その涯を知らず  ―― 水無月(1) ――

                  翠 はるか



 水無月に入り、十日を数えた頃。
 龍神の神子の住まう土御門邸では、神子を始め、星の姫、八葉が揃い、最後の決戦に向けて、士気を高め合っていた。
 今朝の空は暗雲が処々にたなびいていて、だが、地上の木々はそよとも揺れない。その様子は、これから起こる何かを、身を潜めて窺っているかのようだった。まさに嵐の前の静けさという表現がふさわしい。
 その空を、友雅は柱に持たれかかりながら眺めていた。その表情は静かだ。だが、それはこの景色と同じ種の静けさだった。
 その時、一向に人の輪に入って来ない彼を気にしたのか、部屋の中から、彼の対の八葉である天の白虎、藤原鷹通が出てきた。
「友雅殿、中に入られないのですか?」
 友雅はその声に、ゆっくりと振り返った。いつもより固い表情の鷹通を見て、からかうような笑みを浮かべる。
「私はいいよ。こういう暑苦しい雰囲気は苦手でね」
「また、そのような……」
 鷹通が呆れ顔になる。だが、不快感は感じなかった。これが彼の性分なのだと、この数ヶ月の内に納得している。とは言え、今ひとつ不安が残る事も確かだが。
「まさか、こんな日に、面倒だなどとは言い出されないでしょうね」
 更に厳しい顔つきになった鷹通に、友雅は小さく笑った。
「そんな事は言わないよ。…私は、この日を待っていたのだからね」
 その時の彼の笑みには、どこか歪んだものがあった。だが、鷹通にはそこまで読み取る事ができなかった。
「そうですか? それならば、安心です。友雅殿が本気になれば、鬼など恐るるに足りません」
「言ってくれるね。では、そろそろ中に入ろうか。出発の時間のようだ」
 立ち上がったあかねを視界に捉え、友雅は部屋の中へと入っていった。



 ――――京の暗雲が晴れる。無数の傷跡を、白日のもとにさらしながら。




 熱を含んだ風が、草木を揺らしながら通り抜けていく。
 そのきらきらしい光景を、庇の間に座って眺める者があった。
 時折、部屋の中にも吹き込んでくる風が、その長い髪を揺らす。舞い上がった髪が頬や首筋にかかり、くすぐったいような感覚を彼女に与える。
 そのまま目を閉じて、風の感触を楽しんでいると、ふと足音が彼女の耳に届いた。その賑やかな足音には聞き覚えがある。
 廊下に顔を出すと、予想通りの人物がこちらへ歩いてきていた。
「お兄ちゃん」
「よお、蘭。起きてたのか」
 蘭に気付いて、天真が笑いかける。蘭も微笑み返しながら、彼が来るのを待った。
 ―――三日前の決戦において、鬼の首領アクラムは、自ら望んで黒龍に呑まれた。だが、あかねが呼んだ白龍は、その彼ごと京に満ちた瘴気を祓い、鬼の野望は完全に打ち砕かれる事となった。
 その戦いが終結すると共に、蘭の呪縛も解かれた。彼女は自我を取り戻し、今はこうして傷ついた身体を癒すために、土御門邸で世話になっている。
「……庭を見てたのか? そろそろ、外に出てもいいぞ」
 すぐに天真はやって来て、蘭の隣に腰を降ろした。その手には、何やら包みを持っている。
「お兄ちゃん、それは何?」
 尋ねると、天真はああと呟いて、ふたつあった内のひとつを蘭に渡した。
「お前とあかねに贈り物だってさ、友雅から」
 蘭の表情が揺れた。ちょうど顔を伏せていたので、天真は気付かない。
「…友雅、さん。地の白虎だった人よね」
 あの決戦の日。誰もが、白龍に召されたあかねに気を取られていた。そんな中で、黒龍が祓われる衝撃で弾き飛ばされそうになった蘭に気付き、捕まえたのは彼だった。その時、視線を見交わし、だが、すぐに天真たちが気付いたので、言葉を交わす事はなかった。そして、それきり会っていない。
 ……とうとう、来たんだ。
「ああ。今、藤姫んところにいる。その内、こっちにも来るだろ。礼くらいは言っとけよ」
「ええ。…それで、これは何かしら」
 蘭は渡された包みを丁寧に開けた。
「あ……」
中には、美しい表着が収められていた。
 蝶が舞う文様だった。
「…綺麗ね」
 蘭はそっとその衣の模様を、指先でなぞっていった。絹の肌ざわりが心地良い。柔らかな布地に、舞い遊ぶ金糸の蝶。蘭はふと微笑を浮かべた。
 その様子を見ていた天真はどきりとした。
 蘭は、時々こんな風に遠い眼差しになって、微笑む事がある。
 鬼の呪縛は解かれたはずなのに、そういう時の彼女は今にも消えてしまいそうで、ひどく不安になる。
「…ああ、そうだ…な。よく分かんねえけど、俺らの世界じゃ何十万とするんだろうな」
「もう…。いきなり値段の話なんて、お兄ちゃんは現金なんだから」
 蘭が笑いながら顔を上げた。その表情には、先ほどまでの儚さはなく、天真は内心で安堵の息をついた。
「悪かったな。それじゃ、俺、あかねのとこにも届けてくるから。また後でな」
 胸に湧いた不安を払拭するように、天真は素早く立ち上がると、廊下へ出て行った。が、すぐにしかめっ面で、蘭を振り返る。
「あのさ、あいつ、すっげー女たらしだから。礼くらいはいいけど、あんま近づくんじゃねえぞ」
「えっ?」
 思いがけない言葉に、蘭は咄嗟にこみ上げるものを飲み込んだ。
 悪いが、もう少しで笑ってしまいそうだった。
「…うん。気をつける」
 そう答えると、天真は笑って、あかねの部屋のほうへ向かって行った。少しして、蘭はその後を追うように廊下に出る。ちょうど天真の姿が廊下の曲がり角に消え、入れ替わるように、反対から静かな足音が響いた。


―― 続 ――


 

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