首筋の契約 18


 その日の夜の食事の場は、ひどく居心地が悪かった。
 冴子さんが用意してくれた食事は本当に豪華なもので、正直、どれから食べたらいいのか解らなかった。それぞれの量はそれほど多くはないのだが、とにかく種類が多すぎる。これだけの種類を作るのに、どれだけ手間がかかるのだろう。そう考えると冴子さんに申し訳ないような気がして仕方ない。
 温野菜のサラダ、ミネストローネ、牛肉を赤ワインで煮こんだもの、ホタテの貝柱のソテー、あっさりとした風味のドリア――「ホワイトソースに豆腐を混ぜてみたんですが」と心配そうに見つめてくる彼女は、とても可愛いと思う。
「本当にありがとう」
 申し訳なさというのももちろんあるが、それ以上に感謝の念が強かった。
 それぞれを食べてみて思うのは、冴子さんが病み上がりの私の体調を気遣って、胃に優しい味付けをしてくれているということだった。
 私はそうして、食事をすることだけに専念した。
 そうしないと意識が別方向に向かってしまうのだ。
 同じテーブルについている秋葉の存在を、ひしひしと感じさせられてしまう。
 秋葉はどうやら風呂に入ってきたらしく、綺麗な格好に着替えてきていた。乱れていた髪の毛も手入れされ、青白かった頬もうっすらと元の色に近づきつつある。もちろん、完全に体調がよさそうとはいえなかったが。
 何となく彼と目を合わせるのを避け、私はずっと冴子さんや七瀬さんたちとの会話に集中し続けていた。会話はほとんど料理のことだったり、最近のニュースのことだったり、私が入院中には見られなかったテレビの内容のことだったり、ただの世間話に終始した。
 真治がこの場にいないということも、何となく居心地が悪かった。会話の相手がそれだけ減るということだからだ。元々、私は女性と会話するのが得意な方ではない。むしろ苦手だと言っていい。面白いことを話せるわけでもなく、いつも聞き役に回るのが常だからだ。
 早く食事の時間が終わればいいとすら感じていた。本当に身勝手な考えだとは理解していたが、どうにもならないことがある。
 秋葉も私が彼と会話を避けているのは気づいていて、自分から私に声をかけようとはしなかった。ただ大人しく椅子に座っていて、じっと我々の話を聞いているようだった。
 私が食事を終え、食器を片付けるのを手伝っていると、背後に戸惑っているような気配が感じられた。彼を盗み見ると、秋葉もまた片付けを手伝おうとしている。食器を手に台所に足を運ぼうとして、そこに私がいることに困っているようだった。私から距離を置いて立とうとしてくれている。それだけは理解できた。
「いつ、新しいアパートへ移る?」
 私が台所を離れようとした時、ドアのそばにもたれかかっていた七瀬さんが静かに言った。
「明日にでも」
 私がそう応えると、少しだけ七瀬さんが残念そうな表情を作ったと思った。気のせいかもしれないとも思う。
「そう。じゃあ、明日の朝ご飯も冴子に頑張ってもらって、豪勢にしてもらわなきゃね!」
 しかしすぐに七瀬さんが明るくそう続けたので、やっぱり先ほどの表情は気のせいだったのかもしれないと自分に言い聞かせた。
「気を遣わないで欲しいと言っても、聞いてもらえないのだろうな」
 私も苦笑しつつ応えながら、少しだけ淋しいと感じていた。そう感じることが不思議だった。それだけ、一緒にいすぎたということなのかもしれない。
 少し離れた場所に秋葉もいて、おそらく我々の会話は聞こえていただろうと思う。だが、私は秋葉のことを見ようとはしなかったし、彼も話しかけてこなかった。そして結局、その夜は秋葉との会話はほとんどないまま、私は部屋へと戻ったのだった。

「記憶は消さないわ。何かあったら困るもの。だから、何でもいいから気になったことがあったら連絡して」
 次の日のお昼頃には、私は新しい住み処となるアパートの前に立っていた。冴子さんの運転する車で送られ、七瀬さんも私を見送りにきていた。七瀬さんは私に名刺を差し出してきたので、ついそれを受け取る。そこに視線を落とすと、彼女の連絡先である携帯電話の番号が書かれていた。
「ありがとう」
 私は彼女に頭を下げ、自分の部屋の鍵を彼女から受け取る。それと、アパートの契約書など、これから必要となる書類の入った封筒も。
 車はすぐに動きだし、私の前から遠ざかる。それを見送りながら、きちんと別れの挨拶ができたのは七瀬さんと冴子さんのみだな、と思った。真治はどうやらあの家には帰ってきていないようだったし、秋葉とは相変わらず会話がほとんどないままだった。あの二人が相手だと、顔を合わせれば何を言ったらいいのか悩む。だから、これで良かったのかも知れない。
 やがて私は自分でも知らないうちにため息をこぼし、ゆっくりと自分の部屋――二階の角部屋へと向かう。
 そして。
「大介」
 突然、遠く離れた場所から、聞き慣れた秋葉の声が飛んできて、私の身体が緊張で強ばった。できるだけ不自然にならないように、緊張などしていないのだと自分に言い聞かせつつ、軽く深呼吸してから振り返る。
 すると、秋葉が道路を挟んだところに立っているのが見えた。
 秋葉も緊張を隠しているらしかった。
 微笑んではいたが、その口元がひどくぎこちない。私は彼に笑い返すことができなかった。
 秋葉はそんな私を見つめ、どこか切羽詰まったような響きをその声に滲ませて続けた。
「俺のこと、利用していいから。何か困ったらいつでも姉貴に連絡してくれ。俺ができることなら何でもするから」
 私が何て応えたらいいのか悩んでいると、彼は慌てて首を振った。まるで、こちらの返事など待ってはいないのだと言いたげに。
 それから、彼は何事か言葉を続けようとしたのだが、結局口を閉ざした。辺りには人影があったし、大声で話をしている我らの存在はひどく目立つだろう。
 秋葉はすぐに軽く手を振って歩き出し、私の目の前から消えた。
 そしてその場に残された私はといえば、やっぱりどうしたらいいのか解らないままだった。

 それからの数日間は、ほとんど何もなかったと言っていい。
 私は体調を整え、職場に復帰した。退院祝いと称して飲み会にも参加することになり、本当に秋葉たちと出会う前の日常が戻ってきたと思った。
 しかししばらくの間は、この平安は私の勘違いかもしれない、という不安との戦いでもあった。
 いっそのこと、彼らに対する記憶が何もなくなっていれば、こんなに不安に感じることもなかったのかもしれない。完全に以前の生活に戻ることができたのかもしれない。
 でも、『今までどおりの生活に戻ることができた』という勘違いは、やがて私から不安を消してくれた。毎日普通に仕事にいって、仕事が終われば帰宅するという生活。それが数日続くと、あっという間に私は自分のペースを取り戻した。
 だがそれも、すぐに乱されることになる。
 秋葉たちや私自身が恐れていたこと、それが起きたからだ。
 秋葉たちに敵対している吸血鬼。黒崎という男性が私に接触してきた時に、生活の基盤が崩されるのでは、と恐怖することになる。

「身構えるなよ」
 その男性が急に私の目の前に現れたのは、仕事帰りの帰り道でのことだった。電車に乗ってアパートの近くの駅に降り、明るい大通りを歩いていた時だ。
 私は完全に油断していた。
 帰り道、大通りに面した店に視線を投げていたせいか、彼の声が聞こえて慌てて足を止めた時には、もうすぐぶつかるという距離に彼が立っていたのだ。
 ――吸血鬼だ。
 覚えがある、ただならぬ気配。そういったものが、秋葉たちに接してから本能で解るようになった。
 私よりも身長が高く、痩せてはいるが痩せすぎず、黒いスーツを着崩した感じに身につけている。短い黒髪、意志の強そうな眉、そしてそれ以上に整った顔立ちが人目を引く。
「身構えるなって言ったろ?」
 その男の口元にひどく酷薄そうな笑みが浮かんだ。
 私は全身に力を入れ、今ほど切実に逃げたいと思ったことはないと考えながら唇を噛んでいる。
 そして、緊張のあまりになのか、まだ喧噪が激しいはずの大通りから音が消えたと思った。もちろん、それは私の思いこみでしかない。辺りにはたくさんの人通りがあり、友人同士で笑い合っている声も聞こえてきているはずだった。
 しかし、今の私には目の前にいる男性のことしか目に入らず、その声も聞こえない。
 心臓が激しく脈打ち、こんなに人目がある場所に立っているというのに、今にも殺されるのではないかという考えに苛まれる。
「すごく聞こえるぜ」
 その男はさらに楽しげに笑った。気づけば彼は私の耳元に唇を寄せ、低く囁いている。
「お前の心臓の音が騒々しい。怯えているのか」
 喉が渇く。
 唇がわずかに震えたような気がしたが、かろうじて後退ることだけはしないで済んだ。
「吸血鬼を前に、怯えない人間がいるとでも?」
 自分のその声は震えてはいない。しかし、かすかに掠れた声となった。
「じゃあ、逃げたらどうだ? ここで大声を上げて逃げ出せよ」
「馬鹿なことを」
 私は必死に呼吸を整え、とても近い位置にある彼の表情を観察した。彼の目的は何なのだ。私を殺すためか? それとも別に目的があるのか?
 ――逃げるか?
 ――逃げられるか?
 私は彼の目的が知りたいと思うと同時に、知る前に逃げた方がいいという相反する考えも抱いていた。
 しかし。
 視界の隅に捉えたものがある。
 いや、影がある。
 素早くそちらに目をやると、そこには見覚えのある青年の姿。いつだったか、秋葉を追ってきた吸血鬼だ。少し離れた場所で、何の感情も映さぬ瞳で私を見つめていた。
 そして、息を呑む。
 彼らは二人きりではない。
 人間とは違う気配を発している影が、他にも。何人かは正確には解らない。ただ、少なくとも五人以上の吸血鬼が私を取り囲んでいるのだと直感した。
 ――逃げられない。
 私は息を吐いた。
 そして、腹が据わったと思った。あきらめがついたのかもしれない。どうやっても、逃げられはしないのだ。逃げれば殺される。しかし、逃げずにいても殺される。その可能性が高い。
 私はやがて、目の前にいる男性――黒崎という名前であろう男性を睨んで見せた。せめてみっともない態度は見せずにおきたい。私という人間にあるであろう、ささやかな矜恃が今、唯一の武器だった。
「目的を聞きたい」
 私が静かにそう言うと、黒崎が目を細めた。
 そして、くくく、と笑いながら頭を掻いた。
「いいねえ、人間」
 その場にいるだろう吸血鬼の中で、一番余裕を見せているのは黒崎だった。この状況を楽しんでいる気配が感じられる。
 その代わりといっては何だが、他の吸血鬼たちには緊張が走ったらしい。
 特に、以前会ったことのある青年――黒崎の『提供者』という立場にいる青年の表情には、忌々しげな色が浮かび上がってきていた。そして、気がつけば黒崎のすぐ横に立って、まるで私が彼を攻撃するのでは、と警戒している気配を発している。馬鹿馬鹿しいことだ。私が彼らを攻撃できるはずがない。しかし、その青年が私に対して敵対心をむき出しにしているのは明らかだった。
 危険を感じて私の心臓が暴れ始めると、黒崎がその青年を後ろに下がるように手で促した。
「邪魔するな、久住」
 黒崎は突き放すような口調でその青年に言った後、私に穏やかな色を乗せた瞳を向けてきた。だが、その穏やかさが見せかけだけのものだと私は感じている。
 黒崎はさらに楽しげに笑ってから、右手を差し出してきた。
「俺は黒崎鷹明。名前くらいは知ってるか?」
 握手をしようというのか。
 私は黙って彼の差し出された手を見つめる。しかし、今現在敵だとしか思えない相手との握手は避けたかった。だから、私は握手を拒否するように手を上げ、低く返した。
「私は蓮川大介。名前は知っているはずだ」
「……ああ、知ってる」
 握手を避けられても、黒崎は気を悪くしたようには見えなかった。そう、表面上は。
 彼は手を引いて私を見つめ直し、あからさまに観察しているような視線を私の全身に走らせる。
「あんたは秋葉潤のお気に入りだ。だろう?」
「……餌として、という意味か?」
 彼の言葉の意図するところが解らず、戸惑いながらそう返すと、彼は小さく鼻を鳴らした。
「お前が人間は『餌』という認識でいるのなら、そうなんだろう」
 いかにもつまらなさそうに言った彼は、そこで辺りを見回して続けた。「こんなところで立ち話も疲れるだろう。場所を変えるか」
「いや」
 私も辺りを見回して言った。「人目があるところの方が助かる」
 すると、黒崎が唇を歪めるようにして笑った。
「何も取って喰おうっていうんじゃない。話だけだ。それ以上は何もしない」
 私は少しの間、黒崎を見つめていた。彼の言葉が本当なのか見極めるための時間。
 しかし、彼が信用できる相手かそうでないか、という自問自答の答えは『否』でしかない。
「悪いが……」
 と私が言いかけるのを彼は遮り、笑みを消して真剣な口調で言うのだ。
「秋葉の者から受けた説明だけで俺たちを判断するのか? まだお前は秋葉側の『提供者』じゃないと判断しているが、どうだ? あの家から出てきたという意味は、秋葉の味方ではないということだ。そうだろう?」
 私はその問いに答えなかった。
 ただ、黒崎の表情を見つめる。すると、彼は小さなため息をこぼしてみせた。
「もちろん、お前は俺たちの味方でもない。それは理解している。まずは、話をしようっていうんだ。どうだ?」
「黒崎……」
 久住と呼ばれた青年が、咎めるような口調で彼の台詞を遮った。黒崎はそんな彼を不機嫌そうに見やり、その表情だけで青年を黙らせる。
「あんたの指定する場所でいい。どこか、話ができる場所に移動しよう」
 黒崎はまた私に顔を向け、穏やかに微笑んだ。
 彼の言葉は提案であったが、私に拒否権などない、そう言いたげでもあった。
 私はこの時、全く思考能力が働いていなかった。だから、以前に秋葉に連れて行ってもらった店で、私を守ってくれると約束してくれた双子がいたことなど思い出しもしなかった。
 だから、どうやっても逃げられないのだと諦めつつ、彼に頷いて見せたのだった。


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