第一話(2)

スギルは濃い闇の中で目覚めた。
どんなに目を眇めても何も見えない。そのうち目を開けているのかさえ怪しくなってくる。
じっとりと、湿った重い空気が皮膚にまとわりつく。
なぜ、自分はこんなところにいるのだろう。
弟のキタルのために、お弁当を届けにきて、何か変な生き物を見てしまって、サーカスにいるみたいな格好の男の人が出てきて……。
わからない。なんで僕はこんなところにいるんだろう。
と、暗闇の中に、誰かの気配を感じた。
「だ、誰?」
淡い光が、暗闇の中にボンヤリと男を浮かび上がらせた。光とは言うものの、それはとても頼りなく、むしろ闇の濃さを強調する。
スギルの目には、男は闇を身に纏っているように映った。
「トリスタンが連れてきた贄か」
男がスギルに近づいてきた。それにつれて、すぅっと周りの温度が冷えていくように思われた。
おぼろげに見えていた男の顔が、はっきりと見えてくる。雪のように白い肌に銀の長い髪。切れ長の目は、冴え冴えと冷たい輝きを宿している。
きれいな人だ、スギルは思った。
「名はなんと言う?」
低く玲瓏な声が、スギルの胸で甘く響いた。半ば恍惚としながら、スギルは問われるままに名乗った。
「スギル、私はルシード。闇を統べる者だ」
「闇を……」
スギルは納得した。
目の前の男は、確かにそんな風格を漂わせている。
「光の者との戦いで私の肉体は滅んだ。今はこの闇の空間でしか実体を保てない」
ルシードはすっと手を伸ばした。スギルの頬に触れた手は、ひどく冷たい。
「お前は美しい。それに、この星の人間にしては、力があるようだ。我が器に、ふさわしい」
「器って、何ですか……?」
「私の魂が、お前の中に入るということだよ」
「僕の、中に?」
ルシードはゆっくりと顔を近づけてきた。ヒヤリとした感触が一瞬唇に触れる。
「や、やだっ!」
スギルは反射的にルシードを突き飛ばした。
「すみません。あ、あの。僕、その……」
ルシードは口元だけで笑った。
「いや、こちらこそすまない。獲物はしっかり繋いでおかなくてはいけないことを忘れていた」
「獲物?」
「デッド・クリムゾン」
ルシードが呟く。
赤く、長いものが闇の中から伸びてきて、スギルの手首や足首に絡みついた。
「ひっ」
よく見ると、それは血の色をした長い腕だった。スギルは逃れようと身をよじる。
が、ぎっちりと拘束されて、動けない。
「いやっ……! 助けて、キタル!」
「キタルとは愛しい者の名か?」
揶揄するようにルシードが哂う。スギルの頬が朱に染まった。
「違っ……!」
「そうか。まあ、私には関わりのないことだな」
「や、放してっ」
「抵抗する獲物も嫌いではないが……少し力を吸ってやろう」
皮膚を這う赤い腕が、今度はギリギリとスギルの体を締め付け始めた。
「く、うぁ……っ、痛ぁ……」
赤い腕を振り払おうとしても、拘束された部分から力が抜けていって抵抗できない。
「キ、タ……ルっ……キタ……ル、ぅ」
スギルの目から涙が零れ落ちた。
「それほど、愛しいか。ならば、最後の思い出に会わせてやろう」
「え……」
ルシードが掌を自分の顔の前にかざした。
「ポイズンド・ナイトメア」
掌がゆっくり外される。徐々に現れるその顔に、キタルは息を呑んだ。
ややつりあがり気味の、意志の強そうな目。
健康的に日焼けした肌。
それは、間違いようもなく。
「キ……タル」
抵抗する気が一気に失せた。
「流石に、大人しくなったな」
キタル――いや、キタルの姿をしたルシードはスギルの顎を掴んだ。
ゆっくり唇をなぞる。
「……っ」
抵抗できるはずがない。それどころか、心の奥がどうしようもなく悦んでいた。
「お前の体が欲しい」
吐息さえ感じそうな距離で、ルシードが囁いた。寒気がするほど優しく、ずっと焦がれてきたキタルの声で。
違う、これはキタルじゃない。
わかっていても、突き放すことができなかった。
「ぁ……」
花がほころぶように、スギルの唇が開いていく。ルシードは顔を離し、笑みを深くした。
「いい子だ」
仰のいたスギルの口に、ルシードは深く口付けた。
触れ合った唇から、何か冷たいものが入ってくる。スギルはその塊を嚥下した。
キタルには、もう会えないのだろうという予感がした。


3年1組の教室からは、昇降口のあたりが良く見える。
スギルがいなくなって5日。
キタルは、親しい友人や水泳部の後輩にも手伝ってもらって、その日部活や模試で学校に来ていた連中にはだいたい話を聞いた。
学校の外周を走っていた陸上部の2年生が、昇降口に入っていくスギルらしい人物を見たという話が、唯一それらしい目撃情報。
何も手がかりがないのと、ほとんど変わらなかった。
キタルには、この5日で、授業中でも昇降口周辺に目を配る癖ができた。
その男が姿を現したのは、4時間目の英語の時間だった。
授業もなんとなく聞いていたし、一瞬たりとも目を離さなかったわけではなかったので、自信がなかったが、その男は突然そこに出現したように思われた。
夏だというのに、真っ黒いロングコートを着ている。
何だ、この季節に。
もしかして不審者?とキタルは背中を緊張させた。流暢に教科書を音読するカワグッティ――英語教師――に知らせなくては、と思ったそのときだった。
男は優雅な仕草でその場に膝を折り、掌を地面につけた。
そして次の瞬間。
「うわっ」
男の掌から、光が迸った。
「どうしたの、ミスター・フクヤマ」
奇声を発したキタルに、教師が咎めるように声をかける。
「カワグッティ、あれ、たぶん不審者」
「え、不審者?」
若い女教師は顔をこわばらせた。教室がざわめく。
「どこ?」
「ほら、あれ。黒いコート着てしゃがみこんでる」
「え……?」
カワグッティは窓の外を見やって、困惑したようにキタルを見た。
「誰もいないけど」
「ほら、あいつだよ!」
キタルが真顔で指差すと、彼女は眉を寄せた。「誰もいないわよ」
「福山、マジでなんか見えてんの?」
隣の席の少女が心配そうにキタルを見た。
「お前も見えないの?」
「うん」
少女の目には、キタルを哀れむような色があった。
「福山、疲れてるんだって。保健室行って休んだほうがいいよ」
「そうそう、お兄さんのこと、気にしすぎてるんだって」
「いやいやいや。だってあんなはっきり見えてるんだぜ?」
キタルは首を振った。
男は相変わらずしゃがみこんで、何かをしている。
暑苦しい黒いコート、幻や錯覚の類なら、こんなにはっきり見えるはずがない。
キタルはがらりと窓を開けた。
「ちょっとー、そこで何してるんですかー?」
クラスの空気が凍りついたが、キタルは気にせずに、男に話しかけた。
男はぎくりと顔を上げた。
目が合う。
ほら、やっぱり錯覚じゃないじゃないか。錯覚なら、目が合うはずないだろう。
が、男が発した言葉はキタルの自信を打ち砕くものだった。
「え……君、僕が見えるの?」
「え?」
この男まで何を言うんだろう。
もしかして、見えないのが普通なの? いや、この男が自分の疲れた脳が生み出した幻だというのなら、その幻にまで否定されるってのはどうなんだ。
キタルの脳がグルグル混乱しはじめるのをよそに、その男はいかにも嬉しそうな声で、わけのわからないことを言い出した。
「ちょっと、え、ほんとに? ってことは、君、戦士?
 これはまた、来た早々ついてますねー」
「せ、戦士?」
クラスの空気がさらに冷えた。が、もはやキタルにはそれを感じる余裕すらない。男は興奮した口調でまくし立てる。
「ええとね、闇の連中と戦う戦士。話せば長くなってしまうんだけど、僕らの世界を危機に陥れた闇の連中が、僕のミスでこの世界に来てしまったんですよ。で、父上がこっちの世界の戦士と力をあわせて闇の連中を元の世界に戻すようにって」
「や、闇の連中?」
「おい、福山!」
我慢ができなくなったクラスメートの一人がキタルの肩を掴んで、引き寄せた。
「福山、お前、誰と喋ってんだよ」
「だーかーらー、あの黒いロングコートの人だって」
「いねーよ、そんなヤツ!」
「いるってば! さっきから何か戦士とか闇の連中と戦うとか、ヤバイこと言ってるじゃん!」
「ヤバイのはお前だ!」
「俺はヤバくない。ほら、あんたからもなんか言ってくれよ!」
肩をがくがく揺さぶられながら、キタルは男に向かって叫んだ。
が、男は申し訳なさそうに頭を掻いて、
「僕の姿なんですが、彼らには見えませんよ。君が例外なんです」
キタルの目の前が、一瞬真っ白になった。
「じゃあ俺がおかしいヤツみたいじゃんか!」
「ああ、そうだよ。おまえがおかしいんだよ。いいから保健室で休め!」
「すみません。つい仲間を見つけて嬉しくて、周りの目を気にせずに話してしまいました。場所を変えて話しませんか?」
クラスメートと男が同時に言う。
うう。頭痛がする。
「……わかった、保健室に行くよ」
付き添うというクラスメートを気弱な微笑で断って、キタルは保健室へ足を向けた。

次回予告
もー何なんだよ。
わけわかんねーよ。
俺は一体何に巻き込まれてるんだ?

BYキタル



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