その涯を知らず  ―― 皐月(1) ――

                  翠 はるか



 あかねと友雅、泰明は桂へ来ていた。
 藤姫がうまく言っておいてくれたようで、あかねは二人をよく供に選ぶようになった。今日も二人を連れて、力の具現化と封印に洛西へ来ている。本当は朱雀の呪詛解除をしたいところだが、洛南は方忌みで行けなかった。
「…この辺りが、龍脈の力が強そうですね。ここで、力の具現化をしましょうか」
 先を歩いていたあかねが、木立の陰で立ち止まる。友雅と泰明は頷いて、その隣へと向かった。
 あれから半月が経ったが、未だに蘭の問題は進展していない。泰明のほうで調べてみても、有用な情報は得られなかったし、あれ以来、彼女も姿を現していなかった。
 そのほうがありがたいとも言えるがね…。
 友雅は内心で呟いたが、それも時間の問題だと思う。彼女があかねを害する目的を持っている以上、いずれ姿を現す。それに、あかねの供をする機会が増えていたから、自分もいずれ彼女に会うだろう。
「それでは、始めようか」
 友雅が声をかけると、あかねは微笑みながら頷いた。だが、不意にその笑顔が強張る。
「どうした、神子殿?」
「……今…」
 あかねが固い声で呟いて、ふいっと身体を先の道へ向けた。その顔からは、次第に表情が欠落していき、友雅ははっとした。
 彼女がこんな風になるのは、初めてではない。人ならぬ者と言葉を交わす時、彼女の心はこのように浮遊する。彼女が龍神の神子である事を実感する瞬間だ。
「龍神か。泰明殿、君は何か感じるかい?」
 振り向くと、泰明も固い表情であかねを見ていた。
「いや、私には何も。神子にしか聞こえぬものなのだろう」
「そうか。今度はどんな難問をふっかけられている事やら」
 友雅が冗談交じりに呟いた時、あかねの身体が小さく震えた。はっと彼女を見ると、あかねの瞳には意志が戻ってきていた。
「神子殿、戻ってきたかい?」
「え? あ……」
 あかねが驚いたように友雅を見る。まだ、意識がうまく戻っていないようだ。
「何かを見てきたんだろう?」
「あ…、私、鈴の音を聞いて。なんだか、いつも、より…。……私、行かなくちゃ!」
 あかねが突然駆け出した。二人は一瞬呆気にとられたが、すぐに彼女を追う。どこへ行くつもりか知らないが、安全な場所ではないだろう。
 果たして、その予想は当たっていた。あかねを追って、走っていくにつれ、辺りに穢れの気配を感じるようになってくる。
 これは怨霊か。それとも呪詛か。何が彼女を呼んでいる。
 答えの得られぬまま、だが、何かがある事は確かだろうから、あかねを止める事はせずに、友雅は走り続けた。
 すると、しばらくして泰明が彼のほうに身を寄せてきた。
「友雅。あの丘のほうから瘴気が発せられている」
 言われて、友雅はその丘に目を向けた。泰明の言う通り、そこは一際強い瘴気が漂っている。そして、あかねもそこへ向かっているようだった。
「このまま、神子殿を向かわせていいのかい?」
「この程度の瘴気ならば問題ない」
 友雅は頷いて、あかねを追い続けた。すると、しばらくして、あかねがはっと立ち止まる。友雅はその視線の先を追ったが、くねった道の脇には木々が立ち並び、今いる場所からは見通せなかった。
 …なんだ? そこに何がいる。
 友雅は緊張を高めながら、あかねの隣に並んだ。同じ方向に目を向けてみると、小高い丘の上に人が佇んでいるのが見える。
 ………え?
 一瞬、時が止まったような感覚を覚えた。
自分たちに背を向け、丘から辺り一帯を見下ろすようにしている少女。その桜色の着物も、風になびく黒髪も見覚えがある―――いや、よく知っている。
 まさか、と目を見開く友雅の前で、その気配に気づいたのか少女がゆっくりと振り返った。その彼女に向かって、あかねが叫ぶ。
「ラン!」
 ―――月夜見姫。
 遠目だが、見間違えるはずもない。瘴気の漂う丘で、人形のような無表情で彼女が立っている。
 瞬間、硬直する友雅をよそに、泰明があかねの前に進み出ていった。
「お前が、天真の妹か」
 その言葉で、友雅ははっとした。泰明の視線は、間違いなく彼女に向けられており、あかねも彼女を「ラン」と呼んだ。
 彼女が天真の妹?
 その時、友雅の脳裏に、いつも彼女に感じていた疑問が思い返された。あの不可思議な能力はなんなのか。なぜ、あれほどの瘴気を身にまとっているのか。それは、彼女が鬼のもとにいる事を考え合わせると、納得できた。
 だが、以前に天真から聞いていた妹の話と、自分の知っている彼女の印象とが重ならず、友雅は戸惑ったまま、次第にこちらへ近づいてくる彼女を見つめた。
 そこへ、泰明が更に言葉をかける。
「お前は何者だ。なぜ、この地にいる。何をなすつもりなのだ」
 矢継ぎ早の質問に、少女は無表情でもって答えた。冷たい眼差しで泰明を一瞥し、ついで、あかねに視線を移す。友雅には気づいたふうもなかった。
「龍神の神子か」
「ラン……」
「この地は既に穢された。地脈は乱れ、生命を育む力も失われるだろう」
 淡々とした声音だった。その声からはどんな感情も読み取れない。
 友雅は戸惑いを深くした。こんな彼女は初めて見る。
 自分の知る彼女は、もっと激しいものを内包していたのに。
「私の邪魔をしに来たのなら、お前も排除する」
「ラン、どうしてそんな事をするの? もう、やめよう。天真くんのところに帰ろうよ!」
 あかねがたまりかねたように叫んだ。ランは気にした様子もなかったが、「天真」という名前が出た瞬間、その瞳にかすかな光が宿った。
 だが、そのかすかな光は、すぐに無表情の闇に塗りつぶされる。
「そのような者、私は知らない。私にはお館様しかいないのだ」
 友雅の表情が揺れた。
 お館様、とはアクラムのことだろう。鬼を統べる首領。彼女を呼び、使役している男。
「ラン……」
 あかねが悲しげに呟く。その身から、気力が失われたのを見て取り、ランの瞳に剣呑な色が浮かんだ。
「…龍神の神子、覚悟」
 ランが腕を構える。その手の平に、強い力が集まっているのに気付いた友雅と泰明が身体を緊張させる。
 先に、泰明が印を構えた。それを横目で捉えた友雅は、敏捷な動きでランの前に駆け寄り、その両手を掴んだ。
 ランが目を見開いて、友雅を見上げる。単に予想外の反撃に驚いたのか、それが友雅だったから驚いたのか、その判別もつけられない内に、泰明の術が二人に向かって放たれた。
「…っ!」
 ランがはっと泰明に視線を戻す。次の瞬間、彼女の身体から霊気が溢れ出し、それが結界のように二人を包んで、泰明の術を跳ね返した。
「…ぐっ」
 術の直撃は免れたものの、ランの強い力に巻き込まれて、友雅の息が詰まる。彼女の腕を掴んでいた力が緩み、その隙にランは友雅から逃れた。
「あ…っ」
 しまったと思った時には、彼女は既に彼らから離れた所に跳躍していた。その動きは体重を感じさせない軽やかなもので、彼女の着物の柄と相俟って、蝶が飛翔しているような錯覚を覚えた。
「…今日は、もう行く」
 呟くが早いか、彼女の姿はその場からかき消えた。
 後には、呆然とした風の三人だけが残される。
「……ラン」
 やがて、あかねがため息と共に呟き、その声をきっかけに友雅と泰明も動き出した。
「神子殿、怪我はないね?」
「…あ、はい、私は全然…」
 一応、確認してみると、あかねは慌てたように顔を上げて、首を左右に振った。確かに、元気そうだ。一方、その隣で、泰明が厳しい表情で彼を睨む。
「お前こそ、怪我をしたのではないか? 何をしているのだ。術の前に飛び出すなど」
「…ああ、すまなかったね。だが、何ともない」
 まだ少し息苦しさは残っていたが、すぐに治る程度のものだ。
 そう答えると、泰明は小さく息をついた。
「だが、そのおかげで分かった」
「何をだい?」
「あの娘が呼ばれた理由だ」
 友雅が目を見開く。あかねも、はっとした表情で泰明を見上げた。
「泰明さん? ランが呼ばれた理由って?」
「あの娘は、黒龍の神子だ」
「黒龍?」
 聞きなれない言葉に、あかねが首を傾げる。
「そうだ。先ほど、あの娘が放った気。あれは、神子のものに、とてもよく似ていた」
「私に…?」
「お師匠に聞いた事がある。万物には陰と陽があり、龍神もまた陰と陽からなる。即ち、黒龍と白龍。神子は白龍に仕える神子であり、あの娘は黒龍に仕える神子なのだ」
「それでは、彼女も龍神の神子という訳か?」
 友雅が、さすがに驚きを隠せずに呟く。
 そういえば、以前、花を追うあかねに、彼女の面影が重なった事がある。同じ龍神の神子である故のことだったのか。
「そう言える。ただし、八葉が仕える龍神の神子は、白龍の神子のみだが。黒龍の神子に関しては、ほとんど伝承がない。ただ、白龍は再生を、黒龍は破壊を司ると聞く」
「破壊…!?」
 物騒な言葉に、あかねが再び目を見開く。
「鬼はその力に目をつけたのだな。黒龍の力は四神よりもずっと強い。もし、その力を完全に操られたなら、八葉ごときではとても敵わぬ」
「そんな…。…でも、ランがどうしてそんな事……。どうして、京を破壊したりするの? ランにはそんな事する理由がないのに」
 ランは進んでその力を振るっていた。鬼がランの力を利用しようとしたとしても、何故、彼女がそれに従う。
 泰明は難しい表情になった後、おもむろに口を開いた。
「術、ではないかと思う。あの娘の様子は、式によく似ていた。何の感情も持たぬ、ただ使役される存在。術で自我を押さえつけ、従わせているのではないか」
「そんな…、ひどい……」
 あかねの瞳が涙で潤む。次々に聞かされる事実が、彼女の心に重石のようにのしかかる。
 また、友雅も胸の中に渦巻き出した感情を、苦く噛みしめていた。
 彼女は黒龍の神子で、それを、あの男が従わせていると?
先ほどの、彼女の無機質さはそれゆえか。では、彼女が言っていた「あの人」とはアクラムの事か? …いや、思い返してみれば、あの日は、天真と彼女が再会した日だ。兄を見て、封じられた心が揺らいだゆえの、気の乱れだったのか。
 だが、私の行為で気の乱れが落ち着き、また鬼のものになったと言うのか。
 友雅は深く息を吸い込み、さりげなく泰明とあかねに背を向けた。
 では、彼女に神気を感じたのは、間違いではなかったのだ。望月の夜に出会う彼女に、使役されている様子はなかった。あれが本来の彼女なのだとしたら…。
 友雅はぎりっと口唇をかんだ。
 それを、あの鬼の首領が術で奪い、利用していると言うのか。鬼ふぜいが、神を身に住まわせる神子を陥れ、穢したのか。
 今まで感じた事もないような激しい感情が、友雅の中に渦巻く。
 彼女を穢した者に対する憤り、そして、未だ彼女を支配する者に対する嫉妬。それらが抑えようもなく、友雅の中を巡り、彼の思考を支配していく。
 ―――それならば…。
「……あの、友雅さん? どうしたんですか?」
 そこへ、友雅の様子が違う事に気付いて、あかねが声をかけてきた。乱れていた友雅の思考が、一瞬その声でとどまる。
 しばしの間の後、友雅はゆっくりと振り返った。
「…何でもないよ、神子殿。今日は、もう藤姫の邸へ戻ろうか。少し時間が必要だろう?」
「え……、ええ…」
 振り返った彼は、いつもの微笑を口元にたたえていた。それで、あかねはそれ以上、疑問に思うことなく、再び己の思考に戻っていった。
「泰明殿も、それで構わないだろう? 今の話を藤姫にも報告しなければならない」
「…そうだな。そちらのほうが優先すべき事だろう」
 泰明が頷く。三人は丘を下りる道を、行きより格段に重い足取りでたどっていった。
 その道の途中、友雅は袂が破れているのに気付いた。泰明の術か、彼女の力で破れてしまったのだろう。
 蘭……。
 図らずも得たその名を心に響かせ、友雅は小さく笑う。
 …名は聞かないでおこうと思っていたのに、知ってしまったね。
「泰明殿、すまないね」
 唐突に呟くと、案の定、泰明は怪訝そうな表情で友雅を見返した。
「先ほどの事なら、二度も謝る必要はない」
「いや、今のは別の事に対してだ」
「別の事?」
 泰明が問い返すが、友雅は答えずに、僅かに歩調を速めた。
 謝ったのは、彼の思惑を裏切ってしまうことに対して。
 ―――きっと、もう彼女よりあかねを選べない。


―― 続 ――


 

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