その涯を知らず  ―― 皐月(3) ――

                  翠 はるか



 夕暮れ時の河原院は、昏い陽光が朽ちた建物を照らし、昼にもまして物悲しかった。
 空は半分が赤紫の切ない色に染まり、もう半分は既に薄闇が覆っている。間もなく夜が訪れ、この空に望月に少し足りない月が昇るだろう。
 その下を、あかねと天真は闇に足元を取られないよう気を配りながら、懸命に走った。完全に日が沈んでしまえば、人探しなど不可能に近いし、危険も増す。
 だが、誰かを探すとなると、河原院は意外に広い。刻一刻と暗さを増す中を、焦燥に駆られながら走り続けていると、不意に天真がはっとしたように足を止めた。
「どうしたの、天真く…」
「……蘭」
 呟きに、あかねは彼の視線の先を追った。遣り水にかかる橋の上に、ランが佇んでいる。
 彼女は、今は枯れてしまった遣り水の跡に視線を落とし、腕をその上に突き出していた。その顔は、これまでと違って無表情ではなく、どこか寂しげな色を浮かべている。しかし、没しかけた陽光の下では、あかね達にはそこまで見て取れなかった。
 立ち止まったまま、ランを見つめていたあかねは、ふと彼女の手の平から、何かがこぼれ落ちているのに気付いた。
 不審に思って目を凝らしてみると、それは大量の羽虫だった。闇と同色のそれらが、清らな水の代わりに流れていき、その地に穢れを巡らせていく。
「や…っ」
 気味の悪い光景に、あかねが小さく叫んで、口元を押さえた。すると、その声が聞こえたのか、ランがはっと振り返った。それと同時に、こぼれ落ちていた羽虫も消える。
「龍神の神子、…地の青龍」
 この間と違って、彼女は明らかに動揺していた。見開いた瞳で天真を捉え、両手を胸の前で握りしめる。
「蘭…」
 天真も食い入るようにランを見つめ返し、その名を呼んだ。すると、ランはびくりと震え、じりじりと後ずさって行った。
「…やめろ、呼ぶな」
「蘭、逃げないでくれ。俺の話を聞いてくれ!」
 蘭は天真の言葉に反応している。天真はそれを察し、必死に呼びかけた。ここで逃げられては、蘭はまた鬼のもとへ帰る。そして、京を穢し、あかねや自分たちを攻撃してくるのだ。
「蘭、帰って来い! 鬼の言う事なんて、もう聞く必要ない。一緒に、家へ帰ろう!」
「あ、ああ……」
 ランの目の色が深くなる。その顔は今にも泣き出しそうで、アクラムが彼女にかけた術が弱まっている事を示している。十三夜の今日は、彼女の封印が完全ではないが弱まる日なのだ。
 ランの力は月の満ち欠けに影響される。月の力は、黒龍と同じ陰の力だからだろう。その力が最高潮に達するのが望月の晩。その月が中天で輝く一時、ランの力はアクラムの封印の力を上回り、その呪縛から逃れる事ができる。
「い、家…。私の…、わ、たしの……。…おにい…ちゃん……」
「蘭! 俺が分かるのか!?」
 天真の顔が輝く。だが、次の瞬間、ひどい頭痛がランを襲い、ランは頭を抱えてうずくまった。
「ああっ!」
「蘭!」
「呼ば…ないで。お前に呼ばれると、私は……。あ、あ…、だめ、出てこないで」
 激しい痛みに加えて、ランの身体の中で何かが暴れ出した。息もできないほどの苦痛に、ランの瞳から涙が溢れる。
 黒い力。これは、龍神の神子とは相容れない気。闇しか持たない穢すだけの力。
「だめ…、私は行けない。そちらへ行く方法が分からない」
「何を言って…。……だったら、俺がそっちへ行く!」
 天真は走り出した。それに気付いたランの目が、それまで以上に見開かれる。
「やめて、来ないで!」
 ランは叫んだ。天真が近づくにつれて、失ったはずの記憶が頭の中を巡り、アクラムの術と反発して、ランの意識をかき乱す。視界が緋に染まり、もう正気を保っていられなかった。
「いやああっ!」
 血を吐くような悲痛な叫び声を上げ、ランは駆け出した。どこへ向かっているかなど分からない。だが、ただ逃れたい一心で、走り続ける。
「蘭、待ってくれ!」
 天真も叫んで、ランを追いかけた。あかねもその後から、追って来る。
 しかし、追いかけて行く内に、天真はランの身体から、何か強い力が溢れ出てくる事に気付いた。それはランの身体を包み、彼女の姿を隠していく。
 …あれは、瘴気? あいつ、また怨霊を?
「やめるんだ、蘭!」
 だが、その黒いものはどんどん溢れ出し、ランの身体を覆った。そして、それとほぼ同時に、彼女の姿がかき消えた。
「ああっ?」
 天真が慌てて周囲を見回す。だが、彼女の姿はどこにもなく、ただすっかり闇に染まった庭の草が、不気味な輪郭を形作るのみだった。
「蘭…。蘭、どこだ。どうして逃げるんだ。俺はお前を迎えに来たんだ、一緒に帰ろう!」
 天真が叫ぶ。その声は河原院に虚しく響き渡り、闇の中に溶けていった。


「は…、はあ…、はァ…っ」
 かろうじて転移の術を使い、天真から逃れたランは、どこかの通りをひた走っていた。もうずい分と走り続け、心臓が壊れそうなくらいに脈打っている。
 …苦しい。ここはどこ? 私はどこへ走っているの? 分からない。けれど、足を止めてはいけない。
 安全な場所など、今の彼女にはない。自らが吐き出す瘴気から逃れる術など、あるはずがない。それでも、ランは走った。走るそばから足元が崩れていくようで、ひどい恐怖に襲われるが、足を止めると闇に追いつかれてしまいそうだった。
 ―――ラン。
 ―――蘭!
 混濁する意識に、二つの声が響く。自分を支配する声と、自分を引き戻そうとする声。
 …ああ、やめて。呼ばないで。引き裂かれてしまいそう。二つに裂かれて、私の中の黒いものが溢れ出してしまいそう。
 ざわりと彼女の中で、何かが蠢いた。
 …やめて、出てこないで! いや、怖い…!
 ランは必死に念じて、それを押さえつけた。
 それは、初めてランが黒龍を呼んだときから、彼女の中に住み着いているモノ。力が足りず、不完全な姿でしか現れなかった黒龍の力のなれの果て。
 その歪んだ力は、ランの力と京の瘴気を喰いながら彼女の体内で育ち、彼女が気を緩めると、外へ出ようと暴れる。 
 ―――蘭!
 …ああ、私を呼ばないで。私を引き止めないで。闇に呑まれてしまう。
 誰か、この声を消して。この呼び声を消して。
 誰か…!


―― 続 ――


 

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