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「何が『どうして?』なのかな?」
 龍鬼は、あいかわらず優しげな――綺麗な笑顔をうかべている。
「……え…」
 心は反射的に「どうして、やめたの?」などと言ってしまいそうになり、慌てて言葉を飲み込んだ。
 これでは――こんな言い方をしたら、まるでもっと続けて欲しいと思っているみたいに――続きを『おねだり』しているみたいに聞こえてしまうではないか。
 何と言ったらよいものか……少し考え、「…ええと、あの、どうして、どうして、お口で…その、なめたりしたの? きたないです」
 なるべく誤解を受けることのなさそうな、それでいて、龍鬼への『非難』が込められた質問をする。
「汚い? そんなこと、あるわけないよ。心が汚いなんて、あり得ない。心は、とっても綺麗だよ」
「そうじゃないです。そうじゃなくて…不潔です。きのうは、お風呂に入ってないのに……」
「心の言いたい事は分かっているよ。だから大丈夫。それに心は昨日、きちんとお風呂に入ったからね。
僕が全部、身体のすみずみまで綺麗にしたから」
「え……」
 心は絶句し、ほんの一瞬で、耳たぶまで真っ赤に染まっていく。
「……見た?」
「うん」
「ぜんぶ?」
「うん」
「さわった…の?」
「うん、もちろん。そうしないと洗えないからね」
 恨めしそうな心の視線を気にも留めていない様子で、龍鬼は答える。
「でも、でも……お風呂に入ったからって、なんでおしっこの……なめたりするの?」
「見た目や匂いだけだと、良く分からないから――きちんと綺麗になったのか、確かめたかったからだよ」
「だけど! だけど…どうして? なめたって、分かるわけないのに」
「それなら大丈夫。昨日のうちに確かめておいたから、心の味はちゃんと分かるもの」
「…………」
「心? どこか痛むの?」
 うつむいたままの心に、龍鬼は見当違いな言葉をかける。
 彼には心を困らせているつもりなど、最初からまったくないのかもしれない。
 けれどそんなことは、やられる側にしてみれば、わざとであろうがなかろうが、どちらであっても同じだ。
 大体この様子では、気を失っている間に何をされたのか分かったものではない。
 恥ずかしくて、悔しくて――心はどうすることもできず、ただ苛立ちだけが募っていく。

「……きらい」
「え?」
「たつきの、ばか。きらい」
 せめてもの抵抗として、心は子供のように拗ねはじめる。
 いや、抵抗という言葉は正しいとは言えない。精神状態が幼い子供に『戻って』いる心にしてみれば、駆け引き云々など考えられようはずもなく、素直なこころの動きにしたがったまでのことなのだ。
「そんな――僕は、心配だったから」
「だからって、いたずらばっかり……いじわるです。だから、きらい。だから、たつきはきらいです」
 泣いたままの顔で、心は龍鬼を睨む。
 そこには、迫力など欠片とて存在していない。
 見る者に微笑ましさを感じさせ、愛しさを掻き立てるだけの姿だ。
「違うよ、違うんだ――悪戯なんて…ただ、ただ僕は――」
 しかし、心の「きらい」は、龍鬼にとって思いのほか衝撃の大きなものであるらしい。
 滑稽に見えるほどうろたえている。
「僕は、君が心配で……もし何かあったら…怖かったんだ」
「心配だからって、知らないうちにいたずらするなんて……男らしくないです! そんな人は、きらい!」
「違う! 違うんだ。お願い、信じておくれ……悪戯なんて、絶対にしていないよ」
 龍鬼は必死に弁明する。
「ほんとうに?」
「本当だよ――悪戯はしていない」
「でも、さわったのでしょう? 見たのでしょう?」
「それは……それは、その…お風呂に入れただけで……」
「男なら、はっきりしてください! 見て、さわったのでしょう?」
「あ……う、うん、あの……はい、見ました。見て、触りました」
「ほら! やっぱり、いたずらしたんですね?」
「――だけど、それは」
 心は、龍鬼のうろたえる様子がだんだん可笑しくなってきていた。
 自分が「きらい」というだけで、龍鬼はこんなにも慌てて、必死に弁解しようとする。
(もっと……もっと)
 龍鬼を困らせてみたい――そんな気がしてくる。
 わがままを言ったり、悪戯や意地悪をして相手を困らせるという行動は、ある意味で相手に甘えているということだ。
 特に幼い子供である場合は、その傾向が強い。相手の『愛情』を試そうとするからかもしれない。
 つまり、心は自分でも気付かぬうちに、龍鬼への警戒を解いてしまっているのだ。
「見たのも、触ったことも、それは心の身体に異常が無いか調べるためで――綺麗に洗うためで、だから悪戯なんかとは違うんだ――悪戯なんて、決して」
「うそつき」
 龍鬼の言葉を遮って、心は続ける。
「いたずらしたくせに……なめたりして…ひどいです、きらい」
「それは……ごめん。ごめんなさい。心、許しておくれ」
 龍鬼は心の肩を抱いて、すがりつくように顔を寄せてくる。
 キスをする気らしい。侘びのつもりか、はたまた、心の好きな『美味しい』キスで気を逸らして、誤魔化してしまうつもりだろうか。
 ――しかし、「いや!!」
 心は、両手で思い切り龍鬼の顔を押し退けた。
「そんな、そんな汚いお口でちゅうしないで!」
「心…?」
 きっぱりと拒絶されて、龍鬼は唖然としている。
 考えてみれば、昨日、彼に助けられてから今までで、心がキスを断ったのは初めてのことだ。
 しかも、今日目が覚めて、龍鬼の『味』を『美味しい』と感じるようになってからというもの、心は自らキスを欲しがるほどになっていた。にも関わらず、心はキスを拒んだのだ。
 これには心なりの理由がある。
 龍鬼を困らせたいというのもその一つだが、それよりも本人の言葉どおり、『汚い』のが嫌だった。
 いくら龍鬼が「汚くない」と言おうが、彼の唇や舌が触れた部分は、心にとっては『汚い』ところだ。
 幼い子供に『戻って』いる心にしてみれば、自分の股間にそなわった器官など、『排泄に使う』という認識がほとんどで、その他の『使い方』については、まだまだ情報が不足している。
 せいぜいが、『大切なところ』だから『清潔にしなくてはいけない』とか、誰にも――特に『男の人には絶対に触らせてはいけない』ところだとか、理由は良く分からないが、悪戯されると『恥ずかしい』とか『気持ち良い』とか『痛い』とか、断片的なものばかりだ。
 心は女の子に『なった』ばかりで、そのうえ頻繁に幼く『戻って』しまうのだから無理もない。
 さらに家では、入浴中に身体を洗うことすら一人ではやらせてもらえず、恋と愛に『手伝われて』いたから、心はいまだに自分の胎内(なか)に触れたこともないのだ。
 とにかく、いまの心にとって、龍鬼に悪戯された部分は排泄のための器官であり、しかも『おしっこ』をしたばかりの『汚い』状態にあった。
 だから、そんな『汚い』唇で、触れて欲しくなかったのだ。
「……したいなら、ちゅうするなら、いますぐお口を漱いで――歯も、みがいてきれいにしてください。
そうしてくれなくちゃ、イヤです」
 涙目のままで、まっすぐに龍鬼を見つめながら心は訴える。
「うん、分かった。いますぐ歯磨きしてくるね」
 キスを拒まれた原因が分かり、龍鬼は安堵する。
 本気で嫌われたわけではなさそうだと、そう感じたからだ。

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