首筋の契約 8


「提供者とは何ですか?」
 私はやがて静かに訊いた。しかし、自分の声はいつもと違って緊張に強ばっていて、意識しないうちに小声になっていたらしい。
 青年はわずかに肩をすくめ、一歩私から下がってまじまじとこちらを観察する。そして薄く笑った。
「我々に血を提供してくれる人間ですよ。我々の正体を知りながらもね」
「正体……」
 私は眉をひそめながら、それ以上言葉を続けることを避けた。下手なことは言わないほうがよさそうだ。
「人間の中には、我々の口づけが忘れられなくなる者もいます。下手なセックスよりも気持ちいいと言う者もね。だから、自分から進んで首を差しだす」
 彼はそこで手を伸ばし、私の喉元に触れようとした。
 私は慌ててそれから遠ざかるように下がり、彼を睨みつける。すると青年は楽しげに続けた。
「あなたもそうなのではないですか? 彼……秋葉潤という彼に、血を与えたのでしょう?」
「……意味が解りません」
 私はさらに一歩下がり、その青年を観察した。
 どこか危険な感じがする。それはもちろん、彼を最初に見たときに感じていたが、だんだんその思いが強まっていくのを感じた。
 私は呼吸を整えて続けた。
「どちらにしろ、私には関係ないことです。彼を助けたのは事実ですが、もうここにはいません。これ以上関わりたくもありません」
「そうですか?」
 青年が後ずさりした私に近づくために、足をこちらに踏み出す。だからまた一歩下がる。
 彼は楽しげに笑いながら続けた。
「秋葉の趣味はよく知っています。あなたも今までの人間と変わらない」
 私は後ずさりながら、本能的に悟った。彼も、秋葉と同じなのだと。
 彼のその目的。
 彼の視線が私の喉に向かうのが、その証拠だ。
 しかし。
「あなたが死ねば、彼も悔しがるでしょうね?」
 そう聞いたとき、私の全身から血の気が引くのを感じた。

「一般人を巻き込むのはやめてくんない?」
 突然、そこに響いた声は、私にとっては救いの神のように思えた。もちろん、こんな場面でなければ聞きたくもない声であったはずだ。
 反射的にその声のほうに視線を投げると、そこには秋葉がひどく難しい表情をして、青年を見つめていた。彼は以前会ったときと同じような青白い顔色のまま、少しだけ微笑んで見せる。そして、私の横に足を進めると、少しだけ優しく私の肩を引き、その身体の後ろに私を隠すように押した。
「俺もそんなに平和主義じゃないけどさ、あんたたちのやり方は気に入らねえなー。狙いは俺だけだろ? 関係ない人間を巻き込むって何それ」
 秋葉はわずかに肩をすくめ、青年を見つめている。
 それを正面から受けとめながら、青年はからかうような笑みを見せた。
「関係なくはないでしょう? その人間はあなたの『提供者』だ」
「いーや、違うね」
 秋葉も苦笑しながら返す。「確かに好みのタイプだけどね、『提供者』ではないな。さっさと記憶操作して放り出そうとしてたヤツだし、別にあんたたちがこいつをどうしようとかまわないけどね。でも、死体が転がるとなると警察だって動くし面倒じゃねえ?」
「死体を処分する方法はいくらでもありますよ」
 青年は低く笑いながら言う。
「へえ」
 秋葉はつまらなさそうに鼻を鳴らした。「そのやり方を教えてもらおうかな。俺は今まで人間を殺すまではやったことないし、参考にさせてもらうよ」
 すると、青年がわずかに眉をひそめ、秋葉を観察するかのように見つめ直す。それから短く言った。
「あなたは嘘がお上手だ」
「そうかな。下手だって言われるよ」
 秋葉も短く返す。
 それから、その場にわずかに落ちる沈黙。
 やがて青年がひどく真剣な目で続けた。
「もう一度確認します。我々と一緒にくる気はありませんか?」
「一緒に?」
 秋葉が軽く首を振る。「俺を殺そうとしておいてよく言うよ」
「昨夜のことは謝罪しましょう。まさか、あなたがあれほどの怪我を負うとは考えてもいませんでした。あなたのことを追ったのは、我々の仲間のうちでも力の弱い吸血鬼たちです。命令した黒崎も、返り討ちになるだろうと笑っていました。だから、追っ手の連中が無事に帰ってきたときは驚いていましたよ」
「あっそう」
 秋葉は頭を掻きながらつまらなそうに言う。
 私はそんな彼らの様子をじっと見つめているだけだった。
 秋葉は少し、疲れているようだった。最初ここに現れたときもそうだったが、青年と話をしている間にもっと疲弊したように見える。
「で、どうすんの」
 秋葉はどこか投げやりな口調で訊く。「別に俺、この人間がどうなってもいいけどさ。姉貴には人間を巻き込むなって言われてるんだよね。だから、あんたがこいつを殺すっていうなら、それをとめるつもりだけど」
「そうですか」
 ふと、それを聞いて青年が苦笑した。「正直に彼を殺さないで欲しいと言えばいいでしょうに」
 そこで青年の視線が私に向けられた。
 ひどく冷徹で、暖かみのない双眸。それは、恐怖だけしか与えてくれない。
 彼はやがてその冷ややかな瞳を秋葉に向け、低く笑った。
「正直に言えば、私はあなたのことが嫌いなのですよ。邪魔でしかない。だから、これはチャンスなのだとも考えています」
「ふうん。何のチャンスかな?」
 秋葉の口調はこれまでと少しも違わない。
 平坦で無造作だ。
「黒崎はあなたのことを気に入っていますし、殺すつもりはないでしょう。でも、私はそうではない。……これは本当に良いチャンスです。何故なら、あなたは今も弱ったままだ」

「まずいなあ」
 ふと、秋葉がため息をこぼしながら後ずさる。
 私もつられて後ろに下がると、秋葉がこちらを見ないままで囁いた。
「大介、俺を助けてくんない?」
「……何がだ」
「本当にごめん。今の俺、血が足んない」
 躊躇ったのはほんの一瞬だった。青年と秋葉、どちらかマシな方を選べと言われたら、答えは一つしかないだろう。
 私は短く言う。
「少しなら」
「本当、巻き込んでごめん」
 少しだけ、秋葉の声が苦しげに歪んだ。そして、その声には似つかわしくないくらいに乱暴に、急に私の腕を引く。まるで、目の前にいた青年に見せつけるように、私を背後から抱きしめるようにして。
 秋葉の手が私の顎を掴む。
 やはり乱暴にそのまま首を捻られ、私は少しだけ不安に駆られた。
 でも、すぐにそんな不安などどうでもよくなる。彼の犬歯が私の首に突き立てられて、一気に血を吸われてしまったそのとき。全身を貫くような快感に、気が遠くなる。
 膝頭が震えたのが自分でも解る。それが情けないと感じるよりも先に、私は秋葉の腕にすがりつこうとした。そうでないと立っていられない。それほどまでに、気持ちがよかった。
 青年が舌打ちしたのが聞こえる。
 でも、そんなことすらどうでもいい。
 私はただ、秋葉が与える快感だけを追った。
「……ありがと」
 ふと、自分の首筋に彼の吐息が触れて、彼が『キス』をやめたのが解った。それが切なく、あともう少しだけ、と期待する。そんな自分が怖かった。快楽に溺れそうになっている自分を発見することが。
 私はその場に崩れ落ちそうになり、必死に足に力を入れる。だが、それは無駄な努力だったのかもしれない。
 いつの間にか私は地面に膝をついていて、乱れた呼吸を繰り返すだけで精一杯だった。すると、秋葉が手を伸ばして私の首に触れた。そこにある傷口に。
「ちょっとしみるかも」
 秋葉がそう言うのが聞こえて、私は何とか視線を上げた。すると、秋葉は自分の右手の親指を自分の犬歯で噛み切り、そこに膨れあがってきた血の玉を見下ろす。そして、私の首筋にある噛み跡にそれをなすりつけた。
「……う……」
 私はつい、小さく呻く。
 確かにしみると思うが、我慢できないほどではない。軽く唇を噛んで目を閉じていると、じわりと首の辺りが温かくなる。
「多分、これで怪我の治りも早いよ。でも、ごめんな」
 秋葉は短くそう言うと、ゆっくりと青年のほうへと歩き出した。その秋葉の後ろ姿を見つめているうちに、だんだんその背中に力があふれていくのが解る。頼りなげだった足元に力が入り、軽快なものとなる。
 けだるげだった動きが俊敏なものとなり、その声にも張りが出る。
「さて、これでどっちが勝つか解らなくなったね」
 秋葉はからかうように青年に言った。
「……私を殺しますか?」
 ふと、青年が奇妙な声で言う。
 どこか、探るような声で。
「あなたが死んでも、そして私が死んでも、色々問題は起こるでしょう。あなたは秋葉の跡取りであり、やがてあの一族をまとめていく存在だ。そして私は、黒崎の『提供者』です。私が死んだら、さすがに黒崎も黙ってはいないでしょう」
「へーえ」
 秋葉が厭な笑い方をした。明らかに悪意のあるものだ。
「黒崎のお気に入りってか。そう思ってるのはあんただけだったりしてー」
 途端、その青年の顔色が変わる。
 そして、ひどく険悪な輝きがその瞳に灯ったのも見えた。
 つまり、言われたくないことを言われたということだ。
 秋葉はそれに気づいているらしいというのに、さらに続けた。
「黒崎ってさ、誰に対しても執着心がなさそうだよね。俺のことだって秋葉の跡取りだからっていう理由で近づいているだけだしな。あんたが死んだとしても、次の提供者を捜すだけじゃねえ? 黒崎の周りにはたくさんいるじゃん。吸血鬼だろうと人間だろうと、よりどりみどり。……可哀想だね、あんた。黒崎に惚れてるんだ?」

 一瞬、目の前の空気が動いた、と思った。
 いつの間にか、秋葉が立っていた位置と青年が立っていた位置が入れ替わっている。
 ほんの一瞬の間に。
「やはり、あなたのことは気に入らない」
 青年の髪の毛が風もないのに揺れているのが見えた。
 その前髪の下にある双眸が、厭に険悪なものであったから、私はつい不安になって秋葉を見やる。
 しかし、秋葉はお気楽な笑顔を彼に見せている。くくく、と笑ったその口元は、無邪気なまでに明るい。
「試してみようか?」
 秋葉が言った。「あんたが死んで、黒崎が悲しむかどうか。テストしてみようよ」
 青年の瞳があっという間に紅く染まる。
 その時。

「だからあんたは外に出るなって言ってんのよ!」
 突然、ひどく苛立ったような女性の声が辺りに響き渡る。
 途端、秋葉が小さく「やべ、殺される」と視線を落としたのが解る。私が困惑してその声の主のほうに目をやると、ちょうどアパートの前の道路に、見覚えのある女性の姿があった。
 黒いキャミソール、デニムのミニスカート。白い腕と両足、ロングブーツ。
 暗闇にも目立つ存在。
「面倒事ばかり起こすから、あたしがいつも苦労する羽目になる。いつかその首に首輪をつけてワンと言わせるから覚悟なさい」
 そう言って両腕を組んで立っているのは、秋葉が『姉貴』と呼んでいる女性に間違いなかった。



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