首筋の契約 17


 とりあえず、ストレスだけはためないようにしよう。
 ふと、目の前にいる真治を見つめながらそう思う。
 ストレスの原因が彼らにあることは間違いないと思う。それは、彼らが『吸血鬼』であること、そしてその事実に私が必要以上に警戒し続けていることも関わってきているのだろう。
 確かに、彼らは人間ではない。しかし、七瀬さんたちが悪い人間――いや、吸血鬼であるとは思えないことは確かだったし、私のことを気遣ってくれている。ならば、私も彼らに対して警戒を解いても問題はないはずだ。もっと普通に接することができれば、私のストレスも軽減されるはずなのだ。
 ただし秋葉潤に対してだけは、相変わらずどうしたらいいのか解らない。
「今、秋葉はどうしているんだ?」
 私は小さなため息をついた後、真治に訊いてみた。その時彼は、先ほどまで手にしていたビニール袋を棚に戻していて、椅子に座ったところだった。
 真治は目を細め、私を見つめた。
「七瀬様にいじめられているところですが」
「いじめ……」
 私は苦笑して首を傾げる。「正確に言うと、どういうことになっているんだ?」
 今のところ、秋葉はこの病院に姿を見せていない。七瀬さんは秋葉を監禁していると言っていたが、あの家に閉じこめているということなのだろうか。そしてそれはいつまで続くのだろうか。
 次に彼に会った時、私はどういう態度を取るべきなのか。それが一番の悩みなのだ。
「監禁されています」
 真治は小さく微笑み、わずかに躊躇いながらも続けた。「七瀬様に血を抜かれまして、部屋に閉じこめられて餓えに苦しんでいるようですよ」
 餓えに苦しんでいる?
 私は眉を顰め、真治を見つめ直す。
 私は人間であるから、吸血鬼にとってそれがどれほどの苦しみなのかは知らない。人間と同じようなものであるならば、空腹も過ぎれば何も感じなくなる……とは思うのだが。やはり、人間とは大きく違うのだろうか。
「血への渇望というのは尽きることがないのですよ」
 真治は私の視線に含まれた疑問に気づいたのか、やがて笑みを消した。「我々は不死に近い存在です。血を飲まずとも生きていられることも可能です。ただ、それを実際にやってみるとなれば、本当に苦しいでしょう。血を飲まずにいれば、我々の体力が低下します。眩暈や頭痛、身体中を襲う痛み。そして、血を飲むことしか考えられなくなります。それこそ一日中、眠ることもできずにのたうち回ることもありますし。でも、潤様はおとなしくしていらっしゃるようです」
「……そうか」
 どう応えたらいいのか解らず曖昧に頷いた私は、軽く頭を掻いた。
「気になりますか」
 ふと、真治が意味深に微笑んで見せる。私はそんな彼を憮然と見つめ返し、言葉を探した。
「それなりには」
 結局上手い言葉が見つからずに低くそう返すと、真治がさらに声を上げて笑った。
 何だか妙に居心地が悪くて、私は彼から目をそらして窓の外を見つめた。
 どんなに私が悩んでいようが、困惑していようが、近いうちにまた秋葉と顔を合わせる日がやってくる。その時私は、以前と変わらぬ態度で彼に接することができるだろうか。
 何て声をかけたらいいのだろう。
 私はただ、そんなことを考えていた。

 私の体調はすぐによくなった。退院も決定して、私は職場の上司に病院の公衆電話から連絡を入れた。
 長く休んでしまっていることを詫び、出社できる日にちを伝えると、上司は電話の向こう側で大きな声で言った。
「よかったよかった、早く復帰してくれ、仕事が溜まって机の上がとんでもないことになってるぞ!」
「……考えたくないですね」
 私はため息混じりにそう応え、山積みになっているだろう書類のことは頭の片隅に追いやった。
「で、色々噂になってるぞ」
 と、上司が声を潜めて――とはいえ、もともと地声が大きな声なので、あまり小さい声という気はしない――続けた。
「噂?」
「そうだ。蓮川、お前は結婚するのか」
「は?」
 虚を突かれてというか、私は間の抜けた声を出していた。
 結婚? どこからそんな噂が?
「すごい美女に助けられたという話を聞いてるぞ。それで、その彼女と結婚するんじゃないかと。だいたい、お前は浮いた話の一つもないし、そろそろいい歳だろう。結婚はいいぞー」
「いや、あの」
 そうか、七瀬さんのことが伝わっているのだろうか。そういえば、会社に挨拶にいってくれたと聞いた気がする。確かにあれくらいの美女なら、何らかの噂が立っても仕方ないと考えるべきなのか――。
「家に帰ると奥さんが待っていてくれて、食事やお風呂の準備もしてくれる。そのうち子供もできちゃったりしたら、本当、幸せでなー」
「あの、何かあったんですか」
 珍しく上司が浮かれている気配を感じ、私は困惑してそう訊いてみた。すると、上司がさらに嬉しそうに笑って続けたのだった。
「俺の奥さんが妊娠してね、待望の第一子誕生がもうすぐなんだ」
「それはおめでとうございます」
 つい、私の口元もほころんだ。
 こういう話は人を幸せにさせるものだ。しかし、じわりと広がった温かさを自分の胸に感じながら、ふと芽生えた疑問にそっと首を傾げた。
 吸血鬼は、妊娠するのだろうか?

「するわよ」
 七瀬さんは笑顔でそう言った。
 彼女は私の病室にあった椅子に座り、長い足を組んでいる。相変わらずのミニスカートであったから、少々刺激的な姿だと言える。私はベッドに腰を下ろしていたのだが、彼女から目をそらして小さくため息をこぼした。
「その辺りは人間と同じ。性交渉を持てば、妊娠の可能性はある。だから、避妊のためにコンドームも使う」
「……」
 何と返したらいいのか解らなかったので、私はずっと黙り続けていた。しかし、彼女は私の質問に丁寧に答えてくれた。
「吸血鬼を増やす方法は、蓮川さんも知っての通り、『契約』を結ぶこと。気に入った人間を吸血鬼にすることができる。でも、普通に子供を産んで増えていくこともあるわ。正直、こっちの方が多いかもしれない。あたしや潤だってそうやって生まれたし、真治だってそう。吸血鬼の男女が性交渉して、子供が生まれる。そして、これは禁止されていることでもあるのだけれど、人間と吸血鬼の混血も存在する。相手と契約を結ばないままに、子供を作る。でもこれは、とても罪作りなことよ」
「どうしてだ?」
 私はそこで七瀬さんに向き直り、眉を顰めて見せた。
「生まれてきた子供は、人間ではないわ。我々吸血鬼の力を受け継いでる。成長するのは遅いから、人間と同じ学校に通うこともできない。食事だってそう、血が必要になる。じゃあ、『吸血鬼』として生活できるかといえば難しいのよ。人間の血が混ざってしまった彼らは、我々よりもずっと弱い力しか持たない。そして、誰かと『契約』して吸血鬼を増やすこともできない。そしてね、普通の生殖能力がないの。性交で誰かを妊娠させることも、することもできない。一代だけの命だわ。そんなの、生きている意味ってある?」
「それは……」
 よく解らない。
 ただ、たとえ結婚したとしても、愛した人との子供を作ることができないというのは、淋しいことだとは思った。
「生物の存在意義って何かしらね? 子孫を増やすことじゃないの? それが生物の細胞に組み込まれた本能ってものなんじゃないかしら? だから、同種間による妊娠ということが、我々にとって暗黙の了解になってるってわけ」
「そういえば」
 私はふと、何かの小説か映画でそんな設定を見たことがあるような気がして口を開いた。「そういう立場の人間を何と呼んでいたか……」
「そうね、ダンピールと呼ばれているわ」
  七瀬さんは唇を歪めるようにして言った。「男性のことをダンピール、女性のことをダンピーラ。そう呼ばれていたかもしれないわね。ねえ、蓮川さんは吸血鬼の映画とか観たりする?」
 とても楽しげな目をした七瀬さんは、とても魅力的に見えた。きらきらした輝きがその双眸の中に存在している。
「コッポラの映画なら観たが」
 そう私が応えると、彼女はにやりと笑って続けた。
「『ブレイド』っていう映画は面白かったわよ。ウェズリー・スナイプスが主演で、彼はダンピール役なの。そして、吸血鬼を次々に倒していくのよ」
「七瀬さん、楽しそうだね」
 私の苦笑を受けて、なぜか彼女は胸を張った。
「映画は好きだもの! 『ブレイド』は一作目が面白かったわね。とても格好良かったわよ、ウェズリー・スナイプス!」
「ええと、それは吸血鬼を倒す役、なんだろう?」
「ええ」
 首を傾げている私を見つめ、彼女はくすくすと笑った。「ダンピールは吸血鬼を倒す力を持ってる、ってことになってるの。吸血鬼としての自分に戸惑いながらも、戦う男性というのはとても魅力的だものね」
 吸血鬼を倒す力。
 私はその言葉に反応して目を細めていた。
 すると、また七瀬さんが私の考えを読んだように続けるのだ。
「そういう種族もいるかもしれないわね。我々、秋葉の血では、ダンピールの力はただ弱いだけだわ。でも、吸血鬼の起源を探してさかのぼっていけば、吸血鬼の種族も色々枝分かれしているのよ。長い時間の間に、色々な進化があったかもしれない。もしかしたら、外国ではダンピールがとても強い力を持っているのかも。それこそ、映画のようにね」
 私が黙って彼女の顔を見つめ続けていると、最後に彼女はこう締めくくった。
「でも、我々はダンピールを生み出すことを禁止してる。少なくとも、この日本では。必要以上に仲間を増やさない。それがルールなのよ」

「ね、退院が決まったでしょ?」
 いつしか、沈黙して自分の考えの中に沈み込んでしまっていたらしい私は、そう言った七瀬さんの言葉で我に返る。
「え、ああ」
 顔を上げて微笑んで見せると、彼女も笑みを返してくる。
「食欲は戻ってきてる? 冴子が腕によりをかけて退院祝いの食事を準備するって言ってたけど、嫌いな食べ物はあるかしら?」
「気を遣わないで欲しい」
 慌てて両手を前に出して軽く振って見せると、彼女は「気なんか遣ってないわよー」と笑った。それは本当に軽く響いた言葉ではあったけれど、何らかの形で彼らが私に気を遣っているのは間違いないと思っている。
 そして、それを無下に断るのも気が引けて、私は黙って頭を下げた。

 退院の日、私は簡単に荷物をまとめてベッドの脇に立っていた。
 元々、私はここに荷物を持ち込んではいない。洋服も何もかも、七瀬さんたちが手配をしてくれていたが、それらの全てをここに置いていってくれていいと言われていたので、ベッドの脇にある棚を整理するくらいだけだった。彼女が私のアパートから持ってきてくれた服が数枚あったので、それをバッグに詰めて終わりだった。
「もう大丈夫ですか?」
 その日、真治が片付けを手伝いにきてくれていたが、彼がやれることはほとんどなく、真治はただ苦笑して私を見つめている。
「ああ、終わりだ」
 私がそう応えたのと同時に、七瀬さんと冴子さんが病室に入ってくる。相変わらず、堂々とした歩き方の七瀬さんと、それに付き従うような姿の冴子さん。この二人の関係も、何だか興味深いと思った。
 冴子さんが七瀬さんの『提供者』であるということは解っている。最初はただ七瀬さんが色々と冴子さんに命令をしていて、まるで冴子さんが召使いのような立場にあるのではないかと思ったが、よくよく観察してみるとそれだけではないことが解る。
 七瀬さんの目はいつだって冴子さんに優しかったし、反対に冴子さんの目も優しいというか――情熱的だと思う。そして、時折二人が一緒にいる時の会話に見え隠れする感情や、お互い触れ合う指先になど、あらゆるところに性的な何かを感じさせるのだ。
 恋人。
 そういうことなんだろうか。女性同士なのに?
「お嬢様、それでは私は先に」
 七瀬さんたちがやってくるとすぐに、真治はそう言い残して病室から出て行ってしまった。何か予定があったのかもしれない。
 私はナースステーションに挨拶を済ませ、秋葉鴻という医者にも声をかけていこうと思ったのだが、彼は忙しかったらしく掴まえることができなかった。だから、別の医者を掴まえて彼への礼を伝言した。
「じゃあ、帰りましょうか」
 七瀬さんはそう言って、私を病院の外へと促した。駐車場には見慣れた車が停まっていて、我々はそれに乗り込む。相変わらず運転は冴子さんで、その丁寧な運転に身を任せ、私は少しだけ緊張していた。
「途中で何か買ってく?」
 七瀬さんは色々気を遣ってくれていたが、私はただ首を振って、早く彼らの家に戻ることを選んだ。どうせいつかは秋葉と顔を合わせなくてはいけないのなら、先延ばしなんかせずにさっさと済ませてしまえ、という考えからだった。
 入院している間に、開き直りというか何というか、多少は彼らに対する緊張は和らいだような気もしていたので、秋葉に対する緊張もそれほど激しいものではなかった。そう、今のところは、だが。
 でもやはり、秋葉家の門をくぐって車を降りる頃になると、ちりちりとした緊張が首の後ろに走るのは否定できない。
 七瀬さんが最初に家に入り、それに続いて私、その後に冴子さんが。
 靴を脱いで玄関を上がった瞬間、七瀬さんが何か声を上げたのに気づいて、私は顔を上げた。
 すると、廊下の奥に立っていた真治の姿が目に入る。
「大丈夫?」
 足元がわずかにふらついているような真治は、苦しげに手を額に置いて壁にもたれかかっていた。その彼に触れようとした七瀬さんの手を避けたのか、彼は慌てたようにこちらに足を踏み出した。
「すみません、ちょっと今は」
 そう応えた真治の声には余裕が感じられなかった。ぐらりと揺れる肩、浅い呼吸、震えた手が壁を伝う。
 一体、何が。
 そう思った私のすぐ前にやってきた彼が、そっと顔を上げる。すると、ひどく青白い頬と、真紅に染まった双眸が目に入る。
「困りましたね」
 真治は困ったように笑い、急に手を伸ばして私の頬に触れた。その冷たい指先に驚き、身体を硬直させている私に、彼は言う。
「すごい誘惑ですよ、蓮川さん」
 その目に、明らかに情欲に似たような色が浮かんだ。
 直感的に危険を感じて後退り、真治を睨みつける。すると、彼は目を細めて私を見つめ直すのだ。私の顔から首筋の辺りまで。
「提供者になるのを断られてしまいましたからね」
 彼はそう言うと、私から視線を引きはがして七瀬さんを見やる。「今夜は外出してきます。できるだけ早く戻りたいとは思うのですが」
「いいわよ、ゆっくりしてきて」
 七瀬さんの声は静かだ。そして、凛としている。
 そして気がつけば、目の前から真治の姿が消えていた。足音すら聞こえず、玄関が開く音も聞こえなかった。辺りを見回しても真治の姿はなく、私はただ困惑した。
 すると、そこに声が響いたのだ。
「ちょっと、やりすぎたかもしれない」
 そう言ったのは、私が入院中の間もずっと考え続けてきた存在、秋葉潤で。
 彼は廊下の奥、先ほどまで真治が立っていた場所にいた。白いシャツにジーンズという姿だったが、そのシャツはところどころ赤黒く汚れていた。青ざめた頬は真治ほどではなかったが、その目の下には明らかに疲れからくる色があった。そして、わずかに痩せただろうか。
「コントロールを覚えなさい」
 七瀬さんは短く言い放ち、秋葉を冷ややかに見つめる。
 すると、秋葉は素直に頷いた。
「うん、ごめん」
 それは七瀬さんも驚くくらい、毒気のない素直な響きがあって、七瀬さんも彼を睨みつけていることができなくなったらしい。すぐに表情を和らげて、でも少しだけ咎めるような響きを持って、次の言葉を口にした。
「謝る相手が違うでしょ?」
「うん」
 秋葉はその場所から一歩も動こうとせず、ただその視線だけを私に向けて真っ正面から見つめてきた。そして、頭を下げた。
「ごめんなさい」

 どうしよう、と思った。
 何て言えばいいのだろうか。
 私がただ立ちつくしていると、秋葉が恐る恐るといった様子で顔を上げ、無理矢理微笑んで見せた。
「嫌われたなあ、やっぱり」
 その声があまりにも頼りなく聞こえて、私はつい首を横に振っていた。
「いや、そんなことはない……んだが」
 そう口にしてから、『こういうのはよくない』と思い直した。彼を拒否するなら徹底的にやらないといけない。隙を見せてしまったら。そうしたら。
「本当か?」
 秋葉が不安げに、それでも喜色をその面に浮かべて言うその口調があまりにも必死すぎて、私はどうしたらいいのか解らなくなった。
 今さら『違う』とは言えない。しかし、どうしたら。
 困惑して立ちつくす私を見て、七瀬さんが頭を掻きながら笑っていた。
「蓮川さんって、意外と流されやすいタイプなのかもね」
 そう言いながら。

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