それからしばらくの間は、平穏な毎日だったと言っていいだろう。
秋葉は私のところに姿を現さなかったし、私はずっと仕事が忙しくて彼のことを考える暇もなかった。これはとてもありがたいことだった。考えたくもないことだったからだ。
私の身体についた噛み跡も、ほとんど目立たなくなっている。これもありがたい。しかし、噛まれたときの感覚はどうしても忘れられなかった。あんな、理性ごと持っていかれそうな感覚は初めてだった。おそらく、また同じことをされたら彼には逆らえない。
私はいつものように、仕事が終わって帰路についた。だが、通常よりも遅い時間だ。アパートに帰ってから料理をする気分ではなかったから、コンビニで食料を買い込んでの帰宅だ。
そして、自分のアパートの前に立ったとき、気づいた。
ドアの前に誰かが座っている。
自然と舌打ちが漏れる。辺りは暗くてよく見えないが、明らかに『彼』だ。
どうする。声をかけるべきか。
私はしばらくその場に立ちすくんでいたが、小さくため息をこぼしてから彼の方に歩み寄った。
「帰ってくれ」
私は彼を見ないようにして短く言う。すると、秋葉が座ったまま苦笑した。
「相変わらずだよね」
そう言った彼の声がわずかにかすれている。私は少し違和感を感じて、ゆっくりと彼のほうに視線を投げた。そして息を呑む。
秋葉はそこに座ったままだったのは、立っていられなかったからだろうか。
彼はTシャツとジーンズという格好だったが、白いシャツが真っ黒に汚れている。黒く見えたのは、暗闇では血が赤く見えないからだろう。わずかに苦しげに呼吸をしている彼は、疲れたように血で汚れた手で髪の毛を掻き上げて見せた。
「今、他に馴染みの人間がいないからさ。……あんたが困るかな、とも思ったんだけど」
彼は気まずげに俯いていて、私を見上げないまま言う。「風呂と服、貸してくんない? このままじゃ、家に帰れそうになくて」
確かに、そんな格好では下手に歩き回ることもできないだろうが……。いや、それ以前に警察に通報されるかもしれない。
私はしばらく考え込んだ後、低く訊いた。
「何があったんだ?」
彼は困ったように小さく笑い、手を軽く振った。
「うーん、腹に穴が空いてる」
「穴?」
「うん、何カ所か。ちょっと、血が流れすぎてるから、しばらく休まないと歩けそうにない」
確かに、彼はひどく疲弊しているようだ。歩くこともままならないほどに。
私はやがて頷いて、部屋の鍵を開けた。座り込んだままだった彼の腕を取り、何とか立たせるとアパートの中へと押し込む。ドアを閉める直前、私は外の様子を見たものの、辺りには人影はなく、我々のことを見ている人間は誰もいなさそうだった。
「シャワーでいいか」
私は玄関先に座り込んだままの秋葉にそう声をかける。秋葉はどうやら、自分の腹を見下ろしていて、その血が床に落ちないようにと気をつけているらしい。傷口を押さえていた彼は、わずかに反応が遅れて聞き直してくる。
「え、何?」
「シャワーでいいか。湯船を張っている時間はないだろう」
「あ、うん、いいよ。ありがとう」
どことなくゆっくりとした口調で、彼は穏やかにそう言って私に促されるままに靴を脱ぎ、浴室へと入った。幾度か彼が痛みに呻くような声を上げることに気づいたが、声をかけることを躊躇った。
何かの罠かもしれない。
そんな思いは確かにある。しかし、どうやら怪我は本当らしい。血の匂いがする。だが、本当に彼の血か? 誰か他の人間の血では……?
だが、こんなことを考えていることのほうが無意味だ。
私は自分のクローゼットを開け、自分の服を引っ張り出してきた。ワイシャツとジーンズ。それを持って浴室に戻ると、中から水音が響いていた。
着替えを置いてリビングに戻り、私はテレビをつけた。そして、またため息をこぼす。
厄介なことに巻き込まれている。そんな気がする。
私がソファに座ってじっとテレビを見ていると、随分経ってから私の服を着た秋葉が姿を現した。まだ危なげな足取りで、疲れたように歩いてくると、リビングの入り口のところで床に腰を下ろし、ぎこちなく笑う。
「ごめん。その、ありがとう、これ」
彼はそう言いながらシャツの胸元を掴む。灯りの下だからかもしれないが、彼の肌の白さが妙に気になった。今にも貧血を起こしそうな色だ。
「もう一つ頼みがあるんだ」
彼はふと思いだしたように立ち上がる。「ビニール袋、もらっていい? 俺の服を持ち帰るよ」
「……洗濯機を使うか?」
「駄目だ。血の匂いがここに残る」
私が首を傾げると、彼は軽く首を振って「ビニール袋」とさらに言った。私は戸惑いながらも台所へと向かい、棚の中に入れてあった買い物用のビニール袋を取りだして彼に渡した。すると、彼は浴室に戻って血で汚れた服をそれに詰め、ひどく几帳面に口のところを縛る。
血の匂いが残る、と彼は言ったが──。
どういう意味だろう、と私が心の中で疑問に思っていると、秋葉がリビングに戻ってきて躊躇いながら口を開く。
「服まで借りてしまってアレなんだけどさ。……その、もしも誰かがここに俺のことを探しにきたら、俺とは面識がないように言っておいてくれないかな。玄関先に倒れてたから助けた、とか何とか上手く誤魔化せる? 大介は嘘は得意なほう?」
「意味が解らない」
私がそう言って彼を見つめると、秋葉は髪の毛を掻き回して小さく唸る。それから、開き直ったように息を吐き、その場に座り込んで私を見上げた。そこでやっと、彼はこの部屋にきてから初めて私の顔を正面から見たことになる。
「あんまり詳しくは話せないんだけど、俺たち吸血鬼っていう種族にも、色々問題があってさ。何ていうのかな、本家と分家の醜い争い、みたいな。分家の連中は本家の昔からの決まりとか約束事とかクソ食らえ、とか思っていて、チャンスがあれば殺しちゃおう、みたいな」
彼の口調は明るい。しかし、その内容はその口調には似つかわしくないものだった。
「俺も狙われてたから、姉貴は俺を外に出すのを厭がってたんだよな。あんたが外に出ると、ろくな事にならないんだから! といつも怒鳴られる。でも俺、いつもだったら簡単に逃げるけどね。あいつらなんかには手も触らせないよ。……でもちょっと、今の俺は……体力が落ちてたから、つい」
そこまで言ってから、彼は肩をすくめた。少し話をするのも疲れたようだった。そして、自分の腹の上辺りに手を置いて苦笑する。
「治るまで少し時間がかかりそうだ。厄介だね」
「……まだ追われているのか」
私がそう訊くと、彼は小さく頷いた。
「まあね。今襲われたら一発だろうな。何とか生きて帰らないと、姉貴に殺される」
矛盾した言葉だ。
だが、私は何も言わずにただそれを聞いていた。
「大介には迷惑をかけてごめん。後で服も返すよ」
「いや、服は別に」
「会うのも迷惑そうだね。その……悪かったよ。もうああいうことはしないようにする」
ああいうこと。
私が顔をしかめると、彼は軽く手を上げて首を振った。
「その、大介に言われて色々考えたんだ。その、俺って身勝手だから、相手のことなんかお構いなしだしね。これじゃいけないとは思うんだけど、どうも駄目だね、俺」
そして彼は黙り込む。私も何を言っていいのか解らないから、何も言わない。沈黙だけが続く。
「その、俺、帰るわ」
やがて、秋葉がその沈黙に負けたようで立ち上がる。しかし、その足取りはまだよろめいている。
「大丈夫か」
私がそう訊くと、彼は無造作に手を上げて笑った。
「大丈夫大丈夫。少しは傷口も塞がったみたいだ。後はゆっくり何日か寝てれば元通りだよ」
「寝ていれば……」
私がそう呟くと、彼がわざとらしく冗談めかして言った。
「もちろん、誰かの血を吸えばちょっと怪我の治りも早くなる」
「それは言い換えれば」
「違う」
秋葉が慌てて首を振る。「大介の血をもらおうとは考えてない。何だか、前回は俺のせいで体調が悪くなったって言ってたみたいだし。大介がいい、と言わない限り手を出さないよ。……その……駄目だよね?」
わずかに首を傾げるようにして言った彼。
そんな風に無邪気な表情で言ったとしても、内容が内容だ。
「駄目だ」
私がはっきりと応えると、彼は「やっぱり」と唸る。そして、自分の服が入ったビニール袋を手に、玄関へと向かう。
「できるだけ遠くに服は捨てるつもりだけど、誰かに何か訊かれても知らないことにしておいてよ。多分、あいつらは人間には手を出さないはずだ。よっぽど相手を怒らせなければ、だけど。だから、気をつけて」
「……ああ」
私は頷いて彼を外に送り出した。少しだけ彼の後ろ姿を見送ったものの、すぐに部屋に入って鍵を閉めた。
何となく、不安が残ったのは確かだ。
そして、その不安が的中したのは、次の日の夜のことだった。
前日と同じように、残業が終わってアパートに向かう。いつもと同じように自分の部屋の前にいこうとしたとき、ドアの前に誰かが立っているのが見えた。
最初は、秋葉が服を返しにきたのかと思った。しかし、背格好が違う。秋葉よりもずっと背が高い。
私が戸惑って彼の背中を見つめていると、『彼』が私の視線に気づいて振り返った。
吸血鬼。
そう直感する。彼も秋葉と同じ種族だと。もちろん、その見かけは人間と寸分も違わないのだが。
暗闇に浮かび上がる白い肌と、鋭い眼光。わずかに瞳が赤く染まっているようにも見えたが、それは気のせいだったかもしれない。
彼はワイシャツにスラックスという姿で、どこにでもいるような青年に見えた。歳の頃は私と変わらないくらい。痩せ形の彼がそうして背を伸ばして立っていると、実際よりもさらに背が高く見える。
私が意を決してドアのほうに近寄ると、彼が声をかけてきた。
「この部屋の方ですか?」
その声は低く、静かだった。ひどく整った顔が目の前にあって、私は彼の顔立ちをつい観察してしまう。まるで、人形みたいだと思う。血の気が通っていないようだ。
「そうですが」
私がやがて緊張しながらそう応えると、彼がにこり、と笑った。途端、親しみやすい顔立ちへと変化する。
「すみません、友人を捜しています。昨夜、ここに誰かきませんでしたか?」
「誰か……」
私は必死に冷静な表情をして見せる。嘘をつくのは得意ではない。だから、素直に言ってしまったほうがいいのだ。
「怪我人がいましたので、手当を……と言いましたが……彼のお知り合いの方ですか?」
「怪我人。あの、それは高校生くらいの男の子でしたか」
「はい。ひどい怪我をしているようで……でも、彼はそのままどこかにいってしまいまして、無事なのかどうか気になっていたところです」
「ああ、そうですか」
彼はそう応えてからも、ずっと私を見つめていた。観察されるのは苦手だ。しかも、隠さなくてはいけないことを抱えている今の自分では。
「その少年と会ったのは昨夜が初めてですか?」
やがて、その青年が探るような質問を投げかけてくる。
私は静かに頷く。
すると、青年がゆっくりと私のほうに歩み寄る。初対面の者同士が向き合う距離よりもずっと近く、彼は私の顔を覗き込んでそっと笑う。そして、私の耳元に唇を寄せて囁いた。
「彼の匂いがします」
鳥肌が立った。
それは、恐怖だったと思う。私が慌てて彼から遠ざかろうとしたとき、青年の手が私の手首を掴み、ひどく強い力で引き寄せた。
「彼を匿っているのでは?」
「匿う? 何故ですか?」
私は声をできるだけ平坦なものにしようと努力しながら言う。しかし、語尾に不安が現れたのに気がついた。おそらく、目の前の彼も気づいたのだろう。意味ありげに笑ってその唇を耳元に押し当ててくる。
そして、彼の歯が当たったことに気がつく。
犬歯が。
くそ。
私は身動きが取れず、ただ身体を強ばらせる。そして、秋葉の言葉を思い出す。彼は人間には手を出さないと言った。怒らせなければ、と。
しかし。
「どうやらあなたは、我々の正体を知っているようだ」
青年が楽しげに言い、私の顎に手をかけようとする。私はそれを振り払い、すぐに一歩下がって首を振った。
「すみませんが、意味が解りません」
私がかすれた声でそう言うと、青年は笑みを消してこう問いかけてきた。
「あなたは彼の『提供者』ですね?」
提供者?
私はただ黙って青年を見つめ続けていた。