その涯を知らず  ―― 皐月(2) ――

                  翠 はるか



 あかねは自分が使っている部屋の前の廊下に立って、庭を眺めていた。
 もう夕刻。日はかげって、庭を赤く染めている。
 美しい。けれど、どこか不吉に感じるのは、気持ちが沈んでいるからなのだろうか。
 あかねは目を伏せた。
 ここまで来て、龍神の神子という役目が、ひどく苦しいものに感じられてきていた。今までだって辛かったけれど、周りに支えてくれる人がいた。
 けれど、人の憎悪や嘆き、利己心。ここへ来て以来つきまとうそれらの黒い感情が、まだ少女であり、平穏の内に暮らしてきたあかねには重い。特に、ランは元の境遇が似ているからだろうか。その苦しみを見るのがとても辛い。
 正直に言うと、逃げ出したい。けれど、それはできない。自分以外に、この役目を果たせる人はいない。それに、神子に選ばれた時点で、否応にもこの争いは自分の問題となってしまっているのだ。
「早く…。本当に、私にすごい力があるのなら、早くこの戦いを終わらせたい…」
 無意識に両手を組んで祈る。無駄だと分かっていても、龍神を求めずにいられなかった。龍神は必要な時には導いてくれるけれど、迷った時に答えをくれたりは決してしないのだ。
 どうか、一人でも多くの人が幸せに。…そして、彼も。もうずい分、本当の笑顔を見ていない。一日も早く、彼の心が癒えるように。
 その時、がさりと草むらが揺れる音がした。
 顔を上げたあかねは、はっと目を見開く。
「…天真くん」
 天真が向こうの庭から歩いてきていた。彼もあかねに気付き、彼女のほうに歩く方向を変える。
「あかね……。…何やってんだ? こんな所でぼーっとしてたら冷えるぞ」
 そして、いつものようにからかい口調で言って、あかねに笑いかけた。だが、その顔には隠し切れない影が浮かんでいる。
 きっと、ランを探しに行って、見つからなかったのだ。
 ランが黒龍の神子であること、そして、その他の事情も、分かったその日に天真にも話していた。天真はやはり衝撃を受け、それまでより頻繁にランを探しに行くようになった。
 だが、彼女は姿を現すことなく、ただ彼女のまく穢れだけが京を覆っていく。
 天真の焦燥は見ていられないほどだった。
「…お帰り、天真くん。天真くんこそ、早く上がってきなよ。外のほうが冷えたでしょ?」
「動いてっから、暑いくらいだよ。ま、言われなくても、すぐに部屋に戻るさ。明日も早くから剣の稽古だしな」
 言葉を交わしながら、天真はあかねのいる廊下の前まで来た。
「それより、お前も早く休めよ。明日は朱雀の解放だろ?」
「うん……」
「何だよ、暗い顔して。大丈夫だよ、呪詛は解除できてんだし、青龍のときと同じようにやれば」
 天真はあかねを励ますように明るい口調で言った。だが、そのぎこちない笑顔が哀しい。
「天真くん…。私の前でまで無理しないでよ」
 たまらず声をかける。すると、天真の表情がその瞬間、強張った。口唇がかすかに震え、次第にその面に苦渋の色が浮かんでくる。
「あかね、俺は……」
「私、天真くんの無理した笑顔なんて見たくない。苦しんだり、泣きたくなる気持ちをみっともないなんて思わないよ。だから…」
「……あ…かね…。…ちっ、くしょおっ!」
 天真が堪えかねたように、押し殺した叫びを上げた。高欄に両手を乱暴に叩きつけ、その上に顔を伏せる。
「………あの野郎。蘭を利用しただって? あいつに術かけて、無理やり従わせてるだって? 許せねえ…、絶対、許せねえ! …なのに、俺はあいつを見つけ出す事もできないんだ。あいつが酷い目にあってるのに、何もできねえんだっ…!」
「天真くん……」
 あかねは高欄から身を乗り出すようにして、天真を抱きしめた。そうせずにいられなかった。
 ―――どうして? どうして、こんな事になったの?
 ラン…、戻ってきて。お願いだから、戻ってきて。ラン……!
 強く彼女を呼ぶ。天真の妹であり、自分と同じ龍神の神子であるという彼女を。
 ――――チリ…ン……。
「え…っ?」
 あかねははっと目を見開いた。
 …今のは。鈴の音と共に、一瞬だけ脳裏に浮かんだ光景は…。
「あかね?」
 唐突に力が抜けたあかねに、天真が訝しげに顔を上げる。そして、惚けたようなあかねの表情に眉を寄せる。
「どうしたんだ?」
「今…、河原院が見えて……」
「河原院?」
 あかねが頷く。あの崩れかけた邸、遣り水にかかる朽ちた橋。間違いない。
「今、ランを呼んでみたら、鈴の音がして、河原院が見えたの。…もしかしたら、ランがそこに……」
「何だって?」
 天真が顔色を変えて、身を起こす。
「本当か、あかね」
「確かかは分からないよ。でも、何かあるのは間違いないと思う」
「…河原院だな」
「あっ、私も行くっ!」
 駆け出した天真の背に、あかねは慌てて声をかけた。彼一人で行かせたくない。それに、自分の力が何かの役に立つかもしれない。
「お前は駄目だ。もう遅いんだし、危険かもしれない、門番が出してくれねーよ」
「それじゃ、私は勝手に一人で行く。もう、この邸に三ヶ月も住んでるのよ。抜け道くらい知ってるんだからね!」
「おい……」
 天真が呆れ顔になって呟く。だが、ややして苦笑のような笑みを浮かべた。
「…分かったよ。それじゃ、頼む」
「うん!」
 あかねは勢いよく立ち上がって、階に向かって走り出した。


―― 続 ――


 

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