一度、目が覚めたと思った。
薄暗い部屋に自分はいて、ベッドに横になっている。意識がはっきりしないせいか、目を開けたことすら夢の中の出来事のようだった。
それでも、かろうじて首を動かすと、自分の腕に点滴らしきチューブがつながれているのが目に入る。それと、遅れてやってきたのは薬品臭。
――ああ、思考の処理速度が落ちている。
私はそう考え、ふと笑った。考えることが億劫なのだ。
「もう少し休んだ方がいいですよ」
気がつくと、誰かの手が私の額にあって、そのひんやりとした心地よさに目を閉じ、そしてまた眠りの中に落ちていく。
二度目の覚醒は、幾分すっきりとしたものだった。
どうやら昼間であるらしく、目を開けてすぐに飛び込んできた白い天井は、太陽の光を反射して輝いているようだ。
私は軽く息を吐いてからゆっくりと身体を起こそうとした。すると、すぐに私の背中に誰かの手が添えられ、困ったような笑い声がその部屋――病室に響いた。
「無理はしない方がいいですね」
気がつけば真治がベッドの側に立ち、私の身体に負担をかけないようにと気を遣いながら、私が起きるのを手伝ってくれている。
「ここは?」
私がそう質問すると、彼は静かに応える。
「我々の関係者が運営している病院です。しばらく入院した方がいいでしょう」
「入院するほどのことなのか」
私が眉を顰めてそう呟いた時、病室のドアの方から七瀬さんの声が響いてきた。
「胃に穴が空く直前だったそうよ。しっかり休んだ方がいいわ」
彼女はどことなく疲れたような表情で、それでも毅然とした様子で私の側にまで歩いてきた。その背後には、冴子さんも付き従っている。
そして、秋葉の姿はない。
この病室は個室であるらしく、それほどの広さはない。唯一、ベッドの近くにあったパイプ椅子に七瀬さんが腰を下ろすと、思い切り頭を下げてきた。
「本当にごめんなさい。あのバカが迷惑ばかりかけて、本当に申し訳ないと思ってるわ」
「いや、大丈夫」
私はそう笑ってから、短く問う。「それで、秋葉は?」
すると、七瀬さんは顔を上げ、乱暴に頭を掻きながら大きなため息をついた。
「あのバカは監禁中。今度こそ、当分外には出さないわ。しばらく頭を冷やしてもらうのよ」
「監禁中……」
家の中に監禁しているのだろうか、と疑問に思って横にいた真治に目をやったが、彼は何も言わずに立っているだけだった。
「あのバカも今回は後悔しているみたいだから、大人しくしていてくれるでしょう。悪いことをして殴られれば、犬だって学習して次からは悪さはしないものと決まってるのに。全く、あのバカは何度私にひっぱたかれたら学習してくれるのかしら。犬以下だわ、最悪よ」
「七瀬様……」
冴子さんが心配げな表情でその手を七瀬さんの肩に置いた。すると、七瀬さんは「大丈夫」と言いたげに笑って見せた。それから、私にもう一度その目を向ける。
「もう、あんなことはさせないと約束する」
それは本当に真剣な口調で、彼女が私に対して罪悪感らしきものを抱いているのが感じ取れた。何だかそこまで思ってくれるのはありがたいと思うのと同時に、少しだけ彼女のことが心配にもなった。それは、今回のことでかなり彼女が参っているように思えたからだ。
「……よく、殴られた方も痛いが、殴った方の手も痛いと言う。あなたが苦しんでいるのは私にも解る。だから、気にしないで欲しい」
そう言って微笑んで見せると、七瀬さんは苦笑した。
「慰められてちゃ世話ないわねえ」
そう呟いて、しばらくの間、彼女は黙り込んでいた。床に視線を落としたまま、何事か真剣な表情で考え込んでいる。
やがて、彼女は思いきったように顔を上げる。
「あのバカを庇うつもりはないんだけど、いえ、庇っているのかもしれないけど」
少しだけ、彼女の声に揺らぎを感じた。いつもの彼女にはあり得ないことだ。いつも、気の強さが態度にも声にもその双眸にも現れているというのに、今はそういったものとは無縁だった。
「あのバカがどれくらい自分のことを話しているのか解らないけど、あのバカはバカなりに悩んでいるのだと思うの。蓮川さんは、あの子の……わたしたちの父親が人間に殺されたことを知ってる?」
「――ああ、秋葉に聞いたが、詳しくは知らない」
「その時、わたしは母と一緒にいたから、どんな風に父が死んだのかは解らない。父は、潤と一緒にいたの。そして、人間に襲われた。父だけだったら逃げることは簡単だったでしょう。でも、父は自分を犠牲にして潤を逃がすことを選んだ。そして死んだのだというの。あの子は多分、その事実を傷として内面に持ってる。母も祖父も、潤を責めることなんてしなかったわ。でも、あの子は今も納得できていない。一時期は、人間を恨むことでその傷を癒そうとした。人間をただの餌と扱うことで、自分たち吸血鬼よりも下等な生物だと思うことで、癒そうとした。でも、できなかった。人間の全てが、憎むに値するわけではないからね。憎み続けることができなくなって、だんだん自分自身のコントロールができなくなっていった。そういうことだと思う」
「秋葉は……人間を許せたんだろうか?」
私はふと、疑問に思ったことを訊いてみた。
もしも自分が彼の立場だったら、どうしただろう?
自分の父親が殺されて――そして、それを許せるだろうか?
「解らないわ」
七瀬さんは肩をすくめる。「あの子が色々な人間に手を出して遊び回っているのは、復讐の一環だと思ってた。でも、出会いと別れを繰り返しているうちに、何か変わったことは明らかで。……蓮川さんにこんなに固執するのは、人間に対する復讐なんかじゃなくて、ただ単に好きだから、だと思うし」
私はしばらくの間、言葉を失って七瀬さんを見つめていた。
七瀬さんもじっと、私の様子を観察していたようだ。やがて彼女は苦笑を漏らすと、首を傾げて見せた。
「あなたがあのバカのことを好きになってくれればいいのに、なんて思うわ」
七瀬さんはそう言いながら立ち上がる。私から目をそらし、私の視線から逃げるようにしてドアの方へと向かう。
「だって、あの子はわたしの言うことなんか聞かない。でも、好きになった人の言葉なら何でも聞く。あなたがあのバカのそばにいて、道を間違いそうになったら正してくれたら……なんて思う。これは逃げなのかもしれない。わたしの甘えなのかも」
「私が役に立てるとは思えない」
自分の口から出たのは、どこか茫然として聞こえる声だった。
買いかぶりすぎだ、と思う。私に、秋葉をコントロールするような力があるわけがないし、逆にいいように扱われるだけだ。
それに多分、それに適役な人間ならいくらでも見つかるに違いない。
何も、私でなくても――。
七瀬さんは病室のドアに手をかけたまま、振り向かずに言った。
「蓮川さんは、『提供者』になるつもりはない?」
完全に、思考能力が停止した、と思った。一瞬だけ、彼女が何を言っているのか解らなくなった。いや、理解したくなかったというべきか。
「真治さんにも相談を受けたわ。あなたが提供者になってくれれば、そしてあなたが潤のそばにいてくれれば、あのバカだって落ち着くんじゃないかって」
「いや、でも」
自分の声が掠れている。
それ以上、何も言葉が出てこない。
「我々の仲間になれと言ってるわけじゃない。ただ、そばにいて我々を助けてくれれば、わたしたちだってあなたを助けてあげる。守ってあげる」
「でも」
そこで、真治が口を挟んできた。「提供者になる代わりに、あなたは色々なものを犠牲にしなくてはならない」
「犠牲?」
私が真治に目をやると、彼は静かに頷いて見せた。
「たとえば、家族との絆とかを」
どういう意味だ?
私の視線の意味を悟ったのか、真治は穏やかに続ける。
「もしも家族がいるなら、彼らの記憶からあなたの存在を消します。仕事も、我々に関係のあるところに移ってもらいます。その方が、我々があなたのことを守りやすいからです。あなたは過去を捨てて、新しい生活に入ってくることになる」
「過去を……捨てる?」
その意味が頭の中に浸透してくるにつれ、私は吹き出したい気持ちをこらえられなくなった。やがて、低く笑いながら言った。
「無理だ。家族との縁を切ることはできない。もしも自分が天涯孤独の身であるなら、考える余地はあったかもしれないが、それは無理だ」
「どうしてもですか?」
真治の目は真剣だ。「あなたは絶対的な『安全』が手に入る」
「ああ、黒崎とかいう吸血鬼に襲われることもなく、安全な生活が手に入るというわけか」
私はそう言って、しばらくの間笑い続けていた。
しかし、だんだんその笑いへの衝動は消え、代わりに馬鹿馬鹿しい、という冷めた感情が芽生えた。
「犠牲にしなくてはならないものが、大きすぎる。そして、代わりに手に入るものの価値が低すぎる」
「そうね」
七瀬さんが薄く微笑む。「あなたがあのバカに惚れてくれない限り、提供者になる価値などゼロに等しいのよ。あなたは、潤のことを好きでもなんでもない。そうでしょう?」
好きでもなんでもない。
ああ、そうだと思う。
私は秋葉のことを考える。
自分勝手で、こちらのことなど考えない。自分の思いを伝えるだけで精一杯で、私のことなど何も――。
『俺のことを好きになってくれる人間なんていない』
そう言って、肩を落とした彼。それはひどく弱々しく――。
「……秋葉の状況に同情はする」
そう言った瞬間、かすかに自分の胸が痛んだのを知る。
この痛みは同情、それ以上はきっと……ない。
「同情は長続きしないわ。最初だけよ」
七瀬さんはため息混じりに言って、諦めたように笑った。
そして、私の方を振り返った彼女は、この会話はもう終わりだと言いたげに話を変えた。
「そうそう、蓮川さんの会社には休みの連絡を入れておいたわ。しばらく入院することも伝え済みだから心配しないで」
「え」
「それと、蓮川さんの保険証が必要なの。勝手にアパートの荷物を触らせてもらっても大丈夫かしら? 安心して、他の荷物には手をつけないから」
「それはかまわないが……」
急な会話の方向転換について行けず、私はただぼんやりとそう返した。
そして、やっとそこで病室を観察しようという気になった。
ここはどこの病院なのだろう? 病室の窓からは、辺りの光景などは見えない。よく晴れた空だけがそこにある。
「この病院の関係者は、秋葉の手にかかっている者たちばかりだから安全よ。黒崎もここにはやってこれない。だから、安心して休んでちょうだい。後で主治医をここに寄越すわね。胃潰瘍も侮ると人間にとっては大変なことになるらしいから、しっかり治してもらわないと」
私はそう言われて自分の腹に手をやった。それから、秋葉に噛まれたと思われる首筋や、胸元へ手を移動させて、そこにある傷の感触を確かめる。
左腕につながった点滴の針、それをとめる白いテープ。わずかにいつもの自分よりも白い肌。
「まだ本調子じゃないのよ。もう、休んだ方がいいわ。ごめんなさいね、こんなつまらない話で疲れさせてしまったでしょう」
「いや」
私は短く応えたものの、確かに疲れているようだ、と感じてもいた。
それが話によるものなのか、体調によるものなのかははっきりしない。
だが、考えることそのものに疲れを感じているようでもあり、私はただゆっくりとベッドに身体を倒した。そうすると目にはいるのは白い天井だけとなる。
「それじゃ、また」
七瀬さんがドアを開けて廊下へと出て行く気配がした。
しかし、かすかな足音がベッドに近づいてくるのに気づき、私はその方向へと目をやった。すると、冴子さんがおずおずといった様子でそこにいた。
「あの」
彼女はわずかに首を傾げ、まるで小動物みたいな可愛らしさを見せつけながら言った。「提供者になるのも、そんなに悪いことばかりじゃないんです」
私が困惑して彼女を見つめていると、さらに彼女は続ける。どことなく、必死といったような口調になりながら。
「わたしもたまに家族の様子を見に行ってますし、元気でいることを確認してから帰ってきてます。そりゃあ両親はわたしのことを忘れてしまってますけど、でもわたしは覚えてますし、家族との思い出とかは消えるわけじゃないですから。もちろん、わたしは七瀬様のことが誰よりも好きですから、家族と一緒にいるよりも今の生活を選んだわけですけど……その、潤様だって悪い方じゃありません。むしろ、純粋な方だと思うんですが、ああ、もう、わたしは何を言ってるのか」
彼女は頬を紅潮させ、困惑したような、照れたような表情で笑ってから深々と頭を下げた。そして、七瀬さんの後を追って廊下へと出ていってしまう。
「……」
それを無言で見送った私はといえば、すっかり思考能力が落ちてしまっていて、もうこれ以上何も聞きたくないといった状況だった。
そんな私のことを見つめ、くすりと笑った真治の気配に気づき、私は彼を見ずに言った。
「君たちは私をそんなに提供者とやらにしたいのか」
すると、真治が応える。
「そうですね、七瀬様はあなたのことを気に入ったみたいですね。提供者になってくれればありがたいと考えているようです」
物好きなことだ。
私は天井を見上げたままの格好で、小さなため息をついた。それから、目を閉じる。眠って頭をすっきりさせよう。考えるのはその後でもいいだろう。
しかし。
「潤様の提供者になるのが厭であるなら、相手は他の吸血鬼でもかまいませんよ」
真治がそう言ったので、私はもう一度目を開けた。そして、ゆっくりと視線を彼へ向ける。
真治は病室の壁に寄りかかった格好で、わずかに首を傾げて見せた。
「あなたが女性の方が好きだというのなら、秋葉一族にも他に女性の吸血鬼がいます。彼女と付き合って、時々潤様を教育して下されば」
「教育?」
私は吹き出した。しかし、真治の声は真剣だった。
「どうやら潤様はあなたに本気で惚れているようです。でも今回のことで、これ以降は無理はしないでしょう。あなたにこれ以上嫌われるのを恐れていますから。だから、あなたが誰と付き合おうが、それによって自分がどんなに苦しもうが、我慢すると思いますよ。あなたは、潤様にとって、そういう存在なのです」
「……それはどうだろう」
私が声を低くすると、真治は小さく笑った。
「あなたはその立場を利用することもできます。潤様を言葉一つで動かすこともできる。あなたは、潤様に殺されかけたのですよ。そのくらいしてもいいのでは?」
その声に潜んでいた響きは、どことなく不穏なものを感じさせた。
本気でそう言っている、そう思った。
「そういうやり方は気に入らない」
低く返した声には、私のできるだけの『本気』を込めたつもりだった。真治の声の響きに負けないために。
すると、真治がしばらく後になってその表情を和らげる。
「そうおっしゃるだろうとは思いましたが」
「試したのか。そう言うかもしれないと思いながら?」
そう応えた私の声に、明らかな苛立ちが混じる。すると、真治が素直に頷いた。
「ええ、そう言っていただかないと困ります。潤様を利用する人間はいりませんから」
「だからといって……」
私はそこまで言いかけ、口を閉じた。何だか言い合うのも不毛だ。私はすっかり疲れ果て、会話を中断させることにした。
目を閉じて、眠る準備に入る。
すると。
「潤様の提供者になるのが厭なら、私の提供者になっていただけませんか?」
私のすぐ近くで真治の声が聞こえて、わずかに心臓の鼓動が早まった。目を開けるとちょうどすぐ近くに彼の整った顔がある。
「何の冗談だ」
私が眉を顰めると、真治は苦笑した。
「冗談ではないのですが。ぜひ、ご一考下さい」
私はしばらく彼を睨みつけていたが、疲れには勝てない。もう、限界が近かった。
「解った」
投げやりになってそう応えた後、今度こそ本当に眠りの中に逃げ込んだ。