首筋の契約 16


「急性胃潰瘍というヤツですね」
 主治医である男性と会ったのは、その次の日の午前中のことだった。私の病室まで足を運んでくれたのは、まだ三十歳くらいに見えたが、それ以上に気になったのは秋葉や真治などに通じる『何か』を感じたことだった。そして、端正な顔立ちをしていること、肌の白さ。
 吸血鬼だろう。
 一目見て、そう思った。
「急性胃潰瘍というのは様々な原因が考えられます。最近、一般の人たちにも知られているかもしれませんが、ピロリ菌というもの」
 彼は私のベッドの脇にあったパイプ椅子に座り、長い足を組んで明るく微笑んでいる。その明るさは、こちらが戸惑うほどだ。
「このピロリ菌というのは、口から入って感染するものでしてね、慢性的な胃炎を起こすことで知られています。これを放置してますと、胃潰瘍になったり胃ガンになったり。でも大丈夫、薬で治せます。そして別の可能性といえば、刺激物の大量摂取。コーヒーなどのカフェインも、取りすぎれば胃潰瘍になりますし、後は風邪薬や痛み止め。ええと、蓮川さんは何か薬を常用していますか?」
「いや」
「ならば、別の可能性があるでしょう。後は、よくありがちなストレスですね。診断した結果、その可能性が強そうなのですが」
 ストレス。多分、それだろう。
 私は心の中で呟いた。正直、疲れが溜まりすぎていた。職場と秋葉家を行ったり来たりの生活だったが、かなり重圧を感じていたことは間違いない。
「しかし、たかがストレスだと侮ってはいけません。急性胃潰瘍というもの、激しいストレスのために一晩で胃に穴が空いて大量吐血、なんて人だっているのですから。もしもストレスの原因に心当たりがあるのなら、それをなくすよう、努力してみましょうか」
「……解りました」
 私は礼儀正しく頷くと、もう一度彼を観察した。白衣の胸元に、名札が下がっている。秋葉鴻と書いてあった。やはり秋葉という名前なのか、と納得すると、彼が私の視線の先を追って首を傾げた。
「七瀬様からお聞きしていませんか?」
「何がだ」
 ふと、素で敬語を使うのを忘れてそう問い返すと、彼は頭を掻きながら続けた。
「この病院は秋葉家の持ち物で、ほぼ我々の仲間で運営されています。人間はわずかですね」
「そうではないかと思っていたが……」
「だから、ご安心下さい。医者も看護婦も見かけはこんなでもベテランですから」
 こんなでも、と言いながら彼は身を乗り出してくる。それほど私と年齢は変わらないように見えても、遙かに彼の方が上。つまり、それだけ医者として活動しているのが長いと言いたいらしい。
 彼の医者としての力を疑問視しているわけでもないし、信用はしている。これまで、秋葉たちに付き合ってきて気づいたのは、彼らはこの人間社会にすっかり馴染んでいて、極端に我々の常識を外れた生活をしているわけではないということだ。できるだけ人間の決めた法律の中で生活しているから、この病院が法に反したものではないだろうということも感じていた。
「蓮川さんはどうやら、潤様の提供者候補とお聞きしておりますので、こちらとしても率直に何でも話せるのがありがたいですね」
「いや、それは」
 私が慌てて口を開こうとするのを彼は手振りで押しとどめ、意味深に笑って見せる。
「ご安心下さい、提供者になるならないは別として、全力で治療に当たらせていただきますから」
 それはありがたいのだが。
 どうやら私は困惑したような表情を作っていたらしい。秋葉鴻という医師は、苦笑して続けた。
「まあ、私もこの病院で働くのが今年いっぱいとなっていますので、あまり長くおつきあいはできませんが、ぜひ今後ともよろしくお願いします」
「今年いっぱい?」
「はい。もう、ここでの勤務は五年目となっていましてね。運営しているのは吸血鬼でも、患者は吸血鬼ではないことが多いので、あまり長く医者を続けているとさすがにまずいのですよ。何しろ、こちらは歳を取るのが遅いので、ずっと一カ所に長居をすると疑いの目を向けられてしまいます。なので、ほとんど五年を目安にして別の病院に移ったり海外で勉強したり休んだり、ほとぼりが冷めたら今度は」
 彼は自分の名札を弄びながら続けた。「秋葉鴻の息子という設定でこの病院に戻ることになるかもしれません」
 なるほど。
 私は微かに頷いてみせた。
 静かに話を聞いていた私を見て何を思ったのか、彼はそっと笑みを消して声を低くした。
「で、正直なところどうなんですか。潤様の提供者に? それとも別の誰かの?」
「いや」
 私は苦笑して、小さくため息をこぼした。「それが胃潰瘍の原因だと思われるので、できればこのまま家に帰りたいと思っている」
「ありゃ」
 彼は困ったように頭を掻いた後、肩をすくめた。「こりゃあ潤様に可能性はないですかね」
 私はただ笑って見せた。
 何となく、久しぶりに作り笑顔でないものを表情に乗せたような気がして、さらに苦笑を交える。呼吸もいつになく楽に感じて、私はゆっくりと辺りを見回した。そういえば、こうしてこの病室をしっかりと観察する余裕すら今までなかったのではないか?
 私がいるのは個室だから、入院費も高いだろう。
 私は生命保険に入っている。確か入院時にもお金がもらえたような気もする。調べてみなくてはなるまい。
「失礼だがここの入院費は一日いくらくらいになるのだろうか」
 わずかに強ばった私の声を聞いて、鴻が明るく笑った。
「安くはないですが、七瀬様が全部負担するとおっしゃってましたから気にしなくても」
 そこでまた、私は息を呑んだ。
「その方が気を遣う。個室ではなく、もっと安い病室だってあるのでは」
「ダメダメ」
 ちっちっ、と舌を鳴らした鴻が、人差し指を自分の顔の前で振って見せる。「個室ではないと、こういうぶっちゃけた会話は無理でしょうから! だって、他の病室には『人間』がいるのですよ?」
「私だって人間だ」
「でも、形だけとはいえ提供者候補であるのなら、守らねばならない存在なのでね」
 形だけ。
 ふと、私は口を閉じて考え込む。
 一体、自分は今、どのような立場にいるのだろう。そろそろ新しいアパートに引っ越せるのだとばかり思っていた。
 だが、真治に。
 ああ、そうだ。真治に言われたのを忘れていた。
 私の提供者になってもらえないか、と言われていたではないか。
 考えてみると頷いたのは私だ。しかし、どんなに考えても今の自分の立場を捨てて、提供者としての新しい生活に入りたいとは思えない。
 今の生活は捨てられない。
 どんなに考えたとしても、私は秋葉潤の提供者にも、真治の提供者にもなれない。それが私の答えだ。
 それを認めてもらうしかない。
 でも、認めてもらえるのだろうか?
 そこまで考えて、また胃が重くなったような気がした。そうだ、これが胃潰瘍の原因なのだとしたら、断る理由にもなる。何とかして、断るべきなのだ。
「蓮川さーん? 聞こえますー?」
 自分の考えに集中していたからだろうか、しばらく秋葉鴻の言葉は聞こえていなかった。だが、我に返って頷くと、彼は困ったように笑って見せた。
「真面目なんでしょうねえ、あなたは。ちょっと、軽く考えられるようになった方がいいかと思いますよ。肩の力を抜いて、好きなように生きるのも一つの道なのだと思いますけど」
「できるものならそうしている」
 私は真剣な表情で応えた。「でも、できないから今の自分なのだと思う」

「よう、元気ー?」
 その日の午後、私が病室でぼんやりとベッドの上に寝ころんでいた時、明るい声と同時にドアが開いた。聞き慣れた声に私の口元は自然とほころび、来客を歓迎しているのを態度で示した。
 そこにいたのは同僚の松下で、そして意外だったのはさやかさんも一緒にいたことだ。
 松下はビニール袋を提げていて、「差し入れ」と私に差し出す。お礼を言って受け取り、早速中を覗いてみると、どこかで買ってきたらしい文庫本が数冊。
「退屈だろうと思って俺様が選んできた。暇つぶしに読んでくれ」
「ありがとう」
 私はいつもよりも快活な笑顔をわざとらしく作ってみせた。「これはこれは官能小説ばかり」
「おうよ、人妻、女教師、女子高生、どれが好みなのか解らないから一通り持ってきた」
 この男には、嫌みが通じない。
 私は深いため息をこぼす。
 すると、さやかさんが明るく笑って花束を差し出してくる。それを受け取って「ありがとう」と礼を言うと、彼女は申し訳なさそうに首を傾げた。
「胃を悪くしたと聞いたから、食べ物は持ってこなかったの。その、もう大丈夫?」
「心配をかけてすまない。胃に穴は空いてないようなので、もうすぐ退院できると思う」
「全く、本当に驚いたよ」
 松下がパイプ椅子をさやかさんに勧め、自分はベッドの端に腰を下ろしながら言う。「急性胃腸炎だか胃潰瘍だかで倒れて即入院、だろ? 何だかすっげえ美人が会社に来て、入院することになったとか何とか説明してきてさ。あの美人、取りすがりにお前を助けてくれたみたいじゃん。すっげえラッキーだな。お前、どこで倒れてたんだ」
 ……七瀬さんのことだろうか。多分、そうだろうとは思う。そして、通りすがりに、ということになっているのか、と心の中で呟く。
「どこで倒れたのか記憶がない」
 私は発言に気を遣いながらそう言うと、松下はそれで納得したらしい。
「いいなあ、あんな美人に助けてもらえるなら俺もどこかで倒れてみたい」
「美人ならいいけどね」
 さやかさんが小さく鼻を鳴らして、松下が鼻の上に皺を寄せた。その通り、美人に助けてもらえると決まったわけではない。
「それはともかく、大丈夫なのかよ」
 松下が辺りを見回しながら小声で言ってくる。「ここ、めっちゃ高いって噂の病院だろ? 救急で運ばれてきたんだろうけどさ、大変じゃねえ?」
「やっぱり高いという噂があるのか」
 私も声を潜めて聞く。
「だって、政治家もよく使ってるっていう話を聞くぜ。セキュリティ万全、みたいな。それに、腕のいい医者がいるから人気があるとか聞いた覚えがある」
 腕のいい、ね。
 私は小さく頷いた。
 秋葉鴻が言っていたように、ここで五年ほど働いたら海外にいって医学の勉強などやって帰ってくる、そんなことを何十年も繰り返していれば、それはそれは腕のいい医師ばかりになるだろう。それで、本当にばれないのだろうか、と疑問はわく。
 だが、その辺りは彼らの――秋葉家、そして吸血鬼としての力で何とかしてこられた。そうなのだろう。
「早く退院できるといいな」
 やがて、松下が静かに言った。

「そう、退院してもらいたいわ。じゃないと、仕事がたまって大変よ」
 さやかさんが冗談めかして言う。でも、その表情は真剣だった。
「蓮川さんがいないと、職場も回らないところがでてくるでしょ?」
「そう言ってもらえるとありがたい」
 私はそう言って笑った。誰かに必要としてもらえるというのはありがたいことだ。そこに自分の居場所があると実感できる。
「とにかく、早く退院してきて」
 彼女は穏やかにそう言った後、私の膝の上に置いたままだった花束を引き寄せ、椅子から立ち上がる。「花瓶ある? 生けてくるね」
 私はベッド脇にある棚を示した。確か、その中に小さめの花瓶が入っているのは目にしていた。
 花瓶を持って廊下へと出て行く彼女を見送った後、松下が意味ありげに笑って見せた。
「脈アリだと思うんだけどね、どうなんだ。お前、さやかさんと……その」
「解らない」
 私は困惑して唇を噛んだ。
 いっそのこと、秋葉たちから離れる口実として、好きな女性がいるから、と口にしてしまってもいいのかもしれない。それが嘘だとしても、多分彼らは私の本意を解ってくれるだろう。
 だが。
 それよりも別の心配があった。
 私は今現在、黒崎という吸血鬼に狙われているらしい。
 だとすれば、私に近い位置にいる人間も、危険があるのではないかという不安だ。
 さやかさんや松下といった人間が、吸血鬼に襲われる確率はどれほどあるのだろう。もし低かったとしても、可能性はゼロとは言い切れまい。
 当分の間は、下手に動いてはいけない。
 そんな予感があった。
「それよりまず、アパートに帰りたいな」
 やがて、私はことさらに明るい口調で続けた。「アパートでのんびり休みたい」

 七瀬さんと真治が次にやってきた時、私は「アパートに移りたい」と思いきって言った。
 彼らが私のことを心配してくれているのは解っている。もう、充分すぎるほど色々やってもらった。だから、これ以上一緒にいるのはいけないという思いが強かった。
 そうだ、情がわきそうなのだ。
 彼らはけして悪い存在ではない。少なくても、私に取っては。
 彼らは吸血鬼で人間の血を必要としているけれども、無理矢理人間を襲うこということはなさそうだし――秋葉潤は別としてだが――、私が思っている以上に気を遣ってくれている。
 だからこそ、困ってしまうのだ。
 彼らが嫌うに値する存在だったら、ここまで悩まなくても済んだだろうに。
「色々考えたのだが」
 私はベッドの上で居住まいを正しながら、できるだけ真剣な表情で自分の意志を告げる。「私には『提供者』としてよりも、自分の人間としての生活の方が大切だ。秋葉の気持ちも解るし、七瀬さんにはとてもお世話になったのだが……」
「いいの、気にしないで」
 七瀬さんがベッドの脇に立って、私の手を握ってきた。とても優しく握り、でもその表情には少しだけ残念そうな色が滲んでいる。
「無理強いはしない。これがわたしたちのルール」
「……ありがとう」
 私は軽く頭を下げた後、心配だったことを口にする。「ここの入院費だが、多分保険で少し援助が……」
「そんなこと気にしないでいいの」
 七瀬さんは強く首を振って見せる。「あの馬鹿のせいで入院する羽目になったんだもの、このくらい負担しなくちゃ気が済まないわ。だから、本当に気にされるとこっちが困るの」
「しかし」
「それより、新しいアパートの準備はできてるのよ。いつでも入居できる。あなたが退院したら、すぐに移動しましょうか」
「ありがとう」
 私が礼を言った後、七瀬さんはしばらく私を見つめていた。私が困惑するほど長く。そして、やがて彼女は病室から出て行って、残されたのは真治だけとなる。
「本当に、出ていかれるんですね」
 真治もまた、残念そうに私を見つめていると思った。
 私はため息をついて彼を見つめ返し、「秋葉とも、そして君とも、私は提供者という立場にはなれない」と言うと、胸のつかえが取れたような気がする。
 そう、これでいいのだ。これが自分に取っても、彼らに取ってもいい結果になると信じる。私では、彼らの力にはなれない。何の取り柄もない人間ではないか。
 だから、これでいいのだ。多分、おそらく。
「残念です」
 彼がそう言った後、私はゆっくりとベッドに横になった。そのまま目を閉じる。
 この関係にも終わりが近い。
 そう思ったら、ほっとしたような、それでいて胸の中が涼しいような感触に囚われて、内心戸惑う。
「ところで蓮川さん」
 ふと、私は真治の呼ぶ声に我に返って目を開けた。彼はいつの間にかベッドの脇にある棚に目をとめていて、そこに置いたままのビニール袋を手にしていた。
「こういうご趣味で?」
 冗談めかしてそう言った彼の手には、松下が持ってきた文庫本があった。しかも、女性のあられもない姿の写実的な絵が表紙に描かれているもので。
「違う。それは同僚が勝手に持ってきたものだ」
 私は短く強く言ったものの、真治はくくく、と声を上げて笑ったままだった。
 何が可笑しいのだ、と不満を告げたくなった。結局、面倒なので言わなかったが、不愉快には違いなかった。



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