「首輪……」
秋葉が小さく唸るように囁く。「そういうプレイは好きじゃ」
「お黙り!」
途端、びしりと叩きつけられる台詞。秋葉が瞬時に首をすくめた。彼女は頭痛を覚えたと言わんばかりに額に手を置いて、眉間に皺を寄せながら続ける。
「あんたは自覚が足りないのよ。自分がどんな立場にいるか、どんなに説明したって理解しようとしない。あたしがいつもあんたのことを叱ってるのは、いじめが三割、残りはあんたのことを思ってのことなんだっていつも言ってるでしょ?」
「……いじめ」
秋葉が何とも渋い表情で唸ったけれど、彼女は全く気にした様子もない。わずかに秋葉を睨みつけた後で、彼女はその視線を青年へと向けた。
「弟から手を引いてちょうだい」
凛とした声が飛ぶ。
そう言いながら彼女は一歩前に進み、腰に手を置いたまま続ける。
「秋葉の主の代理として発言させてもらうわ。同族として無駄に血を流すのは避けたいの。争い事はごめんだわ」
「判断するのは黒崎です」
青年は冷ややかに応える。「元々、我々は友好関係にあると言うにはほど遠かった。これからもそうでしょう」
「未来までは誰も解らないわよ?」
「そうですね」
青年はそっと微笑む。しかし、その笑みは明らかに上辺だけのものだった。
ふと、彼女はそれを見て目を細め、唇の両端だけ上げて笑う。それまであった冷静な輝きは影を潜め、好戦的な瞳がそこに現れた。
「あたしは争い事はごめんだと言ったけど、必要ならその準備はするわ。我々と戦って勝つ自信はあるのかしら」
それを受けて、青年が笑みを消した。そして、辺りに緊張の糸が張りつめたような声が響く。
「勝ち目のない戦はしません」
「ご立派!」
彼女はそう叫んで軽く拍手をし、そっと首を傾げて見せた。「でもね、一つだけ言わせてもらうわ。盲信は破滅を招くわ。あなたにとって黒崎は絶対的な存在なのかもしれないけど、本当にそうなのかしら」
くすくすと笑いながら、ひどく優しく続ける。
青年が不快げに眉根を寄せたのを、彼女はただ楽しげに見つめるだけだ。
「あなたの目がいつか真実を見られるようになるといいわね」
彼女がそう続けたとき、青年の姿がその場からかき消えた。
少しだけ、厭な気配だけを残したままで。
「……で?」
両腕を組み、怒りを露わにしたその女性は、秋葉の目の前に立って鼻を鳴らした。秋葉は怖じ気づいたかのように後ずさり、ちらりと私の方を見やる。
「で、って?」
困惑したように笑いながら、秋葉が問い返す。しかし、その答えを待たないまま、私のそばに歩み寄った。膝をついたままだった私の腕を掴み、ゆっくりと立たせる。私は何とか立ち上がった後、彼の手を振り払って数歩下がる。そして、彼らを観察した。
「何か申し開きはあるのかってことよ」
「そんな、難しいことを言われても」
「何が難しいのよ。話は簡単でしょ? あんたは昨日、怪我をして帰ってきた。だから外出禁止令を出した。でも、抜け出してこの人間と会った」
彼女の右手がびしりと私に向けられ、その指先がこちらに突き出される。私は黙り続けている。
「その、俺のせいで厄介なことに巻き込んだと思ったから、その、助けようと」
秋葉は歯切れ悪くそう言いながら、「なあ?」と私を見る。それでも、私は何の反応も返さずにいた。
「何で巻き込んだのかしら。あたしには解らないわねえ」
彼女はゆっくりと秋葉の方に歩み寄り、その整った顔を彼のすぐ前に突き出した。「その人間の顔には見覚えがあるわよ? 確か記憶操作して放り出せと言ったはずよね、あたし。なのに、何であんたはまたこの男と一緒にいるのかしら。何でもう関わるなと言った人間に会いにきたのかしら」
「それは」
「だいたい、あんたは無節操なの。身勝手で何も考えない。後先考えずに行動して、取り返しのつかないことにしてくれる。いい加減、自覚しなさい。あんたは秋葉の跡取りなのよ。あんたに何かあったら困るのよ」
「解ってるよ」
秋葉がそう言いながら視線を彼女からそらした時。
平手打ちの音が響く。
それは、姉が弟を力の限り叩いた音。
秋葉が一瞬、痛みに驚いたように左頬に手をやったのが見えた。しかし、その表情は強ばったままで姉を見ようとはしなかった。
「口先だけの言葉は結構」
彼女は吐き捨てるように続けた。「あたしが欲しいのは言葉なんかじゃない。それに伴う行動だわ」
しばらく、秋葉は何も言おうとしなかった。ただ沈黙し、俯いて唇を噛んでいる。だが、だんだんその瞳の中に影が落ちていくのが解った。
「……ごめん」
やがてそう言った彼を、姉はじっと見つめた。
そして、小さなため息と共に言葉を吐き出した。
「帰るわね?」
「うん」
そう彼は応えたものの、すぐにその視線を私に向けた。私を気遣うような瞳。
「ごめん、大介。俺、何とかするから。あんたのこと巻き込んじゃったし、これ以上何か起こらないように手配する」
「いや、大丈夫だ」
私はやっと口を開く。その声はまだ先ほどの吸血行為の名残のためか、かすれていた。まだ心臓も震えたままだ。
それでも、精一杯平静を装って続ける。
「君は帰るといい。そして、お互い、もう関わるのはやめよう」
「駄目だよ」
秋葉は、少しだけ慌てたように首を振った。「あいつが諦めたとは思えない。おそらく、またここにやってくる。どうやら、あいつは大介のことを俺の提供者だと思い込んでる。あんたを人質に取って、何か行動を起こすかもしれないし」
「どういうこと」
秋葉の姉が鋭く口を挟んできた。「提供者だと思われるようなことをしたの」
「……うん、そう」
秋葉が恐る恐るそう応えると、彼女は眉をつり上げてその手を上げた。
また平手打ちか、と思った瞬間、秋葉がいつの間にか私の後ろに立ってその身を隠している。
「まさか、こんなことになるとは思わなかったから!」
秋葉がそう叫ぶと、彼女も叫んで返す。
「この、考えなし! だから人間と関わるのはやめなさいってあれほど!」
「でも俺だって腹が減るし……」
「周りの連中で我慢しなさい!」
「でも俺にだって好みが」
「うるさいわよ、殺すわよ!」
「殺してみろよ! この、暴力女!」
とうとう、秋葉がキレた。「俺は腐っても秋葉の跡取りなんだぜ! 殺せないくせにそういうことを言うな!」
「あんたなんか、もうとっくの昔に腐ってるわよ!」
だんだん乱暴な口調になっていく彼らの様子を見ながら、私はただ辺りを見回していた。こんなに騒いでいたら、誰かに見られかねない。見られるだけではない、警察に通報されるかもしれない。
私はただため息をこぼした。
「悪いが」
私は右手を上げて秋葉の言葉を遮った。耳元で怒鳴られると、頭に響く。どうやら血を吸われたせいか、貧血気味でもある。これ以上彼らに付き合ってはいられそうにない。
「私はここで失礼したい」
そう言ってから、秋葉の顔を見つめる。「君はどうやら今回のことに責任を感じているらしいが、こちらはこちらで何とかする。君の姉さんの言う通り、これ以上関わるべきではないと思う」
「でも、大介。もし、あいつがまた戻ってきたら」
「すぐに引っ越しの用意をする。それで終わりだ」
私は淡々と続けた。
そう、答えは簡単だろう。彼らと関わらないためにも、このアパートを引き払って別のところに移ればいい。会社に通えるところだったら、どこでもいいのだ。
「それに、一つだけ忠告させてもらう。君は自分の姉さんに向かって、そんな言葉を使わない方がいい。彼女が言う通り、姉さんは君のことを考えて色々言ってくるのだろう。年長者の話は聞くべきだし、それに逆らうのは好ましくない。……彼女は君の家族なんだろう?」
「……そうだけど」
「彼女が大切ではないのか?」
「そんなことない」
「じゃあ、解るだろう」
私はいつしか、彼に言い含めるような口調になっていた。「彼女の言葉は全て、君のためだ」
やがて、秋葉が小さく頷く。
そして、その視線を姉へと向けて「ごめん」と呟いた。彼女は少しだけ困惑したように私を見つめた後、呆れたように笑った。
「あたしは秋葉七瀬。あなたの名前は?」
やがて、秋葉の姉は私の目の前にやってくると静かに訊いた。
「蓮川大介」
「ふうん、よろしく」
彼女はまじまじと私を見つめた後、その手を差しだした。握手を返しながら、私は少しだけ困惑していた。彼女の瞳に、どこか今までと違う何かが映ったような気がしたからだ。
彼女はやがて、ひどく人なつこい笑みを浮かべて見せると、小さく言った。
「馬鹿な弟の相手……今までの人間の中では、一番まともそうだわ」
──ありがとう、と返すべきだろうか?
私は何と言ったらいいのか解らず、ただ首を傾げる。
すると、彼女──七瀬さんが真剣な口調で訊いてきた。
「引っ越しをすると言ったけど、厳密に言ってどうするのかしら。引っ越し業者は人間、よね?」
どういう意味だろう。
私は一瞬、考え込む。そして、ただ頷く。
すると、彼女はこう続けた。
「吸血鬼にとって、人間の口を割らせるのは簡単だわ。簡単すぎるの。つまり、引っ越ししたって後を追おうとすればすぐにできるのよ」
そう聞いて、私の心臓が冷える。
つまり、どこにも逃げられないということなのか。
「不本意だけれども、これも弟のしでかしたことの後始末。あなたの引っ越しについては、我々で処理させてもらうわ。引っ越しに関しては、人間が関わらない方が安全。そして、あなたの足取りを消してからさよならしましょう」
「それは……」
確かに助かることだが。
しかし。
「料金も我々が払うし、心配しなくて結構。本当にごめんなさいね。弟があなたに関わらなければ、こんなことにならなかったのに」
その通りだ。
私は無表情でいたつもりだったが、私の考えていることは彼女に伝わってしまったらしい。七瀬さんはくすりと笑った後、そっと私の肩を叩いた。
「引っ越し先が決まるまで、あたしたちの家に泊まってちょうだい。必要な物だけ持ってきてもらえると助かるわ」
「いや、それはしかし」
私は手を上げてそれを拒否しようとした。しかし、彼女は重ねて言った。
「目を離している間に、あなたに何かあったら寝覚めも悪いしね。あたしたちのためにも、お願い」
そう言われてしまうと、だんだん私も断ることができなくなっていく。考え込んだのは本当に一瞬のことで、私は彼女に促されるままに彼らの家に向かうことになっていた。
必要な荷物だけを持って彼らの後について歩き出しながら、秋葉が時々申し訳なさそうに私を見つめる。それでも、どこか嬉しそうに見えたのだけが気に入らなかった。