「健康的だねえ」
黒崎は私が指定したファミリーレストランの入り口で、そっと苦笑した。
私も馬鹿の一つ覚えと言うべきなのか、彼らのような人間ではない存在と一緒にいなくてはならない、という時は誰か他の人間の視線を欲するようだ。それは、彼らに対する牽制なのかもしれない。自分の身を守るために必要なことだ。
「正直、こういう場所は苦手だ。しかし、仕方ない」
黒崎はわずかに肩をすくめて見せた後、その場にいた他の吸血鬼たちを見回した。彼らの間に会話はなかったが、黒崎の意図したところは伝わったように見えた。
久住と呼ばれた男性だけが黒崎のそばに残ると、他の連中はファミリーレストランに入ることなく、その近辺に散っていった。おそらく、彼らは帰ったわけでないのだろう。きっと、我々を監視しているはずだ。
「三名様でいらっしゃいますか?」
ファミリーレストランに入ってすぐに、ウェイトレスの女性がにこやかに声をかけてくる。私の意識は店の外に向かっていたため、反応が遅れた。代わりに、久住が「はい」と応えた。幾分、緊張しているような声。私は我に返って二人の方を見たが、黒崎も久住も、私のことなどどうでもいいと言いたげに先に立ってウェイトレスの後に続いていた。
「奥に座……らないだろうな」
案内されたテーブルの前で、黒崎はちらりと私に視線を投げて言った。私は強ばった表情で彼を見つめ返し、小さく頷く。
「ま、逃げ道くらいは準備してやろう」
黒崎はそう言って自分から奥の方へと座り、その隣に久住。そして私は、彼らの向かい側に腰を下ろした。
「ご注文がお決まりになりましたらお呼び下さい」
ウェイトレスは黒崎と久住の方を見つめたままそう言って、どこか陶然としたような表情でその場を離れた。
「……と、まあ、女には困らない」
黒崎は低く笑って言う。「相手が人間に限ってだが、俺たちには『力』がある」
「……だろうな」
やっとの思いで出した声は、情けないことに掠れていた。私はそっと呼吸を繰り返し、いつもの自分のペースを取り戻そうと意識する。
「で、もう一度確認するが、お前はまだ秋葉の側の提供者ではないんだな?」
黒崎がそんな私を観察しながら話を切り出した。私はただ頷く。
「じゃあ、どこまで聞いている? 俺たちと秋葉たちとの関係は何だと聞いた?」
私はしばらくの間、この質問に答えていいのだろうかと悩んだ。私の返答次第では、秋葉たちに迷惑をかけてしまうことも考えられる。
だから、できるだけ困惑したような声をわざと作り、短く答える。
「詳しくは聞いていない。ただ、敵対していると」
「敵対、ねえ。まあ、注文を選べよ」
黒崎は唐突にメニュー表を私に突き出し、にやりと笑って見せた。私は今度こそ本気で困惑していたが、黙ってそれを受け取る。やがて、食欲がないままに注文を選び、ウェイトレスを呼んだ。
「人間って面倒だよな」
黒崎が相変わらず私を観察しているかのような視線を向けている。だが、だんだん最初に感じた恐怖にも近い緊張感は薄れてきている。それは、黒崎の笑顔が人なつこいものであったものも影響しているだろう。人好きのする笑顔、まさに彼の持っている魅力はそうだった。
反対に、その横に座っている久住の表情は終始強ばっていて、それは私にも少なからず影響していた。久住はおそらく、私に敵意しか抱いていない。それが直感で解るのだ。
黒崎はやがて乱暴に久住の頭をぐしゃぐしゃと掻き回し、にやりと笑う。久住は多少慌てて何か黒崎に言いかけたようだったが、すぐに唇を噛んで俯いた。
「悪いな、後でちゃんと躾けておく」
くくく、と笑う黒崎に向かって、久住が『失礼な』とでも言いたげな視線を投げた。だが、その唇は動かなかった。どことなく、諦めに似た色がその双眸には浮かんでいるのが見て取れる。
「お待たせいたしました」
やがて、そう明るく微笑みながらウェイトレスが運んできたのは、三人分の食事。しかし、ウェイトレスがどこか名残惜しげにその場を離れた後でさえ、私を含め誰も食事に手をつけようとはしなかった。
「敵対しているというのは、否定はしない」
そう、黒崎がさらりと本題に入ったからだ。
ファミリーレストランの中はちょうど夕食の時間ということもあって、たくさんの人が入っている。会話や笑い声、それを背後に聞きながら、黒崎は何でもないことを話すかのように続けた。
「お前も知っているかもしれないが、秋葉潤を殺しかけたのも事実だ。しかし、あれは本気ではなかった。俺は秋葉の奴ら……潤と姉、その腰巾着を殺すつもりなんてさらさらないし、あの姉の提供者にも手を出すつもりはない」
それは信用できるのかもしれない。
秋葉が弱っていなければ……、と確か久住も言っていたような気がする。
「俺たちの目的は別にある。それは、秋葉の奴らと我々が不仲になる理由の一つでもある」
「目的とは?」
私が戸惑いながらもそう訊くと、黒崎は小さくため息をこぼした。
「秋葉の連中は、どちらかというと戦うことを好まない一族だ。人間社会にいかに溶け込み、波風を立てずに暮らしていくか、それを重要視している。まあ、それが悪いこととは言わんが。秋葉の連中には、そういう生活を送るだけの力があるからな」
「力?」
「そう。肉体的にも、財力的にも、な」
私はただ眉を顰め、軽く首を傾げて見せる。黒崎は疲れたように前髪を掻き上げ、苦く笑う。
「お前がどこまで、秋葉の連中に我々の状況の説明を受けているのかは解らん。ただ、秋葉の血が持つ力は大きい。それだけ古い一族だからな。俺たちみたいに若い血の連中とは、比べものにもならない桁外れの力を持っているってわけだ。俺たちだって無作為に好き勝手にやっているわけじゃない。秋葉の連中は、俺たち……いや、俺が手当たり次第に仲間を増やして勢力を伸ばしていると考えているのかもしれんが、そうじゃない。こちらにはこちらの事情がある」
「事情とはなんだ?」
自分が踏み込んではいけない領域にまで達しているような気がしていたが、そう訊かずにはいられなかった。自分の現在の状況を把握するためにも……と、自分に言い聞かせていたが、ただ純粋に興味を惹かれたからなのかもしれない。
「お前は、この日本にどれだけの吸血鬼がいると思っている?」
黒崎はわずかに声を潜め、少しだけ身を乗り出して言った。「まさか、秋葉の一族と俺たちだけなんて思っているのか?」
「他にもいると?」
「当たり前だ。だが、秋葉の一族は我々に対しても人間に対しても無害に近い。問題は、他の連中だ」
どういうことだ。
私はただ無言で彼を見つめ、話の先を促した。
「この日本には、他にも秋葉の血と同じくらい強い血を持った奴らが存在する。そっちが厄介でな、ひどく好戦的だ。人間を狩るのも吸血鬼を狩るのも、同じことくらいにしか思っていない。奴らは強い連中には滅多に手を出さない。つまり、秋葉の一族には。しかし、我々のような弱い存在に対しては、狩りを楽しむ。人間を殺すよりも楽しいらしい。人間はヤワすぎるからな。
だから、俺たちは彼らに対する力を手に入れようとする。こちらの人数が少なければ、数で対抗しなくてはならない。だから、仲間を増やす。人間と契約を結んで、吸血鬼にする。……今、外で待っているような連中は、元は人間だったヤツがほとんどだ。でも、吸血鬼になれば寿命は延びる。肉体能力も上がる。悪いことではないだろう。ただ、敵が増えるというだけで」
「敵……。吸血鬼の敵は、吸血鬼ということか?」
「ま、人間は敵ではない」
黒崎が小さく声を上げて笑った。「でも、早い話がそうだ。俺たちの敵は吸血鬼だってことだ。争いごとを好まない秋葉の連中には、無縁の話だろう。でも、それはあいつらが安全な場所に立っているからだ。俺たちみたいに危険と隣り合わせの状態じゃないからな。だから、のうのうと暮らしていけるんだろう」
のうのうと……?
私は知らないうちに、険しい表情になっていたのかもしれない。
黒崎の話には納得できる点も確かにある。だが、秋葉たちに対する敵意は隠し切れていない。それが『危険』だと思った。
「俺たちは力が欲しいんだよ。解るか? 今のままじゃ生き延びることができない。だから、力が必要なんだ」
熱のこもる、彼の声。私はただ、黙って彼の言葉を聞いていた。どう反応したらいいのか解らなかった。
やがて、黒崎は言う。それはもう、驚くようなことを。
「お前、俺たちの仲間になれ」
「仲間?」
「提供者なんて立場じゃなくていい。仲間に……吸血鬼になれよ」
「無理だ」
私は即座に首を横に振った。
それは、相手が黒崎だから、というわけではない。たとえ秋葉に言われても、それだけはできない相談だと思ったからだ。
「なぜだ? 考える余地くらいあるだろう? 人間のままの生活がそんなに楽しいか? 俺たちの仲間になれば、世界が広がるぜ? 何でもできる。それこそ、何でも、だ」
「……秋葉たちにも私は言った。家族を捨てるわけにはいかない、と。だから」
「お前は秋葉の提供者でも何でもない。そして、吸血鬼にもならない?」
「そうだ」
「なあ、お前さ」
ふと、黒崎の双眸にきらめいた光。紅く染まる瞳。途端、全身が総毛立つ感覚。知らないうちに、私は息を止めていた。
「お前、知らないんだな」
くくく、と笑う彼。
そして、先ほどまで見せていた笑顔とは違う、ぞっとするかのような笑みが口元に浮かぶ。
「俺たち吸血鬼は、提供者には手を出さない。それが敵対している相手の提供者としても、だ。なぜなら、彼らは人間でありながら我々の味方になってくれている。そういう立場だから、俺たちは手を出さないルールになっている。でも、お前は違うんだよな?」
まずい、と思った。
私は何度も、自分が秋葉の提供者ではないと告げた。
それはつまり。
「俺たちに殺されても、はい、残念でした、で終わるな」
まるで喉の奥が張り付いてしまったかのようで、声が出せない。
その場から立ち上がることもできない。
「死にたくはないだろう? 別に、俺たちはお前を殺しても罪悪感なんてものは覚えない。なぜなら、提供者ではない人間は『餌』だからな」
「黒崎」
ふと、急に久住が口を挟んできた。黒崎の横で、ずっと黙り込んでいた彼。その彼が、黒崎と同じようにその瞳を紅く染めて薄く微笑んでいた。
「殺すなら、私に命じて下さい。どうせなら、私が」
「まあ、待て」
黒崎がそっと久住の腕を掴んで、そのまま自分のそばに引き寄せた。そして、黒崎は私を見つめたまま言った。
「死にたくないなら、協力しろ」
――何を、だ?
訊きたくても声が出せなかった。
しかし、黒崎はそんな私の状況もよく解っていると言いたげに笑う。
「お前は秋葉の家に入ったことがある。それは事実だ。だったら、何か知っているはずだ」
「……何を、だ」
やっとの思いで唇を動かす。すると、黒崎の手がこちらに伸びて、私の頬に触れた。
眩暈。
殺されるのかも知れない、と感じた。一気に冷えていく、自分の身体。
しかし、黒崎はその目を細め、瞳の色を黒くさせた。
「俺たちは力が欲しいと言った。力を手に入れるために、探しているんだよ」
だから、何を探している?
「……俺たち吸血鬼は、力の強い吸血鬼から血をもらうと強くなれる。だから、弱い吸血鬼には強いヤツは血を与えない」
黒崎は久住の腕を掴んでいたが、その力を強めたようだった。久住が痛みを覚えたように顔を顰めたが、黒崎は何とも思っていないらしかった。
「吸血鬼を提供者にすることはあっても、対象となるのは自分より弱い相手だけだ。強いヤツは弱い吸血鬼の提供者にはならない。当たり前だ、自分の力がそいつにも分けられてしまうからだ。それほど、吸血鬼の血による力というのは大きい。……だから、俺には必要なんだよ。今よりずっと強くなるために、秋葉の血が必要なんだ」
「秋葉の血?」
私が秋葉潤の顔を思い浮かべて唇を噛んだ時、思い出したのだ。そういえば、秋葉が言っていた。
命を狙われている、と。
秋葉潤ではなく、それは。
「秋葉の祖父を捜している」
黒崎はその表情からあらゆる感情を消し、低く囁いた。私の頬に触れたままだった彼の手がゆっくりと動き、私の喉にかけられる。じわじわと力が加えられ、いつでも私を殺せるのだと言いたげに。
そして私は身動き一つできずにいる。
「お前は秋葉の家に入った。そこで、何を見た? 秋葉の祖父はどこにいる?」
知らない、と言いたかった。
でも、声が出せない。
殺されるかもしれない恐怖。
しかし、それでも。
たとえ心当たりがあったとしても、絶対にそれだけは言えない。
でも、心当たりなど。
「そこ、ワインセラーなのよ」
台所のそば、廊下の突き当たり。
七瀬さんが言っていたのは。
もしかしたら。
「心当たり、あるらしいな?」
さらに、黒崎の顔が私に近づいてきた。何の感情もない瞳。ただ暗いだけの。
心臓が震える。今にも倒れそうなくらいに、自分の身体から力が抜けていく。
でも、駄目だ。それだけは駄目だ。
私は必死に首を振った。
掠れた声で、言葉を作り出す。
「たとえ知っていても、言えない」
「へえ?」
黒崎の手に、さらに力が込められていく。
誰か、目に留めてくれ。この場に人間はたくさんいるのに。誰か。
「どうして言えない?」
黒崎の短い問い。
私もまた、短く返した。
「世話になったからだ。その好意を裏切るのはできない」
「面白い」
ふと、黒崎が手を離した。
途端、楽になる呼吸。慌てて自分の手で喉を押さえ、辺りを見回す。こんな状況だというのに、誰も我々の様子のことなど目に入っていないようだ。談笑する家族、ドリンクバーに集まる人々。どうして誰も気づかない?
「秋葉の連中より、自分の命の方が大切だろ?」
「もちろん、命は大切だ」
私は黒崎を見つめることができなかった。おそらく、彼の眼を見てしまったら、また身動きすらできなくなるだろう。
「しかし、彼らの信頼を裏切るのはできない」
「信頼、信頼ねえ?」
やがて、黒崎が笑った。それは、人好きのするようなもの。まるで、先ほどのことなど何もなかったかのように。
「提供者でもないのに、珍しい男だ」
黒崎は乱暴に自分の頭を掻いた。それから、テーブルに置かれた伝票を取り上げ、久住に渡す。それを受けて、久住が支払いのためにレジへと向かった。
その場に残された我々はといえば。
「殺すには惜しいんだが」
黒崎が困ったように笑い、私を見つめ直す。まるで、冗談でも言っているかのような軽い口調。しかし、その声の裏には真剣な響きがあるのも聞き取れた。
「でも、仕方ない。こっちも話しすぎたからな」
本当に、殺されるのかもしれない。
私は先ほどの言葉を口にしたことを後悔した。
もっと、他に言い方があったのではないか。黒崎という男を騙して、この場を逃げることだってできたのではないか? そう、嘘をついて逃げればよかったのでは? 秋葉の祖父の場所を教えるとか、そんな嘘をついて。
「お前が我々の仲間にならない以上、お前を生かしておくメリットがないんだ。理解してくれるだろうな?」
理解なんてできない。できるはずがない。
眩暈。
死にたくなどない。当たり前だ、なぜこんな理由で死ななくてはならない?
理解などできない。納得もできない。
ならばどうすればいい?
仲間になると言えばいいのか?
やはり、秋葉たちの信頼など裏切って、言うべきだったのか?
しかし、それだけはどうしても。
その場でずっと俯いて考え込んでいた時、やっと私は思い出したのだ。
私を助けてくれると言ったあの双子のことを。
守ってくれると言った。名前は何といった?
「ミツル、アキラ」
確か、そういった。
私は茫然と呟き、ゆっくりと顔を上げた。
目の前にある黒崎の顔。
そして、会計を終えて戻ってくる久住の姿を視界の端に捉える。
「お前が話したくないっていうのなら仕方ない」
黒崎は穏やかに微笑んでいる。「でも、人間の口を割るのは簡単なんだぜ? そんなことも解らなかったなんて残念だな」
……おそらく、彼の言うとおりなんだろう。
多分、ただ殺されるわけではない。その前に、必要なことは全て聞き出すのだろう。どんな手段を使ってかは解らないが。
私はひどく他人事のようにそう思い、次第に冷えていく指先を感じていた。