その涯を知らず ―― 卯月(3) ――
翠 はるか
夜更けの室内を、薄暗い灯火ひとつと月明かりが照らし出していた。 物の輪郭がかろうじて見て取れる薄闇の中、衣擦れの音が幾重に響く。 「…あ……」 肌に手を這わせると、少女はぴくりと震えた。口唇を首筋に落とすと、くすぐったそうに身体を背けようとする。 友雅は手の平で少女の頬を包み、自分のほうを向けさせた。 「ほら…。だめだろう、ちゃんと私を見ていなさい」 囁きかけると、少女は頷いて、友雅のほうに向き直る。 彼のする事に意識を向ける事は、確かに脳裏に響く呼び声を薄れさせてくれていた。 少女と視線が会うと、友雅は笑み、そのまぶたに口接けた。 途端に、ぴりっとした痛みが口唇に走る。 ひとつ愛撫を刻むたびに、漂う瘴気が友雅を刺す。しかし、少しずつその瘴気が薄れていく事に、友雅は気づいていた。 大気に散ってしまったものもあるが、多くが彼女の身に吸い込まれていっている。 そんな話は聞いた事もないが、彼女は瘴気をその身に住まわせる事ができるようだ。 だが、その意味するところには、今のところ興味はなかった。ただ、腕の中にいる少女の感覚を引き出す事にのみ意識を向ける。 滑らかな胸元に口唇を這わせ、鎖骨に軽く歯を立てた。 「…んっ」 少女が反応して、身体にかかる友雅の髪を反射的に掴む。 友雅はその手を掴み返して、指を絡めた。更に愛撫を続け、彼女の名を囁こうとして、それを知らない事を思い出す。 「君は……」 友雅は軽く身を起こして、少女を見た。黒い霧がまた彼女の中に吸い込まれていく。やはり痛みでも感じるのか、少女が身をよじると、さらりと流れ落ちた髪がかすかな光を孕んで艶やかに煌めいた。 見覚えのある煌めきに、友雅は口をつぐんだ。 「…どうしたの?」 「いや…。何でもない」 少女が不思議そうに見上げてくるのに、友雅は短く答え、それ以上の追及を封じるように口唇を重ねた。 名を聞かなかったのは、最後の理性だ。 友雅は激しい嫌悪の中、彼女を抱く手に力をこめた。 何故、神などと思ったのだろう。いや、答えは分かっている。以前の自分には、この少女の抱える闇が見えなかった。月光の衣に惑わされて、内に巣食うこれほどの瘴気に気付かなかった。彼女は最初からずっとこうであったのに。 友雅は、知らないが故の無思慮を激しく嫌悪した。これは触れてはいけないものだ。 いずれ己が身すら喰われかねない。 だが、友雅の動きは逆に激しく深くなっていった。彼女の瘴気に刺されるたびに、後悔や嫌悪、悦楽、渇望、激しい感情が心の空ろに入り込んでくる。その心地良さを求めずにいられない。 友雅は少女の闇に足を踏み出した己を自覚した。
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