その涯を知らず ―― 皐月(4) ――
翠 はるか
五条通りを、一台の牛車が進んでいた。 もう日が落ちているため、従者はそれぞれ松明を持ち、闇を払いながら邸への道をたどる。近頃の世相から、その表情は険しかった。不安が噂を呼び、どこそこの通りでは神隠しが起こるだの、どこぞの四辻で内裏から帰る途中の貴族が怨霊に殺されただの、出所すらあやしい話が飛び交っているのだ。 だが、その牛車の主、橘友雅は動じた風もなかった。もちろん、八葉という立場上、事の真相を知っているためでもあるが。 …しかし、こうなると、鬼の存在を隠しておくのもどうかと思うけれどね。 友雅は、日が落ちているとは言え、他に全く人の気配のない通りを物見越しに見ながら、ひとりごちた。 いっそ真相を話して、根拠のない不安を払拭したほうが良いのではないかと思う。だが、不安が確信に変わるだけという気もする。そうなった時に、公卿や民が冷静に事に対処できるかと言うと、少々あやしい。 やはり、あの年若い少女に頼るしかないのだろうね。この滅びに魅入られた京は。 友雅は軽く目を閉じて、息をつく。すると、不意に肌が粟立つような気の乱れを感じた。 「―――?」 顔を上げると同時に、従者の悲鳴が聞こえる。それも複数だ。 「どうした!?」 「と、殿っ! 外に出てはなりませんぞ!」 従者の一人が動揺もあらわな声で、中の友雅に声をかける。次いで、抜刀する音が夜陰に響いた。 賊か? 友雅も険しい顔つきになって、前の御簾をめくり上げた。従者たちが刀を突きつけている方向を、素早く窺う。そして、目を見開いた。 「待て!」 鋭い声を発して、今にも切りかかりそうな従者たちを制す。幾人かが驚いたように友雅を振り返る中、彼は牛車から降り立った。 「殿、危のうございます!」 「いいから、剣を下げなさい」 友雅は強い口調で言い放ち、そちらへ向かって歩き出した。両腕で自分を抱きしめ、夏だというのに歯の根も合わないほど震えているランのもとへと。 「…ここで、何をしている?」 彼女の前に立って問う。だが、彼女は黙ったままだった。と言うより、言葉を発する事もできないようだった。その顔は紙のように白く、彼女の身から溢れ出す黒いものが、辺りの気を乱していた。 こんな様子を、以前にも見た事がある。 「……また、天真に会ったのかい?」 そう言うと、ランが一際大きく身体を震わせた。かすれたうめき声を上げ、友雅の衣冠の身ごろにすがりつく。 その動作に驚いた従者たちが再び剣を振り上げたが、友雅は手を上げてそれを制した。 「そうなのだね?」 「…あ…、その名前を口にしないで。呼ばない…で。ああ…、この声を消して。消して…っ」 弱々しい声で叫び、ランは更に強く友雅の着物を握りしめた。その震える身体を見下ろす友雅の眉がわずかに寄る。 この子は……。 「…分かった」 言って、友雅は硬直したままの従者たちを振り返った。 「この女人は私の客だ。邸にお連れする」 「な…っ」 場にどよめきが走る。だが、友雅はそれを黙殺し、ランを抱き上げて、牛車のほうへ向かった。 「お、お待ちください、殿。その者は、空中から突然現れたのです。物の怪の類に違いありませんぞ。物の怪を客とおっしゃるのですかっ?」 「ああ、そうだ。心配せずとも、お前たちに危害を加える者ではない。それより、早く出立の支度を。こんな所で立ち往生していたら、今度は賊でも出るかもしれないよ」 「そ、そんな……」 なおも従者たちはうろたえ顔だった。だが、友雅がさっさと車の中に乗ってしまうと、諦めたように牛の手綱を握り、牛車の周りを囲み、車を出発させた。 揺れ出した車の中で、ランは横抱きにされた格好のまま、友雅にしがみついていた。友雅も瘴気に侵食されるのに構わず、彼女を抱きしめ返す。 溢れ出す瘴気の量が、この間よりも多い。彼女の苦しみも、その分増しているようだ。 「私の邸はすぐそこだ。すぐに着くから、もう少し堪えていなさい」 引き寄せて耳元で囁くと、ランは小刻みに何度も頷いた。その瞳は双方とも閉じられている。もう、目を開けているのも億劫なのだろうか。 そっと、彼女の額髪のあたりをかき上げる。熱はないが、びっしりと脂汗が浮かんでいた。その汗を拭ってやっていると、不意にランが友雅の手を掴んだ。そして、その手に何度も自分の頬を押し付けるようにする。 何かと思っていると、ランが薄目を開けて友雅を見上げてきた。 「私…、ここにいる…の? ちゃんと、してる? もう、私…、人の形すら…していないのかもしれない……」 頭をかき乱す声に、ランは夢と現の区別がつかなくなっていた。感覚と感情が遊離して、触れる感覚全てが信じられない。ただ、今にも溢れ出そうな黒い力だけは確かに現実で、自分はもうそれに喰われてしまったのかもしれない。 友雅は眉をひそめて、ランの手をほどいた。 「いるよ。君は君のまま、ここにいる。私を惑わせた、美しい神乙女のままだ」 そう言って、友雅はきつくランを抱きしめた。それは息が詰まるほどの強い力で、苦しげに呼吸を繰り返すランの口唇を、友雅は更に自分のそれで塞ぐ。 深く口接けられ、本当に息ができなかった。角度を変える時に、一瞬口唇が離れるその合間に、かろうじて息をする。しかし、それではすぐに足りなくなって、ランは自分からも動いて、彼の動きに合わせるようにした。 次第に新たな苦痛は、以前のものを覆い潰していった。そうして、呼吸を整える事のみに意識を傾けていると、段々遊離していた心も戻ってきて、確かに友雅の腕の中にいる自分を感じる。彼の腕の形、腕の動きが、そのまま自分の身体の輪郭だ。 「ん…、んん……」 ランは自分からも友雅を求めながら、もどかしげに彼を抱きしめた。 嘘でも幻でもいい。この拡散しそうな自分をつなぎ止めてくれる、強いものが欲しかった。 「はあ…っ」 苦しげな吐息が漏れる。その息にさえ瘴気が混じり、黒い気はすぐに狭い車の中を満たした。
|
[創作部屋トップ]