その涯を知らず  ―― 水無月(2) ――

                  翠 はるか



 その足音が近づくのを待って、蘭は振り返る。視線を受けた人物は、ゆっくりと口元に微笑を浮かべた。
「ごきげんよう、姫君」
 蘭は、しばし無言で、口元とは裏腹に笑っていない彼の瞳を見つめる。そして、やはり微笑み返した。
「こんにちは。…友雅さん」
 友雅は一瞬笑みを引っ込め、妙な顔つきになった。彼女が自分の名を呼ぶのが耳慣れず、違和感すら感じた。
 考えてみれば、自分は思いがけず彼女の名を知ったが、彼女が自分の名を知ったのは、この邸へ来てからだろう。自分たちは、名乗り合いすらしなかったのだ。
 奇妙な縁だと、改めて思う。
「衣は受け取ってくれたかい?」
「ええ。綺麗な着物をありがとう」
「礼など言わなくていいよ」
 友雅は再び歩き出した。彼女のすぐ前まで来て、足を止める。
「あれは、君に会うためと、天真をその間遠ざけておくための口実だからね」
 今度は蘭の笑みが引っ込む。だが、すぐに元の顔に戻った。
「…だったら、今のは三日前の分という事にするわ」
 そう言った途端、友雅の瞳がすっと細められた。素早く両手で彼女の頬を包んで、自分のほうへ視線を固定させる。
「君…、術をかけられていた間の事も、ちゃんと覚えているのだろう?」
 蘭は一瞬表情を強張らせた後、頷いた。アクラムの術は、記憶を封じる効果があるが、記憶を消すものではない。術をかけられていた間も、その力が弱まれば、記憶は甦ってきた。当然、術が解けた瞬間に、その間の記憶は完全に甦っている。
 彼と会っていた時のことも。
「だったら、尚更、お礼を言う必要なんてないだろう。私は君を助けたかった訳じゃない。あの男と同じ事を君にしたいんだ」
 蘭の瞳が見開かれる。それを見て、友雅はかすかに苦い笑みを浮かべつつ、彼女から手を離した。
「だが、今日はこれで帰るよ。君の様子を見に来ただけだからね」
 けれど、次に会う時は分からない。
 言外にそう言い残し、友雅は元来た方向に身体を向け、歩き出した。
 次第に遠ざかる彼の背を見送っていた蘭の口元に、ふと笑みが浮かぶ。
 この人…なら……。
 すっと、蘭の瞳が閉じられた。それと同時に、その身体が崩れ落ち、廊下に重い音が響く。
 驚いた友雅が振り返り、廊下に倒れ伏した蘭を見て、顔色を変えた。
「蘭っ?」
 慌てて駆け戻り、彼女を抱き起こす。彼女の顔色は、いつの間にか青ざめていた。
「…ん…、こふっ…」
 意識はあるようで、蘭は苦しげに身体を丸めながら、妙な咳を繰り返した。咳はなかなかおさまらず、蘭は両手で口元をおさえ、それを堪えようとする。
「どうした、蘭……」
 友雅が尋ねようとした時、不意に彼女を支えている腕にぴりっとした痛みを感じた。はっとして、そちらを見ると、彼女の背から黒い陽炎のようなものが立ち昇っていた。
 これ…は…、瘴気!? なぜ、また…。
 友雅がそれを凝視していると、その瘴気はゆらりと揺らめいて消えた。それと同時に、蘭が一際大きな咳をした。
 途端にびちゃりと液体が滴る音がして、鉄のような匂いが友雅の嗅覚を刺激する。あの晩、今も友雅の首筋に残る傷をつけた時のように。
「ら、ん……」
 蘭の両手指の間から、赤褐色の血が溢れ出していた。それは彼女の着物に滴り落ちて、紅い染みを作る。
 友雅は蘭を抱き寄せ、顔を上げた。
「誰か! 誰かある!」
 静かな離れに、友雅の声が響き渡る。すぐに、その声を聞きつけた女房や警護の者たちが集まってきた。
「少将様、どうされ…。まあっ…!」
 女房たちは吐血の跡を見て、一様に顔色を変えた。だが、友雅はそんな事には構わず、彼女たちに寝床の準備や必要な事を言い付けていく。
「おい、何かあったのか!」
 しばらくして、不意に割り込んできた声に、友雅は目を細めてそちらを見た。天真が慌てたように、自分のほうへ駆け寄ってきていた。
「おい、友雅…、……蘭!?」
 天真が蘭に気付き、顔色を変える。すぐに駆け寄ってきて、吐血の跡に更に青ざめた。
「友雅、これは……」
 天真が、狼狽しきった顔で友雅を見る。友雅はそれを一瞥すると、蘭を横抱きにしたまま立ち上がった。
「説明は後だ。それより、急いで藤姫のもとへ行き、薬師を呼ぶように伝えてくれ」
「友……。わ、わかった!」
 天真は弾かれたように身を翻し、藤姫の部屋のほうへ駆けていった。それを見送って、友雅は蘭を彼女の部屋の中へ運んでいく。寝所は女房たちの手によって既に整えられており、そこへ彼女を降ろす。
 その力ない肢体に、友雅は、嫌な予感が足元から這い登って来るのを感じた。
 蘭は血を吐いた後、すぐに意識を失い、今は何の反応も見せない。体温がないかのようにひどく青ざめ、息をしていないかのように呼吸は静かだ。
 蘭、君は……。
「…あの、少将様。後は、私どもで致しますから。汚れた着物を変えなければなりませんし、少将様もお召し物に血が……」
 女房の一人が、動かない友雅に遠慮がちに声をかけてくる。その言葉で我に返った友雅がはっと辺りを見回すと、自分が蘭と女房たちの間の通路を塞いでしまっているのに気付いた。
「すまない、私がいては邪魔だね。それでは、後は頼むよ」
「はい、承知いたしました」
 友雅が立ち上がると、すぐに女房たちは蘭の世話を始めた。その様子をしばし見届けてから、友雅は部屋を出て行く。その表情は険しかった。
 血を吐くなど、ただ事ではない。それに、一瞬現れたあの瘴気。
 彼女は……。
 友雅は口唇をかみ、廊下に立ち尽くした。




「……ん…」
 日もすっかり落ちた頃、蘭はようやく意識を取り戻した。
 ひどく重く感じるまぶたを上げると、ぼんやりと部屋の様子が目に入る。
 ……ああ、そうか。
 意識を失う前の事を思い出し、蘭は目を伏せた。気が緩んだのだろうか、もう少しもつと思っていたのだけど。
 ほうっと息をつくと、不意に近くで物音がした。
「蘭、目が覚めたのか?」
「あ…っ」
 誰かいるとは思っていなかった蘭は、驚いてそちらへ目を向けた。と言っても、几帳に遮られて見通す事はできなかったが。
 だが、すぐにその几帳の帷子がよけられ、天真が顔を出した。
「お兄ちゃん…」
「気分はどうだ?」
 暗い中でも、彼が心配げな表情をしているのが分かる。蘭は小さく笑って、それを見返した。
「大丈夫よ。お兄ちゃん、ずっとついててくれたの?」
「ああ、さっきまでは他にも女房とかがいたんだけどな」
「そう…」
 蘭は呟き、次いで、何気ないような口調で尋ねた。
「……友雅さんは?」
「あいつ? もう帰ったぜ。しばらくは、いたみたいだけど」
 その返答に、蘭は落胆を覚えた。だが、それを顔には出さない。
「…そっか。迷惑、かけちゃった」
「んな事、気にするなよ。それより、もう少し寝てたほうがいいんじゃないか? 俺、まだここにいるからさ。ゆっくり休めよ」
「…ありがと。それじゃ、そうするね」
「ああ、お休み」
 蘭は頷いて目を閉じた。天真はその寝顔を切なげな顔で眺めた後、静かに寝所を出ていく。すると、蘭が再び目を開けた。
 格子が降りた寝室には、月光は差し込んでこない。だが、夜を満たす月の力を肌で感じる。
 今夜は十三夜。
 …もう、時間がない。


 次の日、皆は止めたが、蘭は床を払って起き出した。
 吐血の跡を見ていた天真は最後まで止めたが、蘭が強硬に大丈夫だと言い張ると、承知した。その時には、蘭の顔色が大分よくなっていたためもあるが。
 起き出した蘭は、女房に頼んで硯箱を借りた。文を書くと言ったら、一緒に美しい薄様をくれたので、それに丁寧に文を記していく。
 ―――明日の夜に…。
 書き上げた後、蘭は筆を置き、その文を読み返した。
 …これでいい。これでやっと…終われる。
 蘭はゆっくりと微笑み…、その瞳から涙がこぼれ落ちた。
「……っ」
 蘭の身体が小刻みに震える。狭い室内に嗚咽の音が響いた。

 しばらくして顔を上げた蘭には、もう涙の跡は残っていなかった。
 彼女は書き上げた文を折り結んで脇に置き、もう一枚紙を取り出すと、それにも短く書きつけをした。それをたたんで文箱の中にしまい、結び文のほうは、女房に届けてくれるよう頼む。
 その後は、一日天真と過ごした。

 そして、夕刻。蘭のもとに文が届けられた。
 綺麗な銀色の紙には、一言「望月を待たむ」と書かれている。
 蘭はそれに目を通した後、紙燭にくべて跡形もなく燃え上がらせた。


―― 続 ――


 

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