夜も更け、人も寝静まる頃。離れの廊下を静かに渡る人影があった。
晴れた夜空に冴え渡る望月が、その足元を照らす。その光に導かれて、彼はひとつの部屋にたどりつき、そっと中へ入っていった。
「…待っていたわ」
扉を閉めると同時に、薄暗い室内から声がかかる。友雅がそちらへ目を向けると、蘭が御簾の脇にたたずみ、微笑みながら彼を見つめていた。
「…望み通り、やって来たよ」
友雅が蘭のほうへ近づいていく。蘭も御簾の影から出て、彼のほうへ歩いていった。数歩分残して立ち止まり、互いに視線を見交わし合う。そして、蘭のほうから口を開いた。
「…行きましょう」
「支度は済んでいるのかい?」
「ええ。私の持ち物はこれで全部だから」
そう言って、蘭は自分の身体を見下ろした。
彼女は、鬼の元にいた頃の丈の短い着物を身に付け、友雅が贈った蝶の衣を羽織っていた。そして、首には天真のものと色違いの首飾りをかけている。
「そう。では行こうか。その前に、これを羽織って」
友雅は、持参した紺色の袿を蘭に渡した。彼女は頷き、闇に紛れるその衣をふわりと羽織る。
そのまま、二人はそっと部屋を出て、車宿のほうへ向かって行った。夜更けとは言え人影は皆無ではないから、見咎められないように、できるだけ気配を殺して歩く。
何とか誰とも会わずに車宿にたどりつき、友雅は息をついた。従者には言い含めてあったので、友雅と蘭が現れると、彼らはすぐに二人を牛車へ乗せ、出立した。ここまで来れば、とりあえず安心だった。
「やれ…。この邸を訪ねるのに、こんなに緊張したのは初めてだよ」
土御門邸の門を出てすぐに、友雅が脇息にもたれながら呟く。蘭は袿を肩から落としながら、小さく笑った。
「ごめんなさい、無理を言って」
あまりすまなさそうには聞こえない声音に、友雅は軽く肩をすくめる。だが、ふと何かを思い出したように、彼女を見返した。
「確か、君は遠く離れた地でも瞬時に移動できる力を持っていたね。この間は、突然牛車の前に現れて、従者たちを驚かせてくれたが…。私に連れ出してほしいと頼んだという事は、もうできないのかい?」
その問いに、蘭はふっと微笑を消した。少しの間の後、今度は苦い笑みを口元に浮かべる。
「……ええ。もう、できないわ」
「…そうか」
友雅は、それきり何も言わなかった。蘭も口を閉ざし、目的の場所へたどり着くのを静かに待つ。
二人が向かっているのは、八条にある友雅の別邸。昨日、蘭が友雅に送った文は、今日の夜、その邸へ連れて行って欲しいと頼むものだった。それを友雅は承諾し、今夜、こうして彼女を迎えに来た。
…一体、何をする気なんだろうね。
友雅は、時折、彼女の表情を盗み見た。だが、その表情は静かで、感情も窺わせない。
それでも、ある確かな予感が彼の心を占め、八条邸が近づくにつれ、彼の気分を重くしていった。
八条邸に着くと、友雅はいつもの―――金木犀のある林に面した寝室へ、蘭を連れて行った。こちらにも、事前に言っておいたので、余計な者は出てこない。
「…ふうん、ここからはあの林がよく見えるのね」
蘭は部屋の前の廊下で立ち止まり、鬱蒼とした雰囲気の林に目を向けた。今日は風がなく、身動きひとつしない林は、かえって不気味に思える。
「そうだね。強風が吹くと、金木犀が香るくらいには」
友雅がそう答えると、蘭は笑い、次に部屋の中へ目を向けた。中は、女房たちに整えられており、紙燭が幾つか点されている。蘭は軽く目を細めてそれを見ると、中に入り、ひとつひとつ吹き消していった。
「蘭?」
「…紙燭の明かりなんていらないわ。月の光だけ、感じていたいの」
最後のひとつを消し終わると、部屋の中は暗く沈んだ。だが、月光に照らされた部屋は、冴え冴えとした雰囲気をまとい、趣がある。
月光に照らされた蘭も、ほのかな光をまとい、この上なく美しかった。
「…どうして、こんなこと頼んだのかって思ってる?」
不意に蘭が呟く。友雅が黙って見返すと、蘭はゆっくりと彼の前に戻ってきた。
廊下に出ると、月光が遮られることなく、彼女の身に降り注ぐ。そのため、見える。月光と共に、かすかな黒いものもその身にまとわりついていた。
「……見えるのね」
友雅の目がかすかに細められたのに気付き、蘭が目を伏せながら言う。その睫毛が落とす影が美しいと、こんな時ながら彼は思った。
見える。今までにも幾度か見た、彼女のうちに住む黒いもの。澱んで、冷たい、怨詛の塊。だが、その禍々しさが、少しも彼女の美しさを損なわないのは、どういう訳だろう。
友雅が黙っていると、その意味をどう解したのか、蘭は顔を上げて明るく笑った。
「でも、大丈夫。出てこないわ、今は。……だから」
蘭は笑みを消し、すっと表着に手を伸ばした。それを肩から滑り落とし、帯もほどいて、床に落とす。
驚く友雅の前で、蘭は中の着物も脱ぎ捨てた。白磁の肌が、月光に照らされて輝く。
「…抱いてくれる?」
蘭は、友雅の胸によりかかるようにして抱きついた。背伸びをして、頭ひとつ分高い彼の後頭部を引き寄せ、下唇に軽い口接けをする。それ以上は、届かないのだ。
「友雅さん…」
蘭がなじるような響きの声で彼の名を呼び、かがんで欲しいと訴える。それでも友雅が動かないでいると、焦れたように再び下唇に口接け、顎の辺りにも何度も口唇を置いていく。
「蘭……」
思いがけない蘭の行動に、友雅は咄嗟に身を引こうとする。だが、彼女がしっかり友雅の首筋に抱きついていたので、一緒に彼女も後ろに下がる。そのため均衡を崩した彼女を支えようとして、結果、抱きしめる形になった。
柔らかくて熱い肌に触れた途端、友雅の内にも熱が灯る。
「……蘭」
友雅は目を閉じ、上から覗き込むような形で、蘭に口接けた。すぐに蘭が口唇を薄く開き、彼を深く誘い込む。
熱く舌を絡め、口接けは、次第に激しさを増していく。それと同時に、友雅の中の不安も膨らんでいった。いつしか褥に移り、肌と肌を直接触れ合わせるようになると、それはますます膨れ上がる。
蘭は友雅の腕にすがり、熱く吐息を漏らし、恋人を求めるように振る舞った。
…そう、か……。
友雅が不安の正体に気付き、かすかに眉を寄せる。不安に思うのは、蘭の態度がいつもと逆だからだ。
彼女はいつも何も残さなかった。彼に求めるだけで、それが済むと朝霧のように儚く消えていく。だが、今宵、彼女の視線は彼一人に注がれ、その耳は彼の睦言だけを聞く。そして何より、彼女は彼に何かを与えようとしている。
この情事もそのひとつ。彼女は友雅が刻む快楽に震えるだけでなく、彼にもそれを与えようと積極的に動いた。ひどく不安で、けれど、今までよりずっと深い悦楽に、友雅は飽くことなく彼女の肌を求め、深い所で溶け合った。
喘ぐ二人の上で、押し迫るように夜が更けていく。
―― 続 ――
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