放せ、と一瞬言いかけた。
しかし、秋葉の腕はそっと腰に回されているだけで、私が振りほどこうとすれば簡単に振り払えるようなものだった。だから躊躇ったのかもしれないし、秋葉の声の力のなさに戸惑ったのかもしれない。
「嫌われても仕方ないんだ、俺。拒否されるのも嫌悪されるのも慣れてる。だから、期待はしない」
秋葉はかろうじて聞き取れるくらいの声量で続けた。「でも、嫌われたくない。……馬鹿みたいだけどな」
そこで、秋葉は名残惜しそうな手つきで私の服を掴んだ後、ゆっくりと私から離れた。私はそんな彼を振り返り、彼の俯き加減の顔を観察する。そこで彼の口元に笑みが浮かんだが、それは確かに自嘲の笑みだった。
彼はドアにもたれかかり、少しだけ何か考え込んでいるようだった。しかし、やがてその視線が上がり、私を正面から見つめる。
「大介の言った通りだと思う。俺たちは多分、解り合えない。俺はずっと、あんまり人間が何を考えているのかなんて気にしたこともなかった。気にしちゃいけないんだと思ってた。だって……」
一瞬、秋葉の瞳に影が落ちる。
彼はそこで私から目をそらし、言葉を喉の奥に飲み込んだ。
しばらく待っても、彼はそれ以上何も言おうとしなかった。だから、私はこれで会話は終わりだと思い、また荷物の方へと向き直る。
しかし、そんな私の姿を見たからなのか、秋葉が慌てたように言った。
「あ、あのさ、話をしよう」
「話?」
私は無表情のまま彼を見やり、それからわずかに首を振って見せた。「荷物を片づけたい」
「あ、手伝うよ」
秋葉が笑みを浮かべて私の方に歩いてくるのを、私は軽く手を上げてとめた。
「いや、大丈夫だ」
「……迷惑?」
ふと、秋葉が足をとめて不安そうに眉を顰める。私は呆れたように彼を見つめた。
「一人でやった方が早い」
すると、秋葉が複雑そうな笑みを見せる。それから、消え入りそうな声で「……そう」と呟いた。
さて、これは彼の作戦だろうか? どこか同情を誘うような表情と声色ではないだろうか?
私は警戒していた。だから、自分から声はかけなかった。ただ、秋葉の次の言葉を待つ。
すると、居心地悪そうに彼は笑い、頭を掻きながら部屋にあった椅子に腰を下ろす。彼は数度口を開きかけ、そのたびに躊躇い、口を閉じる。
そして、随分後になって彼の口から紡ぎ出された言葉は、どうやら彼が本当に言いたい内容ではなかったらしい。その瞳からは疲れたような輝きだけが残っていて、言いたいことも言えない自分に失望しているようにも見えた。もちろん、それは私がそう感じただけのことで、本当のところがどうなのかは解らない。だが、彼が話し始めた内容は興味を惹かれるものであったから、やがて私はベッドの端に腰を下ろして、彼の話を聞き始めたのだった。
「俺の家は、人間のところで言う旧家っていうヤツで。昔からずっと続く血筋を守り続けてきているし、同じ吸血鬼の仲間から見ても有名で、力もある。本家と分家の争い、なんてことを前に大介に言ったけど、秋葉家が『本家』にあたる。秋葉の姓を持っている者は結構、力のある吸血鬼だよ。他の姓を持っているヤツは、それなりに血が薄まってきてる。吸血鬼としての力も、だんだん弱まってきてるんじゃないかな。最初は人間だったのに、途中から吸血鬼になったヤツも増えてきてるし、そういった奴らは血が薄いよ。吸血鬼としての力も、最初から吸血鬼である奴らに比べれば、ずっと少ないしね」
「契約をするのだと君は言ったな」
私はふと、彼の言葉に口を挟んだ。
すると、彼は小さく頷いた。
「そう、人間に自分の血を飲ませるんだ。そうすると、吸血鬼の血を飲んだ人間の身体に変化が現れる。人間としての遺伝子が破壊され、新しく作り直される。最初は苦しいらしいけど、そのうち楽になる。そしていつの間にか、新しい吸血鬼が出来上がるってわけ」
「血を飲ませる……?」
「そう、それが『契約』の手段。でも、それだけでは終わらない。血を与えた吸血鬼は、その新しい吸血鬼の存在そのものに責任がある。つまり、彼らは『親子』なんだよ。新しい吸血鬼がしでかした問題は、全てその親ともいうべき吸血鬼が片づけなくてはいけないし、吸血鬼の歴史を教え込み、吸血鬼として生きていくための術を全て教えなくてはいけない。そしてまた、子供である吸血鬼は、親に従わねばならない。親に逆らうのであれば、殺される。余計な波風をたてるヤツは仲間にいらない。だから、仲間にする人間を選び出すのには、よくその人間の性格を見なくちゃいけない。吸血鬼の血が混じったことで、もともとの人格とは全く違うヤツになることもたまにあるんだ。そうすると、結構厄介だ。真面目だった人間が、吸血鬼になったら血の味を覚えて殺人鬼に変貌する、なんてのもよく聞く話なんでね」
……ぞっとしない話だ。
私は小さく唸る。
すると、秋葉が薄く微笑んだ。
「でも、秋葉の血筋を持っている奴らはほとんど、人間を『提供者』と選ぶだけで、仲間にしようとはしない。祖先から受け継いだ血を守ることが自分たちの定め、なんてことを考えている奴らばっかりだしな。だから、昔からの取り決めみたいなことを今もずっと守ってる。それが悪いとは言わないし、もしかしたらその方が正しいことなのかもしれない。人間をできるだけ巻き込まず、仲間も増やさず、内輪だけでずっとやっていけたら平和だろう。
でも、それが厭だという奴らもいる。それの筆頭みたいなのが、大介も名前だけは知ってる『黒崎』っていうヤツかな。あの男は正直、厄介だよ。好き勝手に人間と『契約』して、仲間を増やす。あいつが何を考えているのか、全く解らないね。仲間を増やしたって、それが何になるのか解らない。今まで保ってきていた、人間と俺たちのバランスを狂わせるだけなんだろうと俺でも解るのにな」
「バランス?」
私がそう繰り返すと、秋葉は困ったように笑って続けた。
「最終的に吸血鬼ばっかりになったらどうすんのさ。何も、無理な話じゃないぜ。手分けして、どんどん契約していっちゃえばいいんだし。それに、もしかしたら人間は喜ぶかもな。吸血鬼になったら寿命が延びるし、運動能力も上がる。
でも、今までの歴史を考えると、吸血鬼が増えてくると人間がそれに気づくんだ。どこかの神父や宗教家が騒ぎ出すんじゃないかな。悪魔が現れただとか何とか言い出して、俺たちを排除しようとする。ま、仕方ないよな。俺たちは血がなくては生きていけない。でも、吸血鬼になりたての奴らなんか、血を吸う加減なんか知らない。だから、好き勝手に人間を襲っては、血を吸いすぎて人間を殺す。ほらやっぱり、魔物だ悪魔だって言われる。で、狩られるのさ。それが当たり前」
自嘲混じりの秋葉の笑い声が響いた。
それは、少しぎこちなかった。
「随分長いこと、俺たちはこの日本でうまくやってこられた。それは、俺のところのじいさんのお陰かもしれないし、ただ運がよかっただけなのかもしれない。でも、平和っていうのはいいよな。俺、生まれてからずっと好きに人間に関わってきたけど、それで問題なかったもんな。でも、これじゃ駄目なんだろう。秋葉の跡取りっていうからには、もっと人間と関わるときには気をつけなくちゃいけなかった。特に、黒崎のヤツが動いている今は、姉貴の言う通り、この家にじっとしているべきだった」
そう言った直後、秋葉は疲れたようにため息をこぼし、額に手を置いて目を閉じた。そのまま彼は続けた。
「俺たちにとって『提供者』ってのは特別だ。だいたい、惚れてる相手とかを提供者に選ぶことが多いね。提供者としてずっとそばに置いて、いつかそのときがきたら契約をして仲間にする。信頼しているし、誰よりも理解しているし、それにおそらく、二度と離したくなくなる。そいつに死んでもらいたくないと思うようになる。……惚れた相手が百年弱で死んだら、残された方はどうなる? あと何百年、その喪失感に耐える? 無理なんだよ。情がわいたら、絶対に無理だ」
「……しかし、君はそうでもないらしい」
私はやがて、皮肉げに言って見せた。「誰でもいいと思っている。セックスができれば、誰でもいいと」
すると、秋葉が苦しげに笑って顔を上げた。
「死に別れるというのはつらいよ、大介。俺、もう二度とあんな思いはしたくない。大切な相手が自分よりも先に死ぬなんて、絶対に厭だ」
それは、確かに重い言葉だった。
誰か、大切な相手を失った者の声。
私は笑みを消して秋葉の顔を見つめ直した。
すると、秋葉は低く笑ってこう言った。
「俺の親父は、人間に殺されたんだよ。あのときはつらかった。人間を憎んだし、殺したいと思ったし、姉貴がとめなかったら多分その通りにしてた」
「随分俺は荒れたし、最初は人間をゴミみたいに扱ってたかもしんない。だって、あいつらは俺たちを勝手に化け物扱いにして、人間を襲うことなんてしなかった親父を殺したんだ。だから、人間を軽蔑したし、食事のために血を吸う時だって、だいたい無理矢理だったな。その気になれば強姦もした。でも、記憶さえ消せば人間は大丈夫。そう思って何でもしたよ」
秋葉の頬に落ちる影がさらに濃くなって、その瞳には黒々とした何かが映っている。それがとても危険な色をしていたから、私の心臓が厭な音を立てていた。
「でも、人間は悪いヤツばかりじゃない。いいヤツもいる。だから、だんだん俺も接し方が変わった。……大人で落ち着いていて、俺を受け入れてくれる人間には惚れたりもした。……もちろん、長くは続かなかったけど」
「何故だ?」
私がそう訊くと、秋葉はただ笑う。
無気力に、怠惰なだけの笑み。
「本気になったら負けじゃん。死んでもらいたくなくなるもんな。手放したくなくなるもんな。だから、本気にならないうちに適当なところで放り出すんだよ。もしくは、その前に人間が別れ話を切り出してくる。いつものことだ」
やがて、秋葉が囁くように呟いた。
「俺、人間に何を期待してるんだろう。期待しなきゃ、問題なんかないのに」
私はじっと秋葉の顔を観察していた。物思いに沈む彼は、いつになく真剣な顔立ちをしている。それは、精悍な雰囲気すら感じさせる。いつもそうやって真面目な表情をしていれば周りも少しは違うだろうに、と考える。
私の視線に気がついたのか、ふと彼が私を見つめる。
それから、照れ隠しのためか頭を掻いて見せる。
「ええと、大介の両親は? 一人暮らししてるみたいだけどさ」
それは、明らかにそれまでの話から私の意識を引き離そうとしてのことだったかもしれない。だが、真剣な眼差しで訊いてくる彼の様子は、それだけの理由ではないと思わせる何かがあった。
「……両親は元気だ」
やがて、私は短く応えた。
そう、両親はいる。私だけ仕事のために上京してきているが、年末年始や長期の休暇になると実家に帰ってその顔を確認する。
「一人っ子?」
秋葉の質問が続く。だから私も答える。
「いや、弟がいる」
「へえ、何て名前? 何歳? 大介に似てる?」
「名前は大地。十七歳。多分、それほど似てない」
「ふうん。結構、歳は離れてるんだ」
「ああ」
私はそう頷いてから、内心でこう付け加えた。
──似ていないのは、血が半分しかつながっていないからだろう。
私が幼い頃に、母親が亡くなった。父親は真面目な男で、それから男手一つで私を育ててくれた。しかし、やがて父は職場で出会った女性と再婚する。そして、生まれたのが私の弟だ。
新しい母親は私たちを分け隔て無く育ててくれたと思う。
私も母のことは好きだ。明るくて無邪気で、裏表がない。
しかし、だからこそ、なのかもしれない。私はやがて家を出ようと思った。特にどこか、弟の大地が私に遠慮しているらしい雰囲気を出すようになってからは。
血のつながりが半分しかないということは、最初から弟には伝えてある。後でそれを知るよりは、ずっといいと父が言っていたからだ。
でもやはり、うまくいかないところというのは出てくるものだ。私に気を使う弟を見ているうちに、私は疲れてしまった。だから、仕事のためといって上京し、一人暮らしを始めた。とてもそれは気楽で、自分らしく生活できる。だから、満足していた。おそらく、弟もそうだろう。私がいない方が、自由に呼吸できるに違いない。
「大介って面白いな」
ふと、秋葉が笑う。
そこで、彼がずっと私を観察していたらしいと気づく。私は表情を引き締め、何が面白いのかと問いかける視線を投げた。すると、秋葉は首を傾げて見せる。
「いや、どこが面白いのか、うまく言えないんだけど。クールで大人なんだな、とは思う。でも、冷たくはない。あんたは俺のことを嫌ってるはずなのに、さっきは説教までしたろ。姉貴の言葉は聞くべきだって。あんなの、普通言えないよ。だって俺たち、人間じゃないのに。普通、そこまで考えない」
そうだろうか。
私は眉を顰める。
首を傾げたままでいると、秋葉が楽しそうに笑う。そして、その笑みが消えたとき、少しだけ心配そうな視線で私を見つめていた。
「……大介、俺のこと嫌い、だよね」
それは、ひどく頼りない声。
私は戸惑うだけだ。
「でも、嫌われたくないんだ。せめて、これ以上は嫌われたくない」
秋葉が恐る恐る椅子から立ち上がり、私の方に近寄る。私はつい身構えて、咄嗟に自分も立ち上がり、彼から距離を取ろうと思った。
そんな私を見つめ、慌てて立ち止まった彼は言葉を探すように視線を宙に彷徨わせた。
「……どうすればいいかな? 俺、どうしたらこれ以上嫌いにならないでいてくれる?」
「どうしたらと言われても」
私は困惑が滲み出た声で返す。「これ以上、君とは関わりになりたくないというのが正直なところだ」
「……そうかあ」
ふ、と彼が淋しげに笑う。
──これも計算のうちに違いない。
──その苦しげな笑みも、切なそうな瞳も。全て狙ってのことのはずだ。
私はそう自分に言い聞かせる。これ以上、彼のことについて深く関わってはいけない。そして、自分にも深く関わらせてはいけない。
どうせ、次の住む場所が決まり、引っ越しが終わった時点で我々の接点も消えるだろう。それまでの辛抱だ。
「大介が俺に望むことって何? 俺にどうしてもらいたい?」
秋葉はさらに訊いてきた。
だから、私はこう応えたのだ。
これが約束されれば、私も安堵できるからだ。
「私に触らないで欲しい。血を吸うのもやめてもらいたい。そして、もう二度と……ああいうことをしないで欲しいんだ」
「ああいうこと?」
彼は少し、訝しげに私を見つめた後で、「ああ……」と呟いた。私の言葉の意味を理解してくれたようで、数度頷く。
そう。
彼は私に対して、好ましくないことをしてくれた。私はもう、あんな思いをしたくなかった。あんな自分を見つけたくなかった。
血を吸われることも、確かに気持ちいい行為ではあるものの、どうしても受け入れがたいのだ。
快楽に流される自分こそが厭なのだろう。
あれは自分ではない。
そう信じたくて仕方ない。
そして、秋葉との……性行為も、忘れたかった。あれは夢であったと思いたかった。
「触れるのも駄目なんだ?」
秋葉は哀しげにそう言った後、私を正面から見つめる。だから、私はその視線を受けとめて強い口調で応える。
「ああ、二度と触られたくない」
「そっか」
秋葉は軽くそう応えた。「そうだよな」
彼は何度もそれに頷いて見せたが、どこか苦しげだった。
そして私はといえば、彼にどんな情もわかないようにと言い聞かせていた。先ほど聞いたばかりの彼の父親に関すること、それは確かに哀しい出来事だと思う。同情してしまいそうだとも思う。
これはよくない兆候だ。
だから、私は必死に考える。
意識を秋葉から切り離さなくてはいけない。
「そういえば、先ほど君は『じいさん』といった気がする。君の家族は、お姉さんと……?」
「ああ」
秋葉は我に返ったように息を吐いて、小さく笑う。「じいさんと母さんがいる。でも、今は……」
そこまで言いかけて、彼は言葉を切った。どこか、後ろめたいと言いたげな目が私に向いた。
「ごめん、じいさんは命を狙われてるから、あまり詳しいことは言えないんだ。母さんもそのじいさんと一緒にいるし……。大介は人間だし、俺の提供者でもない。だから、説明できることとできないことがある」
「ああ、それならいい。説明は無用だ」
私はすぐに頷き、彼に笑いかける。それはぎこちない笑みだったと思うのに、秋葉は私のそれを見て嬉しそうだった。
私は内心、ため息をこぼした。
何だか心境は複雑だった。
私は一体、何をしているのだろう。