11

 結局あの後すぐ、令は静奈の運転する車で学校まで連れてこられた。
 校門に入るあたりからクラスの知り合いに姿を見られるのではと内心ひどく緊張していた令だったが、職員玄関からほとんど生徒の来ない職員区画を歩いたため、その心配は杞憂に終わった。
 堂々と廊下を歩く姉の後ろを隠れるように令はついて行く。そしてその足は校舎1階の一番奥の部屋、入学当初の学校案内以外では近寄ったこともない校長室の前で止まった。
 静奈がノックをすると、中から慌てたようにどうぞという返事が返ってくる。
 躊躇いもなく扉を開け中に入る静奈だったが、令は思わず躊躇ってしまう。
 −だ、大丈夫なのかな……この姿で……−
 とはいえ今すぐ踵を反して立ち去るわけにもいかない。令は結局恐る恐る部屋に入った。
「や、やぁ……三木原君、その…まあ元気そうで……なんだ、その…」
「お久しぶりですね校長。あら校長ったら、顔色があまり良くありませんわね。どうしました?」
 部屋に入るなりまず目に入ったのは、露骨に姉に脅える校長がなんとか笑顔を必死に保ちつつ
 額の汗をあくせくと拭く姿、そしてそれを確信犯で楽しんでいる姉の姿だった。
 −やっぱり何かあるんだろうな…校長も可哀想に−
 傍から見ても絶対に立場が逆な元生徒と教師、特に校長の慌てぶりは半端ではない。
 何があるのかはわからないが、少なくとも今の静奈に校長が逆らえる立場にないのは確かなようだ。
「あ、あのぅ……で、そちらのお嬢さんが先ほど電話で言っていた……?」
 突然自分の方に話が向けられ令はどきりとする。が、それは不信や怪訝の類ではない。
「ええ、私や弟の従姉妹にあたる三木原・”麗”ですわ。読みは同じ”レイ”なんですけどね。」
「あぁ、そうですか……それはまた喜ばしい事で、その、あの……」
 いったい校長は何がどう喜ばしいのか理解できないが、令はようやく姉の企みを理解した。
 つまり、今の令は架空の従姉妹「三木原・麗」という存在なのだ。確かに容姿が似た別性となると、まず思い付くのは親族である。とはいえ姉妹というのは身近すぎて言い訳に都合が悪い。
「しかしこの時期に交換学生交流とは……あと先方の学校への報告は……?」
「校長、全て私の方で済ませているのですから余計な詮索は無用ですわ。それとも何ですか? 私のやった仕事が先方に対する不備や失礼があった可能性があるとでも?」
「い、いや!! 決してそのような事は……わ、わかった。えっと……麗さん、だったね?」
「は、はい。」
「3−Cの三木原君との交換交流の件、了承しました。書類などは後々揃えるので、今日はこのまま授業を受けて下さって結構ですよ。」
 どうやらすんなりと話は”令と麗”の入れ替えで済んでしまったらしい。つまり令は交流学生、期間限定の転校生的扱いというわけだ。当面の言い訳としては悪くないだろう。
 しかし令との交換という事は、この姿を元々のクラスメイトに晒すという事である。
 いくら建前上別人物だとはいえ、これは穏やかに済みそうにはない。
「じゃあ校長、私は帰りますけど、”レイ”の事よろしくお願いしますわね。」
「あ、ああ……了解した。」
 事が済んだら静奈はもう必要ないと言わんばかりに早々と部屋から出ていった。
 その扉が締まった途端、校長は露骨に安堵の溜息をつく。
「ああどうして三木原君はこう……いや、今回はまだ良いのかもしれんが……」
 校長は露骨に姉の事で頭を抱えていた。見ていて雰囲気でこちらまで胃が痛くなりそうな感じだ。
「あの……校長先生?」
「……ああ、済まなかったね。ちょっと君の従姉妹の姉には色々……まあここで言う事ではない。
 取りあえず今からなら午後一番の授業に間に合うから、担任に案内させよう。」
 校長はインターホンで職員室と連絡を取り、聞き覚えのある先生の名前を呼んでいた。
 歴史教師で定年直前のアダ名が「長老」と付けられた令の担任、蘇我部である。
 年齢より遥かに見た目老けているその担任は、しばらくしてから校長室に入ってきた後、何の疑問も持たずに令に挨拶をした。まあ確かに従姉妹という説明であれば容姿の似ている事
 は疑いなどではなく逆に証明にすらなってしまう。ともすればその態度はもっともだ。
 令はそのまま蘇我部に実はとっくに知っている自分の教室に案内され、入り口の前まで来た。
 もう午後の授業の直前なので生徒は皆教室の中だったが、令の心臓はいまにもはち切れそうなぐらい緊張している。先に蘇我部が入り、しばらくして……名前が呼ばれた。
 扉に手をかけようとして、令は自身の手がえらく震えている事に気が付いた。
 手のひらには汗まで滲んでいる。本当に大丈夫なのかと、あらゆる嫌な可能性が脳裏を掠める。
 が、ずっとそうしている訳にはいかなかった。頭をぶんぶんと振って不安をかき消し、思い切って扉を開け教室に入る。その瞬間、教室中から声が上がった。
 −あわわわわゎ……も、もしかして−
 バレた? と令はいよいよ心臓が破裂しそうな緊張を覚えた。だがすぐにその声がその主の色を含んでいない事に気が付く。どちらかといえばそれは歓喜のだ。
「おぉ〜、結構可愛いじゃん!」
「わぁ、本当に三木原君にそっくり……って、失礼かなコレ?」
 クラス中から好奇の眼差しで見られてはいるが、それは決して悪い意味を含んではいなかった。
 それを知ってなんとか落ち付いてきた令は、ゆっくりと教壇上に上がる。
 蘇我部が黒板に”最後の一文字だけ違う”令の名前をチョークで書いた。
「あ〜…という訳で、三木原君は急遽交換学生で御両親のいる北海道に行く事になり、代わりに従姉妹の同じく三木原さんが来る事になったそうです。ま、短い間ですし、同じ三木原さんなので皆さんも仲良くしてあげて下さい。」
 では、と蘇我部が令に挨拶を促す。改めて教室を見まわすと、そこには当然ながら見知った面々の顔があった。すでに認知済みの者への自己紹介という事実に、令は実に妙な違和感を感じる。
 普段の自分には絶対向けられない好奇や興味の視線。だがそれゆえ令は覚悟がついた。
「えっと……初めまして、三木原と言います。名前が従兄弟の令と読みが同じ”レイ”で混乱するかもしれませんけど……よろしくお願いします。」
 想像以上にスラスラと言葉を並べる事ができ、令は内心で安堵する。皆から微かに歓声が上がった。
「席は元々三木原の座っていた席でいいか。じゃ、みんな授業の準備があるだろうからこれでいいぞ。」
 が、そんな安堵も束の間、蘇我部の言葉に皆が慌しく動き始めた。
 何事かと思い蘇我部に声をかけると、蘇我部はああそうかと言う感じでクラスに目を移し手招きをする。
「……杉島! 三木原さんは初めてで大変だろうから、色々教えてあげなさい。」
「あ……はい! わかりました。」
 蘇我部が声をかけたのはクラスの誇る女子ソフトボール部のエース、杉島瑞稀(みづき)だ。
 容姿も中身も人並み以上の彼女は実質クラスのまとめ役で、男女ともに慕われ人望も厚い。
 まあ本来のまとめ役であるクラス委員長が立候補が誰も出ないため推薦で無理矢理決められたやる気のない級友だったという事もあるのだが、それは結果論にすぎない。
 綺麗な顔立ちでスタイルも良く、面倒見もいいので他のクラスや下級生にもファンは多かった。
 長い髪をポニーテールでまとめたその姿に引かれる男子も多いのだが、彼女と友人以上の関係を掴めたものがいたという話は聞かない。そんな中でも令は結構親しい部類の友人の一人だったと言えたが、今は建前上”見知ったばかりの他人”である。が……
「三木原さん? 私、杉島瑞稀。わからない事があったら遠慮なく聞いて頂戴ね。」
 瑞稀は”令”に対してとまったく変わらぬ笑顔で語りかけてきた。それは彼女の持った性格故なのだろうが、今の令にはそれが何故かどうしようもないぐらい嬉しかった。
「あ、ありがとう杉島さん。こちらこそ……」
「瑞稀でいいわ。堅苦しいし。」
「え!? あ……その……」
 唐突な瑞稀の提案に、令は悲しい男当時の心の葛藤で言葉に詰る。なにせこのクラスで彼女をファーストネームで呼べる男は存在せず、へたにそんな事をしようものなら他の男子に放課後袋叩きにされかねなかった。しかし今は女だからそんな心配もないはずなのだが……やはりある種の気恥かしさと照れがあった。が、令はその嬉しい誤算を享受する事にする。
「えっと……瑞稀…さん。その、よろしく……」
「うん、よろしく! じゃ、とりあえず次の授業の支度をしないと遅れちゃうわ。急いで。」
「そう言えば……みんな、どうしたの? 教室から鞄を持って出て……ってこれ……!」
 そこまできて令はようやくその行動が何の授業の前触れだったかを思い出した。
 たった一日で今日の時間割を失念していた自身の迂闊さを呪う。皆が教室を出るのは着替えの為であり、皆のスポーツ鞄には運動に必要な着替えが入っている。つまり次の授業は体育なのだ。
 そしてこの時期の体育は男子が陸上、そして女子が……
「次は体育なのよ。更衣室まで案内してあげるから、急ぎましょう。」
「あ、あの、瑞稀さん? その……次の体育って何を?」
 わかってはいても聞かずにおれない質問。とはいえこれがかえって”転校生の麗”を演出した事には令自身何の意識もなかった。瑞稀は嫌な顔一つせず笑顔で答える。
「水泳よ。ウチのプールって結構新しいから楽しいわよ。」
 わかっていたのに聞いた質問、当然答えも予想通り。令の頭に悪夢がよぎる。
「そ…その、ぼ…わ、私、水着持ってきてないから……えっと、その……」
「大丈夫よ、私の予備を貸してあげるから。ほら、みんなもう行っちゃたわ。」
「いやその……あぁ、ちょっと引っ張らないで!」
 瑞稀は躊躇する令の手を掴むとそのまま走り出した。とんでもない不安と微かな期待を胸に、令は引きずられるように瑞稀の後をついていった。

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