その涯を知らず ―― 卯月(2) ――
翠 はるか
八条についた頃には、日はすっかり落ちていた。八条では、やはり友雅を迎える準備がしてあり、彼が寝殿に落ち着くと、すぐに夕餉が運ばれてくる。 それを食し、女房たちや家司と少し話をした後、友雅は部屋を出た。それもいつもの事なので、誰も追わない。 今夜は月を愛でながら、琵琶でも弾いてみようかと思いつつ、林に面した簀子へと向かう。そこで、友雅は異変に気づいた。 林の木々がざわざわと揺らいでいる。よく見る光景だが、風のない日に見たのは初めてだ。 どうした事だ、これは? じっと林の様子に注意を向ける。木々の揺らめきは止まらない。 これは…、気が乱れている? 友雅は眉をひそめた。怨霊などのいる土地では、気の流れが乱されて、周囲の自然が変わった反応を見せる事がある。その様子に、よく似ていた。 何かがいるのだ、あの中に。 友雅の鼓動が速まる。真っ先に思い浮かんだのはあの少女。彼女が還ってきて、あの不思議な力に木々が反応しているのだとしたら。 友雅は簀子を降り、林へ向かっていった。 だが、林の中を進むにつれ、彼は戸惑った。林の中はいっそう気が乱れているのを感じる。そして、段々と瘴気が強まっていくのを感じるのだ。 まさか、怨霊でもいると言うのか? だとしたら、この不利な状況で進むべきではない。しかし、友雅の足は止まらなかった。 とうとう金木犀の所までたどり着き、そこで友雅は立ち尽くす。 彼女がそこにいた。そして、瘴気もそこから発せられていた。 これは……。 彼女は自身を抱きしめて震えていた。この間よりずっと苦しそうだ。身体を丸めると、その身から瘴気が溢れ出し、身体を反らせると、その身へ瘴気が吸い込まれてゆく。 「う、う…、ううっ!」 瘴気が彼女の身に、色濃くまとわりついている。このままでは、黒い池に呑まれてしまいそうだ。 「月夜見姫……」 友雅は一瞬のためらいの後、彼女の元へ歩み寄っていった。溢れ出した瘴気が友雅をも包み、痛いほどの冷気に息が詰まる。 怨霊の放つものには劣るが、なぜ少女がこれほどの瘴気を帯びているのか。しかし、その事に疑問を感じている余裕はなく、友雅は黒い渦中の少女に腕を伸ばした。 肩に手を置く。だが、彼女は反応を示さなかった。身を焼く苦しみに、それどころではないという感じだ。友雅はもっと力をこめて、彼女の肩を引き寄せてみた。その勢いで、彼女の上体が彼のほうを向く。その一瞬、彼女の視界に友雅が入った。だが、その存在を認識した様子はなく、彼女はまた身体を丸め、うめき声を漏らし始めた。 「――――…っ」 友雅は彼女の両肩を強く掴んで、自分のほうを向けさせた。彼女が自分を見ないのが腹立たしかった。 「あ…っ」 彼女の身体が均衡を崩して、よろめく。友雅は片腕で彼女を支えながら、頬に手を添えて顔を上げさせた。 「あ、あなたは…」 少女の口唇から震える声が漏れる。彼女の顔は、月の蒼白い光のせいもあり、色を失って見えた。眼差しもぼんやりとしており、意識を半ば失っているようだ。 「…今夜も花は咲かせないのだね」 友雅が語りかける。彼女は小刻みに震えながら、黙ったままでいる。 「この身がまとう黒いもののせいか?」 再び語りかける。その途端、少女の身体がびくっと震えた。それに弾き出されるように、彼女のうちから瘴気が噴き出され、二人を包んだ。 「く…っ」 友雅が苦しげに眉を寄せる。これほど近くに瘴気を寄せ付けたのは初めてで、その陰気な力で、気力が喰われてしまいそうだ。 「…っ!」 友雅は裂の印を組み、己の身のうちにある五行の力を集中して瘴気に放った。瘴気は散り散りになり、二人を包んでいた黒い霧が薄れる。 同時に少女の目がはっと見開かれた。 「あ、あなた…は、地のびゃ……」 何事かをいいかけ、だがその途中で、少女は再び身体を強く震わせた。新たな瘴気を噴き出しながら、苦しげに伸ばされた彼女の手が友雅の肩を掴む。爪が食い込むほどの強い力で、友雅は痛みにかすかに眉を寄せた。 「あ、頭が痛い…。いや、どうして…!」 少女の手の力が更に強くなる。呼吸は荒く、額に脂汗がじっとりと浮かんでいる。 友雅は袖でその汗を拭ってやった。少女の身体からはなおも瘴気が溢れ出し、少女は自身が吐き出したものの中でもだえ苦しんでいた。 「…あれは…誰なの? やめて…もう……」 少女がうわ言のように呟く。 「…“あれ”?」 「この感じ…は何なの? もうやめて。私をかき乱さないで…!」 かすれた声が次第に涙交じりになっていく。友雅は息詰まって、その身体を抱きしめた。 「“あれ”とは何だ? 何がそんなに君を苦しめる。…何がそれほど君の心を捕らえる」 少女は答えない。予想した事だが、友雅は苛立って両手で彼女の顔を上げさせた。 「“あれ”とは誰だ?」 「…あ、あれ…、あの人は…。…っ、やめて、頭が割れそう!」 少女が叫んで、激しく身をよじる。友雅の手が外れ、支えを失った彼女は後方に倒れこんだ。背中が木の幹にぶつかり、鈍い音が響く。 少女は、そのままずるずると地面に座り込んだ。 慌てて駆け寄ろうとする友雅の前で、少女が震える言葉を発する。 「…分からない。何も分からないのに…、私はあの人を知っている……」 「あの人?」 友雅が少女の前に膝をつきながら問い返す。少女は小さく頷き、次の瞬間、手で顔を覆った。 「頭痛い…。考えたくない、考えたくないのに…!」 友雅は眉をひそめた。彼女が何を言っているのかは分からないが、“あの人”とやらが彼女の苦痛の原因らしい事は分かる。 「ならば、無理に考えなければいい」 言ってみたが、少女は首を横に振った。 「聞こえるの…。あの人が私を呼んだ。その声が……」 少女は途方に暮れているようだった。消したくても消せない、それほどに強い想いを抱いていると言う。 「…では、違う事でも考えてみればいい。余計な事に意識が向かないように」 半ば投げやりに言った言葉だったが、少女は今までで一番大きな反応を返した。 「違うこと? 違う…。私には何も分からないのに…。何を考えろと言うの?」 問いながら、少女が初めて自分から友雅を見る。涙で赤くなった黒曜の瞳が彼を捉えた瞬間、友雅は背筋がぞくりとするのを感じた。 「…だったら、私の事でも考えてみる?」 するりと言葉が喉をついて出てくる。軽く言ったからではなく、ずっとそれを望んでいたのだと口に出してから思い当たる。 少女が戸惑ったように首を傾げた。 「あなたの…事?」 「…そう。私の事」 「あなたの事だって…、私には分からないわ」 友雅が小さく笑った。少女の耳元に手を伸ばし、髪を結い上げていた紐をほどく。長い黒髪が月光を照り返しながら、少女の頬や肩に落ちかかった。 「それでも構わないだろう。分からないものに心を占められる事もある。君もそうなのだろう?」 「……私は!」 少女の身体が震える。また“あの人”を思い出したのか、苦悶の表情だ。 友雅は彼女を強引に抱き寄せると、上向かせて深く口唇を重ねた。 「…んっ」 甘さなど欠片もない、奪うような口接けに、少女が苦しげなうめきを漏らす。だが、友雅は構わずに、更に強く彼女を抱きしめた。 「…ん…、は…っ」 角度を変えて何度も口接ける。時折、口唇がずれると、その部分から吐息が漏れて、友雅の頬を撫でた。 友雅は己の内に湧き上がる激しさに驚きながら、その感情のまま少女を貪った。 「―――……」 しばらくして、ようやく友雅の動きが緩む。ゆっくりと離れると、少女の濡れた口唇が目に映って、またぞくりとする感覚が背中を這う。 今度はついばむような口接けを、彼女の口唇に落とした。頬や目元にも口唇を置く。 青ざめていた少女の頬には赤味が差していた。呼吸も速まっており、けだるげな表情が友雅を見上げる。 「…それから、どうするの?」 言葉には、請うような響きが混じっていた。友雅は満足げに笑むと、身を起こして少女を抱き上げた。 「私の部屋においで。この隣にある邸だ」 少女が頷いて、友雅の首に両腕を回して掴まる。 人肌の暖かさと瘴気の冷ややかさが、友雅の身体と心を鋭敏に刺激した。
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