首筋の契約 12



「お食事の準備ができましたが」
 やがて、ドアの向こう側から冴子さんの控え目な声が聞こえてきた。
 我に返った私はぴくりと肩を震わせたが、秋葉はしばらくの間私を見つめたままだった。しかし、やがて小さく笑って「いこう」と言った。
 一瞬、疲れているからと言って食事を断ろうかとも思った。正直、食欲もない。だが、この家に泊まる初日からこんなことでは、礼儀を欠くような気がして頷いて見せた。
 私は部屋の片づけも途中のままで、冴子さんや秋葉の後に続いてダイニングルームへと向かった。大きなキッチンが見えるダイニングルームの中に入ると、私は少しの間辺りを見回していた。
 大きなテーブルには、椅子が六つ添えてある。
 その一つに、七瀬さんが座っている。テーブルに肘をつきながら、ぼんやりと台所の方へ視線を投げていた。
 真治という男性は壁際に立ったままで、我々を待っていたようだ。そこに入ってきた秋葉の姿を見るなり、すぐに会釈をして見せる。
 秋葉が七瀬さんの前の席に座り、そのまま私に視線を投げて自分の隣の椅子に座るように促してくる。私は困惑しつつも、それに従った。自然と、私の前の席には真治が腰を下ろすことになったが、その居心地の悪さといったら何も言うことがない。
 冴子さんは手際よく台所の中を歩き回り、料理の皿をテーブルの上に運んできた。ご飯にみそ汁、豚肉の生姜焼きやトマトサラダなど、吸血鬼たちの食卓にしてはひどく現実味のない光景に見える。
「おかわりをするなら冴子に頼んでね。あまり顔色がよくないから、しっかり食べた方がいいわよ」
 七瀬さんはそう言って私に微笑みかけてきたが、私は彼女のその隣にいる真治の無表情さが気になってぎこちなく頷いて見せただけだった。
 冴子さんが私の隣に座って、皆が食事を始めたが、七瀬さんと冴子さんの会話が響くだけで、我々男性の間には居心地の悪い空気が流れていた。
「ごちそうさまでした」
 やがて、一番最初に食事を切り上げた私は、そう言って頭を下げてから立ち上がった。
 七瀬さんが「もう?」と引き留めるような表情をしていたが、私はできるだけ礼儀正しく微笑んで見せてからダイニングルームを出て自分の部屋へと足を向けた。
「大介」
 すると、すぐに後を追ってきた秋葉の声が私の後ろから響く。
 私は歩き続けたままで彼の方を振り返り、その心配そうな表情をした顔に出会う。
「気分でも悪い? あまり食べなかったけど」
 秋葉は私から少し距離を置いて歩きながら、そう言った。
「疲れているだけだ」
 私はそう応えてから彼から目をそらし、自分の部屋の前に立つ。ドアに手をかけた時、秋葉がさらに心配そうに続けた。
「傷はどう? ……その、首の……」
「……ああ」
 私はわずかに顔をしかめ、秋葉に噛まれた場所を手で押さえた。しかし、そこにはいつも通りの自分の肌があるだけで、指先が傷口らしいものに触れることはなかった。
 そう言えば、秋葉が「多分、これで怪我の治りも早いよ」と言って自分の血をなすりつけた場所だ。
「もう治った……らしい」
 わずかに驚いた声を漏らした私に、秋葉が安心したように微笑んで見せた。
「よかった。もしも、体調が悪かったら言ってよ。できることなら何でもするから」
 私はそこで、もう一度彼の方に視線を投げた。
 どこか、すがるような目つきで私を見つめている彼。その苦しげな笑顔が印象的ではあったが、私はただ、こう自分に言い聞かせていた。
 その笑顔は演技かもしれない。
 申し訳なさそうにしているのも、苦しそうなのも。
 何もかも、嘘なのかも知れない。
 私はできるだけ表情を動かさないままで、彼に小さく頷いて見せ、そして自分の部屋の中に入った。ドアを閉める瞬間、秋葉の小さな声が聞こえた。
「……ごめん」
 私はそれに応えることのないまま、ベッドへと向かった。

 それから数日の間は、平和だったと言っていいだろう。
 私は秋葉家に泊まるようになってからも、仕事は休まずに出ていた。七瀬さんはあまり外出そのものを喜ばしいとは考えてはいなかったようだが、私にも生活がある。こちらの勝手な理由で休むわけにはいかないし、多少の危険もやむなしと考えていた。
 だが、七瀬さんも色々考えてくれたようで、近くの駅までは冴子さんが車を運転して私を送り迎えするということで納得した。さすがに昼間、私の勤める会社にまで吸血鬼たちが接触するとは考えられないと思ったようだ。
 車での送り迎えは心苦しいとは感じたが、私がそれを断ることの方が彼女たちにとっては困ることらしいと気づいて受け入れたのだ。
 次の住処が見つかるまでの間、彼らに守られての生活。それほど長くは続かないだろうと期待しながら、私は日々を送っていた。
 秋葉は相変わらず、私を気遣うような表情で色々と話しかけてくる。
 しかし、私はことさらに彼に素っ気なく振る舞うことで、これ以上彼に関わることを拒否しているのだと意思表示をしたつもりだ。
 そのぎこちなさは七瀬さんや冴子さんだけではなく、真治にも伝わったようで、少しずつ彼らの態度にも変化が現れていた。それが顕著に現れていたのは、真治だった。
 元々、彼は秋葉が私に関わることを嫌っていた。だから、私が必要以上に彼に近づかないようにしていることで、今までの冷ややかな態度が軟化したのかもしれない。そして、時々、挨拶程度ではあったけれども声をかけてくるようになった。
 しかしそれは平和な毎日ではあったけれど、私は身の回りに警戒心を抱いたままの生活でもある。だから、以前とは違って心に余裕がなかった。昼間は仕事をすることに精一杯で、仕事が終われば辺りを気にしつつ秋葉家へと帰り、ただ眠るだけの毎日。
 やがて、寝ても疲れが抜けないまま、仕事を繰り返すようになる。
「顔色が悪いですね」
 ある夜、秋葉家へ戻っての玄関先で、真治がそう私に声をかけてきた。
 私は靴を脱いで家に上がると、ただ彼に薄く笑って見せた。会話のために言葉を探すのも面倒だ。
「潤様も気にしておいでです。かなり無理をしているのでは、と」
 彼は静かにそう続け、私の返事を待っているようだ。それに困惑しつつ、私は短く応える。
「無理はしていない。心配しないようにと伝えて欲しい」
 そう言って自分の部屋に戻ろうとすると、真治が足音を立てずに後を追ってきた。
「あなたは面白い。人間にしては珍しいと思いますよ」
「……何がだ」
「まず、我々を恐れない」
 そこで私は苦笑する。
「それは大きな間違いだ」
 そう言って振り返り、真治の困惑したような笑みを見た。彼は少しだけ首を傾げていて、その髪の毛を掻き上げている。どんな仕草も、吸血鬼にとっては絵になる光景になるのかもしれない。そんな奇妙な考えを抱きながら、私は真治の表情を観察していた。
「私は君たちのことを恐れているし、早く関係を断ち切りたいと考えている。これは普通の感情だろう」
「しかし、普通の人間ならこんなにも平然と毎日を過ごすことはできますまい」
「これが平然としているように見えると?」
 私は肩をすくめて見せる。「正直、この生活には疲れている。早く、元の生活に戻りたいんだ」
「それはそうでしょうが」
 真治はふと、私に近づいて顔を覗き込んできた。秋葉に少しだけ似た、整った顔が目の前にくると、私はつい後ずさる。警戒心もその表情に出ただろう。真治が苦笑した。
「潤様の性格には確かに問題はありますが、困ったことにそこが魅力だと思うこともあります。あの方に興味を惹かれることはございませんか?」
「面白いことを言う」
 私は眉を顰める。「それではまるで、彼に惹かれて欲しいと言っているようだ」
「いえ、そうではありません」
 真治は低く笑って首を振った。「今まで潤様と接触のあった人間が全てそうでしたので、あなただけが違うのが気になったのです」
 好きにするといい。
 私はため息をこぼすと、わざと会話に興味を失ったような表情を作り、また廊下を歩き出した。しかし、その腕をつかまれて引き戻されてしまう。そして、彼は興味深そうに私を見つめ続けている。
「放してくれ」
 私は静かに言った。
 すると、一瞬の間の後に彼はその腕を解放した。そこで、私は安堵のため息をこぼす。
「最近、潤様が大人しいのは、あなたのせいかもしれません。とても珍しいことです」
「そうか」
 私は軽く首を振って、この会話を終わらせようとした。しかし、真治はまだ何か言いたそうな顔をしていた。だから、彼の意識を別の方に向かわせるために今度はこちらから声をかけた。
「君は秋葉とどのような関係なのだ? 秋葉がこの家の跡取りというのなら、君が彼の兄ということはないだろうが」
「……ああ、私は潤様の遠縁に当たります」
 一瞬、彼は私の問いに答えるかどうか悩んだらしい。しかし、躊躇いながらもそう応えた。
「秋葉家の血をひく吸血鬼は多いですが、時代が流れるにつれてその血はどんどん薄まってきております。力のある吸血鬼も人間に殺されたりして数を減らしましたから、今は少しでも秋葉家の血を守ることが重要となっています。私は秋葉の血筋を守る者としては、それなりに力のある方でしょう」
「なるほど」
「それだけですか、反応は?」
 彼はまた苦笑を漏らし、私を見つめ直す。しかし、それだけですかと言われてもこちらも反応に困る。
「じゃあ、何と言えば?」
 私がそう応えたとき、ふと視線を感じた。その方向へ目をやると、秋葉が廊下の奥に立って我々の方を見つめていた。どこか不機嫌そうな表情だと思った瞬間、彼はぎこちなく口を開いた。
「何してんの、二人で」
「別に話をしていただけですが」
 真治がそう応え、穏やかに微笑んで見せる。すると秋葉がゆっくりとこちらに近づいてきた。
「真治は大介を嫌ってたじゃん。何でそんな顔をして話をしてんだよ」
「嫌わないで欲しいとおっしゃったのはあなた様ですが」
「うるさいな」
 秋葉が私と真治の間に割り入って、その鋭い目を真治に向ける。「そんなことより、大介の新しいアパートは見つかったのかよ」
「いくつか候補は見つかっております」
 ふと、居住まいを正して真治が応える。それを聞いて私はほっとし、秋葉は慌てたようだった。
「できるだけいいところを探してよ。……ちょっと時間がかかっても、安全なところを探してやって」
「それはそうですが」
 ふ、と真治が薄く笑い、こちらに視線を投げる。
 そして私は頭痛を覚えて首を振った。
「時間がかからない方が助かる」
 私がそう苦々しく呟くと、秋葉が慌てて私を見上げた。
「でも、大介に危険が及んだら……」
 そこで私は小さく笑う。
「完全な安全などどこにもない。どうせ、私の新しい転居先を見つけたら、君たちは私の記憶をいじるのだろう。記憶を消して放り出すのだろう? 私が何も覚えていなければ、誰に捕まろうが君たちの秘密を漏らすこともない。何も心配することはないはずだ」
「心配なのは、秘密を漏らされることじゃないよ大介。俺が心配なのはそんなことじゃない」
「秋葉」
 私はやがて、呆れたように笑った。「私は君の『提供者』じゃない。もうすぐ何の関係もなくなる人間だ。心配など無用だし、されても困る」
「でも」
「困るんだ、秋葉。この意味が解るか?」
 そこで、秋葉は唇を噛んで黙り込んだ。
 彼の視線は相変わらず私に向けられたままだったが、私はこれで会話は終わりと態度で示して、その場を離れた。
 ──とても疲れる。
 誰かを拒否するということは、とても疲れることだ。波風を立たせないように、人間関係を保つのは楽なのに、誰かを自分の世界から排除するということは難しい。
 いっそのこと、もっと秋葉が鼻持ちならない相手だったらよかったのに。
 そうすれば、彼の傷ついたような表情を見ても何とも思わなかっただろうに。

 その日、いつも通りに仕事が終わってから、松下たちに飲みにいこうと誘われた。しかし、私はそれを断った。ここ最近、私は付き合いが悪いと思われている。
 しかし、ずっと残る精神的な疲れのせいか、「体調不良で」と言えば相手は納得した。
「大丈夫なのか」
 松下は心配そうに私にそう声をかけてきたが、私はただ笑ってそれに頷いた。会社の前で彼らと別れてから、駅へと向かう。
 しかし、ふと感じたのだ。
 私は足をとめる。
 今日は天気が悪かったせいか、暗くなるのも早かった。辺りを見回すと、灯り始めた街灯が目に入る。大通りに人の姿は多く、騒々しいとも言えるだろう。帰路についた学生たちの笑い声や、色々な店から流れてくる音楽。それはいつもと変わらない光景だった。
 しかし、確かに視線を感じる。
 気のせいかとも思った。だが、一度気になり始めるとどうにもならない。
 私は軽く頭を振ってからまた歩き始める。
 人通りが多すぎるのだ。だから、よく解らない。この視線は、気のせいかもしれない。しかし、気のせいではないかもしれない。
 どうしよう。
 もしも、例の黒崎という吸血鬼だったら? 考えすぎだろうか。
 このまま秋葉家に戻っても大丈夫だろうか。いつも通り、冴子さんが車で迎えにきてくれているかもしれない。しかし、本当に大丈夫だろうか。
 私は悩んだ末に、携帯電話を取りだした。
 そして、教えてもらっていた秋葉家の電話番号を押した。
 運良くと言うべきか、電話に出たのは真治だった。
「もしかしたら気のせいかもしれないが」
 と、切り出した言葉を遮って、彼はすぐに「そちらへ向かいます」と入ってくれた。私は彼に「その場を動かずに」と言われたことを守り、近くのドラッグストアに入って時間を潰していた。そして、彼が私を迎えにきたと同時に、その視線の持ち主の存在は消えてしまっていた。

「……深みにはまっているような気がしますよ」
 夜道を並んで歩きながら、私は隣を歩く真治の横顔を盗み見た。彼の顔色は夜目にも白く、まるでその肌が輝いているようにも見えた。
「確かにあなたの記憶を消して放り出すつもりでいましたが、本当にそれで上手くいくのか疑問に思うようになってきました」
 私はしばらくそんな彼の横顔を見つめてから、平坦に言った。
「引っ越し先はどうなっているんだ?」
「それは決定しました。今、荷物を運んでいる最中です」
「運んでいる?」
「あなたのアパートは、もうすぐ空になるでしょう。すみません、事後報告になりました」
「いや、ありがとう」
 私は静かに礼を言ってから続けた。「明日にでもそこに移れるだろうか?」
「新しい部屋の片づけが終わっていませんが」
「自分でやる。それは大丈夫だ」
「そうですか」
 彼は小さく微笑んでから、私の転居先となる住所を告げた。それは、今まで住んでいた場所から随分と離れたところにあるアパートで、しかし会社からそれほど遠くなるような場所でもない。それだけでも、彼が新しい家選びに気を使ってくれたことが解る。
「本当にありがとう」
 私は彼に重ねて礼を言い、ぎこちなく微笑んで見せた。
 そんな私を見つめた彼は、困惑の笑みを浮かべて見せる。
「迷惑に巻き込んだのはこちらです」
 彼がひどく申し訳なさそうにそう言って、私はさらに苦笑した。最初、我々が会った時の印象とはあまりにも違う。
 おそらく、この真治という男性は真面目なのだろうと思う。秋葉家を守ることがとにかく大切で、そのためには手段は選ばないだろう。だが、根は悪い男ではない。それが解ってきた。
 我々が駅について、そこに待っていた冴子さんの車の前に立つ。真治がそこにいることに少しだけ驚いたような顔をした冴子さんだったが、彼女は何も質問することはなかった。そして彼女の運転する車に乗り込んで、帰途につく。
 秋葉家に到着して、その玄関をくぐったとき、ちょうど玄関先に秋葉が立っていた。そして、真治と一緒に帰ってきた私を不機嫌そうに見つめ、ため息をついたのだ。
「姉貴が言ってた。大介が電話をかけてきたって」
 やがて、秋葉が低く囁くように言う。「何で俺に言ってくれないんだよ。何で真治がいくんだ?」
 秋葉の顔色は優れない。どこか苛立ったように腕を組み、真治を睨みつけていた。
「大介のことは俺が責任を取るって言ったじゃん。……大介を守るのも、俺でありたい」
「あなた様は秋葉の跡取りです。そのようなことは」
「そのようなことって何だよ」
 冷静な真治の言葉を遮り、わずかに激昂したように眉をつり上げた彼は、その目のきつさも手伝ってひどく険悪に見えた。しかし、その視線を私に向けるなり、その表情が一変する。怒りといったものが影を潜め、ただ私の表情を観察し、心なしかその双眸には不安げな色までちらつかせた。
 私は何も言わず、ただ彼の横をすり抜けて自分の部屋へと戻ろうとした。引っ越し先が決まったのなら、少しでも荷物をまとめておいた方がいいだろう。たとえそれが本当に少ない荷物でも。
 しかし。
「大介」
 秋葉の手が伸びて、私の手首を掴む。
「放してくれ」
 そう言いかけた私の言葉を遮り、彼は真剣な表情で言った。
「ちょっと、付き合って欲しい」



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