その涯を知らず ―― 皐月(5) ――
翠 はるか
邸に着くと、友雅はきつく人払いを言い渡して、寝室に入った。 褥にランを降ろし、自分の帯をほどくと、袍と袿を脱ぎ捨てる。そのままランに重なりながら、彼女の帯もほどいた。襟から手を差し入れ、彼女の身体を隠す衣を落としていく。 「ん…、ああ……」 友雅の強引なほどの動きに、ランは声を上げる。すぐに一糸まとわぬ姿にされ、同じく単衣を脱ぎ捨てた友雅に身体を重ねられると、その熱を感じるだけで肌がぞくりとした。 「あ…っ」 艶を含んだ声を漏らし、ランは身体をよじらせた。友雅がそれを引き戻すように彼女の肩を押さえると、ランは今度は彼を抱き寄せて、口唇を求める。求められて、友雅は何度も深く口接けた。その彼の額には、既にうっすらと汗がにじんでいた。 彼女が欲しい。その想いが熱となって、友雅の身体を昂ぶらせる。 ―――蘭。 口唇は塞がれているから、友雅は心の中で何度も彼女の名を呟いた。その呟きが、また熱い楔となって、友雅の心に打ち付けられる。あまりの熱で、目眩がした。 ―――蘭。 だが、幾度も彼女の肌に口唇を落とす内に、友雅は彼女の内から溢れ出した瘴気が、彼女の内に戻っていくのに気付いた。漂う黒い気が彼女に吸い込まれ、だが、その白磁のような肌は、少しも変わらない。 …これは…、この間と同じだ……。 友雅は愛撫の手を止めた。 彼女を抱きたい。だが、そうしてしまったら、彼女はきっとまた鬼の術に取り込まれる。 あの日の朝、温もりひとつ残さずに消えてしまったように。この夜が明ければ、彼女はあの男のものになるのだ。 「…どう、したの?」 急に動きを止めた友雅を、ランが不思議そうに見上げる。それを、友雅は鋭い視線で見返した。 「君は、やはり闇の神子だね。他の男のものだと言ったその口唇で、私を捕らえようとする。私に、君を鬼へ戻す手伝いをさせようとしている」 「何、を……」 友雅は蘭の両腕を掴んで、褥に押し付けた。 彼は苛立っていた。彼女に請われるままに、現世へのこだわりを消し、彼女を鬼のものにしてしまうのは嫌だった。 だが、このまま自我をとどめて、天真のもとへ帰してしまうのも嫌だった。 彼女を誰のものにもしたくない―――いや、もっと業が深い。自分が彼女を独占したいのだ。 鬼がまた彼女を利用すると考えるのも、彼女を連れ戻せば天真が喜ぶだろうと考えるのも、不愉快だった。 友雅は苦々しげに笑んだ。 今までも、自らを焼き尽くすほどの情熱など、馬鹿らしいと思っていた。だが、こんなにも馬鹿らしく、みっともないものであったとは。 「蘭、貴女はなんて残酷な姫君なんだろうね」 不意に蘭がびくりと震えた。 「い、や…。呼ばないで」 友雅は眉を寄せる。彼女は名を呼ばれた事に反応しているようだ。 「名を呼ばれるのが嫌なのかい? 嫌な事を思い出してしまう?」 「分からなく…なる。あなたの声は、お館様と別の方向から聞こえる。…地の青龍とも、違う。どこへ行けばいいのか…、分から、ない…」 友雅は再び笑む。どこか歪んだ微笑だった。 「そんなに、呼称に力があるとはね。では、この名を囁き続けたら、君の術は解けるかな。…けれど、その前に君の心がもちそうにないね」 「い、いや……」 ランが怯えたように、友雅から逃れようと顔を背ける。そのため、かえって顕わになった彼女の耳元に、友雅は口唇を寄せた。 「……蘭」 「…あっ」 ランの身体が跳ねる。その身体を押さえつけ、友雅は更に囁きかけた。 「蘭…。…蘭……」 「いや…。いや、やめて!」 ランが苦しげに叫ぶ。収まりかけていた瘴気が、再びざわめき始めた。 「いやあっ!」 叫びと共に、それまで逃れようとしていたランが、涙で滲んだ目をかっと見開いて、友雅を睨みつけた。 かすかな室内光を映して輝く瞳が美しい、と友雅が気を取られた瞬間、首筋に熱い痛みが走った。 何事かと考えるより先に、その熱いものが首を伝って、ランの顔の上に滴り落ちる。それは鮮やかな緋色をしており、鉄に似た匂いを放っていた。 ―――血。 友雅は自分の首筋に指を這わせた。喉の辺りに、深くはないが、三寸ほどに渡る傷ができている。 次いで、彼はランを見下ろした。彼女は、いつの間にか友雅の腕を振りほどいており、構えたままの右手の爪先には、同じく紅いものが伝っていた。 「……………」 友雅はしばしの沈黙の後、ふっと笑った。そして、ランの頬に口唇を寄せ、涙のように頬を伝う紅い流れを、吸い取っていく。それが済むと、今度はランの右手を取り、血のついた爪を指ごと口に含んだ。 次第に、強張っていたランの身体から力が抜けていく。友雅はランの爪を綺麗にし終えると、身体を起こして、自分を凝視するランを見つめ返した。 「…いいよ。消してあげる、何もかも。その身を支配する呼び声も、その身を焼く禍火(まがび)も。だから、今は私だけを見ていなさい。他に何も見ないで、何も聞かないで。この腕の中にいる間は、君は―――」 友雅は言葉を途切れさせ、ランの胸元に口接けを落とした。強く吸って、きめ細かな白い肌に鮮やかな紅い跡を残す。 「私の神子だ」 そのまま、友雅は激しく動き始めた。彼女の全てに自分を刻むように、口接けを降らしていく。 「あ、あ…っ」 その動きに、ランは声を上げ、友雅の頭をかき抱いた。髪に指を絡め、撫で梳きながら、時折請うように引っ張る。彼が動くたびに、彼の熱が自分の身体にすり込まれ、自分の内からもわき上がる熱と合わさって、ランの身体を紅潮させていく。その熱に溺れてしまいたくて、ランは目をつむって、余計な感覚を閉じた。 身体が熱い。頭も沸騰しそうだ。このまま、灼熱の海に溺れて、何もかもが消えてしまえばいい。 ランの瞳から、透明な涙が一筋すべり落ちた。 ――――消えてしまいたい…。
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