その次の日は散々だった。
仕事を休むわけにはいかないから、本調子ではない身体のまま出社したものの、どうやら顔色の悪さは他の人間にも明らかであったらしい。
「蓮川、大丈夫か」
松下が朝一番で私に声をかけてくる。私は何とか笑って頷いて見せたものの、椅子に座るのも一苦労だった。その原因は考えたくもない。
「休めと言いたいところだが、忙しいからなあ、今」
松下はいつになく心配そうに眉をひそめていて、そんな彼を見るのは滅多にないことなので私は苦笑する。だがつまり、それだけひどい様子をしているということなのだな、と考えてため息をつく。
とりあえず、思い出したくもないことを忘れるために、仕事に集中した。だから、仕事をしている間だけは何とかなった。
問題は、休憩中、何もしていないときだ。
どうも、腹の調子がよくなくて、食欲もなかった。だから、自販機でスポーツドリンクだけ買って飲んでいると、松下がまた声をかけてくる。
「食欲なさそうだな、風邪か?」
「……多分な」
私はただそう応え、肩をすくめる。そして、気を遣うような視線を投げてくる彼に向かって笑いかける。余計な心配はかけたくない。というか、質問されても応えられそうにないからだ。
いつものように弁当を取り出して食べ始めた彼を見てから、私は今日の朝、コンビニで買ってきた雑誌を取り出して読み始めた。しかし、どうやっても頭の中に入ってこない。
やがて私は躊躇いつつも松下にこう訊いた。
「吸血鬼っていると思うか?」
「吸血鬼? 何をいきなり」
松下は呆れたように笑い、首を傾げる。それから、食事の合間にこう応える。
「そういやテレビで見たことがあるな。アメリカだかどこだかで、友人の血をもらって生活してる女性がいるとかいうやつ」
「血をもらって?」
私が眉をひそめると、松下は弁当箱の中に入っていたコロッケをつつきつつ頷く。
「何だか、血を吸わないと気分が悪くなるとかいう話でさ。そういう病気なんじゃないのかね。血に含まれる物質がその人間の欠落してる栄養素を補うとか何とか、そういうことじゃねえ? 体質の問題だよ。それにその子、昼間の太陽の光は、色素の薄い瞳には悪いみたいで、サングラスで外出してたな。でもそれって、外国人の色素の薄い目だったらサングラスをかけるのなんか当たり前だし。だいたい、この世の中、土を食ったり蠍を食ったり芋虫を食ったりしてる民族がいるわけだし、血くらいよくある話だと思うけどな」
「血くらい、ね」
私はただ彼を見つめていると、松下はふと興味を惹かれたように私を見つめ直した。
「蓮川って、こういう話に興味あるのか?」
「こういう話……」
「もともと、吸血鬼ってアレだろ。串刺し公、ブラド・ツェペシュ、だったかがモデルだろ」
「ああ……そういう話は聞いたことがある」
「敵のトルコ兵を追い払うために、そいつらが進軍してくる道に二万人だかのトルコ人の串刺しにした死体を並べ……って、こんなの昼時にする話じゃねえなあ」
松下が苦笑して、私もつい笑ってしまう。
確かにその通りだ。
しかし、私は躊躇いながらもさらに言った。
「伝染病だという一説もあるよな。それを人間化……いや、恐怖の形として『吸血鬼』としたとか。ペストだか、マラリアだかが元になっているという説。マラリアは血を吸う蚊を通して感染するから、あながち吸血鬼という呼び方も間違いでもないか」
「うーん、まあ、人間って形のないものよりも形があったもののほうが安心できるからなあ。わざとそういう名前と形を与えたのかもしれないけど」
松下はそう言いながらも、怪訝そうに私を見つめていた。明らかに、こんな話をしている私を訝しがっている視線だった。
「いや、何となく急に気になって」
私が慌ててそう言うと、松下はあまり納得した様子も見せずに肩をすくめる。
「まあなあ、吸血鬼って不老不死、というイメージがあるし、興味を惹かれるものかもしれないけど……ちょっと意外だな。蓮川、もっと現実的なものにだけ興味があるのかと思ってた」
「現実的ね」
私は困惑して首を傾げた。
何が現実的で何がそうでないのか、今の私にはよく解らない。
「そういや、串刺し公だけじゃねえな。他にもモデルだと言われてる人間がいたっけ」
松下がふと思いついたように続ける。「エリザベート・バートリ。若い娘の生き血を絞って、その血の風呂に入って若返ろうとした女とか。子供ばっかり殺した青髭ジル・ド・レエ。どれが本当のモデルなんだか解らないけどな」
「……詳しいな」
私が感心したように彼を見つめ直していると、松下はぼりぼりと頭を掻いた。
「勉強に役立たない知識には興味ある。雑学王と呼んでくれ」
「じゃあ、雑学王」
私は冗談に聞こえるように彼に言った。「本当に吸血鬼が存在したら、その退治方法はどうする?」
「本当にねえ」
松下は机に頬杖をついて考える。「本物、本物。つまり、ブラム・ストーカーの小説みたいな、もしくはコッポラの映画みたいなやつか」
「……まあ、そういうことになる」
「お前も知ってるだろうけど、ニンニクとか十字架とかその他色々あるだろうけど、本当に吸血鬼がいるわけじゃないから、試すことはできないだろ」
試すことは……できるだろう。
私は松下の言葉に頷きながらも、内心ではそう考えていた。
もしも、またあの少年がきたら、どうすればいい? だが、撃退しようとして色々やったとしても、もし効かなかった場合はどうすればいいのか。
「なあ、本当に何があったわけ?」
松下が黙り込んでしまった私を見つめていて、興味津々といった様子で笑っている。私は慌てて首を振った。
「いや、別に」
「そうかなあ。どうも、いつもの蓮川じゃねえなあ」
「いつものと言われても」
私は苦笑する。しかし、松下はさらにニヤリと笑って続けた。
「だって、こんな話に興味を持つなんておかしすぎるだろ。まさか、その首のキスマークも吸血鬼にやられたとか言うんじゃねえだろうな?」
しまった、と思うと同時に、私は慌てて首筋を手で押さえていた。キスマークなんかついていたのか、という冷や汗と、もしかしたら噛み跡じゃないのかという不安、そしてどこについているんだ、という疑問に混乱して立ち上がる。
「おい、蓮川」
松下が私の手を取って、意味ありげに囁く。「相手はさやかさんじゃないよな?」
私が口ごもっていると、彼はくすくす笑って続けた。
「そりゃ男だもんな、やるときはやるよな」
「いや、これは」
私は何て応えたらいいのか解らず、ただ黙ってトイレに駆け込んだ。壁に取り付けられていた鏡の前に立ち、シャツの襟から少しだけ覗いている『それ』を見つけてため息をつく。
噛み傷じゃない。
確かにキスマークだと思う。
私は虚脱した表情でそれを見つめ、やがて髪の毛を乱暴に掻き回して呟いた。
「早く消えてくれ」
それから数日間は、仕事が忙しかったからかあの少年のことはできるだけ考えずにいられた。だが、風呂に入るたびに目にはいるのは、下腹部に近いところにある噛み傷。着替えるたびに気になるのは、鎖骨の辺りにもつけられた傷跡が服装に寄っては誰かに見えてしまうのではないか、ということ。
それに、アパートに一人きりでいるときには、どこを見てもあの夜のことを思いだしてうんざりする。
そして、ふと思うのだ。
吸血鬼。伝染病。その類似点。
吸血鬼に噛まれた者は、吸血鬼になるという話。それは、病原菌によって死が伝わるからそういう話になった、という説もあったはずだ。
じゃあ、私はどうなのだろう?
少年に数度、噛まれてしまった私は? 吸血鬼になったりするのだろうか。それとも、何か本当に変な病気になったりするのだろうか。
数日後、噛み傷が塞がってくると、私はだんだん不安になってきた。
病院にいくべきだろうか。しかし、その場合、何て説明するのだ。吸血鬼に噛まれたから、診断してください、とは言えまい。
私のため息の数はどんどん増えていく。
しかし、仕事が忙しいから病院の件は後回しにしていて。
だが、「またくるよ」と言っていた彼の姿が見えないことだけがありがたく、このままこれが続いてくれないかと願っていたのも確かだった。このまま接触さえされなければ、忘れられるかもしれない。そんな楽観的な考えも出てきていた。
しかし。
それからしばらく経って、仕事が終わって自分のアパートに歩いていたとき、自分のアパートの部屋の前に立っている彼の姿を発見するのだ。
反射的に、私は身を翻していた。
とにかく、彼とはもう顔を合わせたくない。彼がいなくなるまで、どこかの店に寄るのもいい。たとえばインターネットカフェとか。駅前に二十四時間営業の店があったはずだ。
私はできるだけ足音を立てないように、元きた道を戻る。
しかし。
「どこいくのかな、お兄さん」
突然、彼が私の目の前に現れたのだ。足音すら聞こえなかった。なぜ、アパートの前にいた彼がここに?
私は一瞬だけ身体を強ばらせて彼を見つめた後、短く応える。
「もう二度とこないでくれと言ったはずだ」
「何で?」
そう言った彼は無邪気な笑顔を見せている。そうやって笑っていると、どこにでもいる高校生ぐらいにしか思えない。それなのに、どこか普通の人間ではないのだという気配も感じる。どこが、と問われてもうまくは説明できないのだが。
「冷たいよね、せっかく会いにきたのに」
少年がふと、私の隣に滑り込んできて私の腕を掴む。その手に込められた力は、その笑顔とは裏腹にひどく強く、そして冷たく感じた。
「放してくれ」
私はできるだけ無表情のままそう言う。しかし、彼は気にした様子もない。
「部屋に上げてよ」
「断る」
「何で?」
何でと言われても、その理由は。
「別にいいじゃん。だって、よかっただろ? 前回も」
それを聞いて、心臓が厭な音を立てた。彼のその口調から、今日、彼がここにやってきた理由が予想できる。絶対にそれだけは避けなくては。
「君の存在は、迷惑でしかない」
やがて、私は静かに言った。「それに、体調が悪いので休みたい」
「体調が悪い?」
彼は少しだけ眉を顰めてみせる。「俺、手加減したけどな」
「とにかく、帰ってくれ」
私はそう言って彼の手をふりほどこうとした。しかし、少年は肩をすくめてこう言った。
「じゃあ、どこか食事にでもいく? 近くにレストランあったよね」
どういう思考回路をしてるんだ。
私は呆れて彼を見つめる。そして、深くため息をこぼす。すると、彼が笑いながら続けた。
「飯を食いながらゆっくり話そうよ。そういや、寝たのに自己紹介もしてないや」
「必要ない。もう二度と会わないのなら、名前など知らないほうが」
「お兄さん、俺、あんまり辛抱強いほうじゃないよ」
ふと、少年の瞳が鋭く光ったと思う。
辺りは街灯はあるものの、夜道である。それなのに、彼の瞳に赤い光が灯る。それは、人間ではあり得ない輝き。
「あんまりごちゃごちゃ言われると、無理矢理アパートに連れ戻したくなるなあ。もちろん、やることはやらせてもらうけど」
私は不安に駆られて彼を見つめ直す。そんな私の顔を見て満足したのか、彼は破顔して私の手を引いて歩き出した。
「せっかくだから、質問とかあるなら受け付けるよ」
彼は明るくそう言って、駅の近くのレストランの中に私を引っ張り込んだ。