ける。
「今回のことに関しては、全部俺のせい。だから、大介をいじめないでやってよね」
「かしこまりました」
やはり、平坦な声が返ってくる。
真治と呼ばれた彼はあまり感情が表情に出ないのだろうか、それとも元々そういう性格なのだろうか、どこか近寄りがたい雰囲気があった。私は軽く彼に向かって頭を下げた後、歩き出した七瀬さんの背中を見つめる。
「洗面所とトイレはこっち」
彼女の明るい声に、少しだけほっとする。
秋葉を見やると、彼も少しだけ笑いながら私を見つめていて、何となく緊張がほぐれるような気がした。
私はできるだけ冷静な自分を見せようと表情を引き締めた後、真治の横を通り抜けて七瀬さんの方へ歩き出した。
「キッチンは冴子のテリトリーだから気をつけてね」
七瀬さんは私を台所に案内すると、その広いスペースを見回して言った。大きな冷蔵庫や立派なオーブンレンジ、使い込んでいるらしいエスプレッソマシン。
生活感のある台所だと思う。
「飲み物は適当に冷蔵庫から取ってもいいわ。お酒が飲みたいなら、冴子に言って。ワインなら常備してある」
「いえ、結構です」
私は丁重に断ってから、台所から廊下へと出た。広い廊下の突き当たりに、重々しい扉があるのが目に入る。
ドアの色が全て黒いためか、どこか違和感を感じる。この家には似つかわしくないような。
それに、ただのドアだというのにこの存在感は何だろう?
「そこ、ワインセラーなのよ」
私の後ろから、七瀬さんが声をかけてきて、私は我に返る。必要以上に息を詰めていたことに遅ればせながら気づき、内心苦笑した。
七瀬さんはどこか探るように私のことを見つめた後、こう続ける。
「立ち入り禁止だからね。通常は鍵がかかってるから入れないわよ」
私はそれに無言で頷いてから、もう一度そのドアに視線を投げた。
やはり、どこか奇妙な感じがした。
「蓮川さんを部屋に案内して」
二階から降りてきた冴子さんに気がつくと、七瀬さんが言った。私は七瀬さんに軽く頭を下げた後、冴子さんの後について階段を上がっていった。そのすぐ後ろに秋葉の足音が聞こえる。
「どうぞ」
前を歩いていた冴子さんが、ある部屋のドアの前で足をとめた。彼女はドアを開けて私を見つめ、何か質問は? と言いたげに首を傾げる。
その部屋は整然としていた。八畳ほどの広さで、窓際にベッド、壁際にはクローゼットと机と椅子。数日間滞在するだけなら、充分だろう。
「ありがとう」
私は冴子さんにそう言って、部屋の中に入る。荷物をベッドの上に置いて、ドアのところに視線を投げると、まだ冴子さんはそこに立っている。それに、秋葉も。
私はしばらくの間、冴子さんを観察する。
そして訊いた。
「君は人間?」
「……え」
一瞬、冴子さんが戸惑ったように私を見つめた後、答えを言っていいのかどうか解らないと言いたげに秋葉を見やる。
「そう、人間」
そう応えたのは秋葉だ。彼はどこか疲れたように微笑みながら、開け放したドアの向こうに見える廊下の壁に寄りかかっていた。
「冴子は姉貴の『提供者』だよ」
「潤様」
途端、諫めるような口調でそう囁いた冴子さんは、その眉根を寄せて言葉を探しているようだった。しかし、やがては諦めたようにため息をこぼし、私に視線を戻した。
「潤様のおっしゃる通り、わたしは人間です。そして、七瀬様の『提供者』であり、この家の仕事をほとんど任されております」
「……提供者とは……」
どんな役割があるのだろう?
血を提供するだけではないのか。吸血鬼の身の回りの世話までするというのか?
私が目を細めて冴子さんを見つめると、秋葉が小さく笑った。
「俺たちにとって、『提供者』ってのは特別なんだよな。血をもらって生活する。食事をもらえるってことだ。だから、こっちはその感謝の印に提供者を守ってやる。何か危険に巻き込まれた時には、絶対に助けるよ。そして『提供者』は、血を分けてくれる以外にも俺たちに色々協力してくれる。この世界に上手く俺たちがとけ込めるようにね。色々つながってるわけだ、俺たちってのは」
「特別な位置的にいるから、あの男も私を狙ったということか? 私を君の『提供者』だと思ったから?」
「そだね」
秋葉が床に視線を落として呟く。「ごめんな。本当に色々厄介なことに巻き込んで」
それはその通りだが。
私が困惑して言葉を探していると、そこに真治の声がかかった。
「潤様、一体何があったのか、ご説明を願えますか?」
「姉貴と話したんじゃねえの?」
一瞬の間の後、階段を上がってきた真治の姿に視線を投げた秋葉が、疲れたように笑う。
「もちろんお聞きしましたが、潤様からお聞きしたいのです」
彼は足音もなくこの場まで歩いてきたのだろう。全く気配など感じなかったのに、いつの間にか私からも見える場所に立っていた。
彼は私の存在など全く気にも留めていないと言いたげに、ただ真っ直ぐに秋葉を見つめている。そして、厳しい口調で続けた。
「いつも七瀬様がおっしゃっているように、あなた様はご自分の行動に何の責任も感じておられない。あなた様は秋葉の跡取りで」
「それは姉貴に言われたよ」
秋葉は牽制のつもりで言ったのだろうが、その言葉は真治の耳には入っていないようだ。
「下手に外に出れば、あなた様を狙う輩に手を出されます。その自覚はおありですか?」
「もちろん、それは」
「しかし、結局あなた様は外出し、人間に関わり、厄介なことに巻き込まれる。今回もそうでしょう。七瀬様にお聞きしましたが、今回の怪我も黒崎の配下にやられたそうですね。それもこれも、人間に関わったからでは?」
秋葉はその問いには応えない。
ただ真治を見つめて唇を噛んでいるだけだ。
真治は首をわずかに傾げてこう続けた。
「何故、人間になど関わるのですか? 何のために?」
「……別に。惚れたから関わるだけじゃねえ?」
やがて、秋葉が舌打ちしながら真治から目をそらす。
すると、真治が薄く微笑んだ。それは、あまりにも酷薄な笑みだった。
「あなた様が人間に惚れるのはまあ、仕方ないと言っておきましょう。あなた様は相手が誰であろうと関係ないのでしょう。しかし、あなた様みたいな方に惚れる人間がいるとおっしゃる?」
一瞬だけ、秋葉の眼に剣呑な輝きが灯ったと思った。しかし、それはすぐにかき消されてしまう。そして、その代わりに現れたのは無機質な笑みだった。
「いるかもしんないじゃん。物好きがさ」
「とてもそうは思えませんね」
真治が低く囁く。「無責任な行動を繰り返し、そこから何も学習なさらない。あなたはいつも人間に惚れたとおっしゃいますが、何とも薄っぺらい感情ですね。振られたといって落ち込んでいたのは、つい先日のことでしたね。しかし、もう次を見つけられたようだ。本当に感心しますよ」
ふと、冴子さんが居場所がないと言いたげに俯き、客間の中に入ってきた。片づけるものもないというのに、彼女はどこか慌てたようにベッドの上に手を滑らせ、ただでさえ皺のないシーツを伸ばそうとやっきになっていた。
「大介は違う」
秋葉が平坦に言って、それを聞いた真治が目を細める。
「何が違うとおっしゃるのですか?」
「大介は……本当に、ただ巻き込まれただけだし。本当に、これ以上迷惑をかけたくないんだ。ただでさえ……引っ越しとかさせる羽目になっちゃってさ」
「そうですね、それはあなた様のご責任でしょう」
「……うん」
秋葉が苦しげに頷いたとき、ふと真治の目が和らいだ。少しだけ驚いたように笑いながら、こう続ける。
「そうも簡単におっしゃられますと、こちらも拍子抜けします。いつものように何か言い返したりなどなさらないのですか?」
「しないよ」
秋葉は肩をすくめ、小さく笑った。「本当に、真治の言う通りだし」
珍しい、とその眼が語っているように思えた。
真治はしばらく秋葉を見つめた後、ゆっくりと私に視線を投げる。すると、少しだけ和らいでいた瞳に鋭い光が混じった。
「蓮川さんとおっしゃいましたね」
「……ああ」
私が頷くと、彼は全ての感情を消した表情で続けた。
「できるだけ早く、次の引っ越し先をお探し致します。よろしいですね?」
「ああ」
「そうしましたら、もうこの秋葉家のことは」
「忘れることにする」
「結構」
真治は満足げに目を細めてから、ゆっくりと身を翻した。そのまま階段を降りていったようだったが、やはり足音は聞こえてこなかった。
「……冴子、外して」
やがて、秋葉が小さく唸るように言って。
冴子さんが慌てたように小さく頭を下げ、廊下へと出ていった。ドアを閉め、そのままぱたぱたという足音が遠ざかるのを耳にする。
そして、この場に残されたのは私と秋葉。
私は彼にかける言葉などない。だから、持ってきた荷物を開いて、必要な物を取り出そうとしたその時。
急に、後ろから秋葉が私の腰に腕を回してきた。その頭を私の背中に押しつけるようにして、小さく囁いた。
「俺のこと、嫌いになんないでよ」