「君たちが守るとはいっても、私はどうしたらいいんだ?」
やがて私は軽く首を振って、目の前にいる双子を見つめた。困惑している表情が出ていたのか、彼らは少しだけ気遣うような目つきで私を見つめなおし、そっと微笑む。
そして、片方の青年が言う。
「小声で名前を呼んでもらえればいいよ。もう、味と匂いは覚えたし、呼んでもらえれば聞こえるから」
「……味」
私が眉を顰め、こめかみに手をやるともう一人の青年が続けた。
「味を知った相手とは、『つながり』ができるんだよ。あなたが僕たちのことを考えてくれたりすると、『ああ、考えているな』って解る」
「そう」
また発言する者が入れ替わった。「だからきっと、潤様だって僕らと同じ。あなたが潤様を呼べば、聞こえるはずなんだよ」
そこまで言って、双子は秋葉の方を意味ありげに見やり、にこりと微笑む。しかし、秋葉は笑みを返さず、どこか難しい表情でそこにいた。その代わりに、真治が口を開いた。
「もちろん、潤様が蓮川さんの声が聞こえないはずはないでしょう。しかし、立場が立場なだけにすぐに動くことが難しいこともあります。お嬢様も、あまり潤様を外出させたくないでしょうから。しかし、あなたの危険を知って放っておくわけにはいきません」
今度は私が黙り込む番だった。
だんだん、今の自分の状況が現実味のないものへと変化していた。本当に私は彼らが心配するようなことに巻き込まれるだろうか。
あの『視線』は私の気のせいではなかったか?
ただ疲れからくるもので、神経が高ぶっていたから、ないものをあると勘違いしたのではなかっただろうか?
テーブルの上に乗ったままの料理の皿は、それほど量を減らさないまま冷めようとしている。食欲がないのは、疲れているからだろう。いつもの自分なら、このくらいの量を多いと感じはしないはずだ。
しばらくの間、皿を見つめたまま固まっていたらしい。
「大丈夫ですか?」
真治が低い声で問いかけてきて、私は我に返る。そうして、わずかな胃痛を覚えていたらしいことを、自分の手が腹を押さえていたことで気づくのだ。
「ああ、大丈夫」
私はかろうじて真治に微笑んで見せてから、双子の方に視線を投げた。
「名前は……その、区別がつかないのだが」
「はいはい、僕がミツル」
途端、にこやかな笑顔を見せて右手を挙げる青年と、続いて彼の右側に立ってていたもう一人が「僕がアキラで」と笑ってきたが、見事にどちらがどちらだか次に会った時には解らなくなっているだろうという自信が私にはあった。
すると、双子がそれとなく顔を見合わせてから、それぞれニヤリと笑って私に向き直る。
左側の青年が手を挙げたまま言う。
「男性に押し倒されたいなあ、と思うのが僕、ミツルで」
右側が言う。
「男性を押し倒したいと思うのが僕、アキラってわけ」
そこでまた、私は数秒間固まった後、深いため息をつきながらこめかみを指先で揉んだ。
――もう、どうでもいい。
私はずしりと肩にのし掛かってきた疲れにうんざりしながら、やっとの思いで顔を上げ、真治に囁く。
「用事が済んだのなら、もう帰って休みたいのだが」
「そうですね。顔色もよくありませんし」
真治がそう返してきて、ゆっくりと立ち上がる。私もそれに続こうとすると、秋葉が私の手首を掴んできた。
「迷惑だった?」
すがるような目で見る彼を、私は無表情のまま振り返る。
どう応えたらいいのか解らなかった。
だから、「いや、そんなことはない」と短く応え、彼の手を振り払って真治のそばに逃げた。確かに、『逃げた』のだと思う。秋葉の視線が、あまりにも強すぎた。
彼は私に何と言わせたいのだ?
「迷惑だった?」
そう訊いて、「迷惑ではない、感謝している」と言わせたいのか?
ありがとうと言って欲しいのか?
いや違う、解ってはいるのだ。彼は本当に、私を心配しているだけで、ただそれ以上のことは何も考えていない。
そして、私に嫌われるのを恐れている……?
まさか。
ふと、軽い眩暈を覚えて私は真治の肩を掴む。それは一瞬だけだったので、目を閉じて数秒じっとしていると、すぐに治まった。
「蓮川さん?」
真治が私の耳元で名前を呼んだが、私はただ「大丈夫」と言うことしかできなかった。
「潤様、そろそろ帰りましょう」
真治が私を支えるようにして肩に手を回してきた。そして、わずかに性急な口調でそう言ったのだが、秋葉は暗い声で唸るような言葉を返してきた。
「先に帰っていていいよ。俺、もう少しここにいるから」
私はそっと目を開けたが、彼の方に向き直ることができなかった。急に動いたら、また眩暈が襲ってくるような気がしたからだ。だから秋葉のその時の表情を見ることができなかった。
ただひどく、張り詰めた声だとは感じた。
そしてまた、真治の声も張り詰めていたと思う。
「お嬢様が心配なさいますから、あなた様だけ置いていくことはできません。車でお待ちしておりますので、お早めにお戻り下さい」
彼がそう言い残して店を出て、私のことを駐車場に駐めてあった車に誘導し、後部座席へと座らせる。
私はただ、シートにもたれかかって目を閉じた。
「病院に行かれた方がいいかもしれません。最近はほとんど食事もとれていないようですね?」
どこか窺うような声色の真治が、いつになく私のことを心配しているように思えて笑いたくなった。彼は多分、人間を心配するような性格ではないだろうに、と思ったからだ。
だが、笑う元気は私にはなく、ただ短く応える。
「引っ越しが終わったら、病院に行こう。それまでの辛抱だ」
「それまで保ちますか」
真治はそう言いながら車のエンジンをかけ、言葉を続けた。「寒くありませんか?」
少しだけ身を震わせた私に気づいたのか、彼は暖房を強めに入れてくれる。だんだん暖かくなる空気に感謝しながら、私はゆっくりと呼吸を繰り返した。
風邪かもしれない。
今年の風邪は、胃にくるのかもしれない。
早く、治してしまわなければ。
そんなことを考えながら目を閉じたままでいると、急にひやりとしたものが私の額に触れてきて、慌てて目を開けた。
「驚かせてしまったようですみません。熱があるのではないかと思ったものですから」
真治が申し訳なさそうに微笑み、改めて私の額に手を伸ばした。そして、しばらくの間、熱があるかないか判断していたようだった。
「……まだ熱はないようですけども」
心配するにこしたことはない。
そう言いたげな彼の目つきに、私はそっと頷いて見せる。
すると、急に車の後部座席のドアが開いて、秋葉が無表情のまま真治を見つめていた。
「仲、いいね」
秋葉は短く不機嫌そうに呟いた後、私の隣のシートへと滑り込んできた。そして、わずかに香る酒の香りに、彼がこの短い間にあの店で飲酒をしてきたことを知る。
真治が運転席にきちんと座り直し、サイドブレーキを下ろして車を発進させた。そして彼は、運転しながら短く言った。
「誤解しないでいただきたいのですが」
「誤解?」
すぐに秋葉が冷たく笑う。「誤解なんてしてないよ。早く家に帰ればいいじゃん」
明確な苛立ちの声。私はそっと秋葉の横顔を盗み見て、一体どういう変化なのか、と訝しんだ。
真治のため息が聞こえてきて、それきり彼は黙り込んでしまう。そしてまた、私も何も言う気力はなかったから、車の中は重い沈黙だけで充満し、ただ車のエンジンの音だけが響いていた。
「遅かったわね」
秋葉家に戻ると、七瀬さんが玄関に立って出迎えた。彼女の表情は厳しく、真治と秋葉に何か問い詰めるかのような視線を送っていた。しかし、私の疲れた表情を見て、わずかにその険を和らげて言った。
「大丈夫?」
「ええ、大丈夫です」
私はそう言いながら靴を脱ぎ、彼女に頭を下げてから客間へと歩き出した。そして、その背後から真治の声が小さく聞こえてきた。
「お嬢様、少しご相談したいことが……」
「いいわよ」
七瀬さんがすぐにそう返事をしたのも聞こえたが、私は彼らの様子に気を払うこともなく階段を上がる。そして、部屋の扉を開けようとして、そこでやっと背後の気配に気づいた。
「秋葉」
私は後を付いてきたらしい彼に気がつき、困惑して振り返った。秋葉は私を睨みつけるようにしてそこに立っていて、ふと、まずいな、と頭の片隅で思う。
本能が、今の状況が危険だと知らせていたのかもしれない。
私が言葉を探している間に、秋葉が私に手を伸ばしてきた。後ずさり、ドアに背中が当たった瞬間、秋葉の手が私の髪の毛に絡み、そのまま乱暴に頭ごと引き寄せられ、抵抗する間もなく私の喉に彼の犬歯が食い込んできた。
「あ、ああっ……」
一気に血を吸われ、背中から脳天へ向けて『何か』が突き抜けた、と思った。
足が震え、力が抜けそうになる。気が狂いそうなほどの快感に、意識が灼けそうになる。
私の喉から上がるのは、その快感に溺れそうになっている声ばかりで、いつしか私の手が彼の背中へと回ろうとしていた。
身体に力が入らない。
立っていることもできない。
その場にずり落ちそうになった身体を、秋葉が抱き留める。そして、私の喉から唇を離して息をついた。その吐いた息が喉にかかるだけで、私の身体が甘く疼く。
「俺なんかより、真治の方がいいんだろ?」
荒い呼吸を繰り返す私の耳元で、秋葉が自嘲の笑みを浮かべながら囁いた。そしてそのまま、耳の付け根にキスを落とし、そのままゆっくりと犬歯を肌に食い込ませてくる。
「あ……あ、あ」
――駄目だ、駄目だ。絶対に、駄目だ。
私は唇を噛んだ。
でも、あまりにも気持ちよかった。
死にそうなほどに気持ちがよくて、理性が消し飛びそうだった。いや、もう理性などなかったのかもしれない。
秋葉は私の首筋に何カ所も牙を食い込ませ、軽く血を吸い、そしてキスする場所を移動させてくる。
乱暴に私のネクタイを外し、シャツの胸元を無理矢理開いてボタンを弾けさせ、露わになった鎖骨の下辺りに唇を這わせ、そこに新しい噛み痕をつけた。
「真治には触らせるくせに」
秋葉の暗い声が聞こえる。「俺には触るなって言っておいて、真治にはいいんだよな」
「……やめろ」
かろうじて吐き出した声は、かすれていて情けないまでに力がなかった。
秋葉はそのまま客間のドアを開け、私を部屋の中に押し込むとそのまま床に押し倒した。力の入らない私の腹の上に乗り、彼は上着を脱いで私を見下ろしてくる。
その彼の手が、ゆっくりとはだけたシャツの中に入り込み、そのまま下腹部へと滑っていくのを感じ、私は必死で首を振った。
「あ、きば……」
「厭なんだろ?」
彼は唇を歪めるようにして言った。「俺にこういうことされるの、厭なんだろうな」
一瞬だけ、彼は泣きそうな目で私を見つめた後、すぐに首を振って露悪的に笑った。そして身を屈めると、私の唇に自分のものを重ねる。
それは性急で、余裕のないキスだった。首を振って逃げようとする私の顎を手で押さえ込み、無理矢理唇を割って進入してくる彼の舌。わずかな血の味がした、と思った瞬間、彼の犬歯が私の舌に突き立てられ、さらに血の味が口腔の中に広がった。
「んん……」
頭の中が溶けそうだ、と思う。
抵抗する気力が全て失せ、私の何もかもを奪っていくようなキスだった。
私はただ彼を受け入れ、快楽に身を震わせ、熱くなっていく身体を持てあましていた。
やがて彼の唇がゆっくりと私の首筋を伝い、はだけた胸元から下腹部へと移動していったが、もうすでに逃げようとする意志は私の中には存在しなかった。
床の上に寝転がっている状態であったのに、私の目の前がぐるぐると回る。
眩暈。
ただ、眩暈。
遠くなる意識と、だんだん襲ってきた寒気。
身体の芯だけが熱い。でも寒い。
指先一つ動かない。腹に力を入れることもできず、声も出せない。
「こんなやり方、したくなかったよ、大介。好きだから、大切にしたかった。でも……」
秋葉が感情を消した声で小さく囁く。
そして、また腹の上に落とされるキス。
まずいな、と思ったのは本当に一瞬だけのことで、秋葉の犬歯が私の臍の上辺りに食い込んだ時、喜悦のため息を漏らして天井を見上げていた。
「何をなさってるんですか!」
そこに真治の声が響いたのも、私は幻聴かと思った。もしくは夢の中のことなのだ、と。そう思ってしまうくらい、彼の声は曖昧に響いて現実味がなかった。
「この、馬鹿! 離れて!」
七瀬さんの鋭い声も聞こえる。
そして、私は自分が呼吸が楽にできるようになった、と自覚した。それは、私の上に乗っていた秋葉が、七瀬さんの手によって引きずり倒されたからだった。
「彼を殺す気なのっ?」
そう叫んだ七瀬さんは、思い切り秋葉の頬に平手打ちしたようだった。そんな音が聞こえたからだ。
私は天井を見上げたままの格好で、首すら動かせないでいる。そして、どうやらこれが夢ではなく現実であるらしいとも思った。
「病人に、何てことを……」
真治が呆れたようにそう呟き、私の身体を抱き起こした。私は彼のなすがままに彼の胸の中に頭を預け、そこでやっと秋葉と七瀬さんの姿が視界に入ってきた。
もう一度手を振り上げた彼女と、項垂れた格好の秋葉。
秋葉の視線は、床へ落ちたままだった。
「蓮川さん、私の声が聞こえますか? 気分は? 立てますか?」
真治が私の頬に手を当てて覗き込んできたが、私は何も応えることができなかった。眩暈はさらに酷くなり、意識が遠のくのが解る。
「冴子! 車の準備をして!」
そんな私の様子に顔色を変え、七瀬さんが秋葉に向かって振り上げた手のひらを下ろし、廊下へ向かって叫んでいる。聞こえてくる足音、慌てたような空気。
そして、私を抱きかかえていた真治が、何か言おうと秋葉の方へ視線を投げた時だった。
秋葉が絶望にも似た色をその瞳に浮かべながら、虚ろに笑った。
「真治の言う通りだよ」
秋葉の眦から涙がこぼれる。
寒気を感じたかのように自分で自分を抱きしめながら、彼は笑い続けた。
「俺のことを好きになってくれる人間なんていない。誰もいないんだ……」
床の上で座り込み、身体を小さくさせて言う彼。やがて彼の表情から笑みが消えて、全ての感情すらも消されてしまう。
それは酷く痛々しく、思わず手を伸ばして慰めたくなるような姿だった。
でも私は相変わらず指先すら動かせない有様で、そのまま目を閉じて、意識を手放したのだった。