その涯を知らず  ―― 水無月(4) ――

                  翠 はるか



 丑の刻(午前二時)になるやならずやの頃、二人は火照った肌を夜気にさらしていた。
 友雅は蘭に腕枕をして、もう片方の手でその髪を撫でている。これも初めての事だ。
 蘭はぼんやりとした表情で、友雅の胸に頬を寄せていた。彼のつけている、落ちついた香りは蘭の心も穏やかにした。力強く抱き寄せる腕と、優しく髪を梳く指先も、彼女の存在をくるみ込むようだ。
 …この人に所有される事は、きっと心地の良いことだろう。
 いっそ、このまま眠ってしまいたいとも思った。けれど、それはできなかった。
 ……もう、行かなくちゃ。
 蘭は行き難い気持ちを押さえて、自分の髪を撫でている友雅の手をとどめた。乱れた髪をかき上げながら身を起こす。
「蘭?」
 怪訝そうに見上げてくる友雅に、蘭は笑いかけた。
「行きましょう。あの金木犀の所へ」
 瞬間、友雅の表情が強張る。だが、蘭は構わずに褥を出て、庇の間に散らばっていた着物を集め、身につけた。
 着終えて、褥を振り返ると、しばらくして友雅が出てくる。少し乱れているが、ちゃんと直衣を着込んでいた。
「それじゃ、行きましょう」
 蘭は宣言するように言い放ち、返事も聞かずに外へ出た。


 林の中は木々が暗い影となって、二人の前に立ち塞がる。だが、歩きなれた道のこと、月の光もあって道に迷うような事はない。
 やがて、金木犀の所へたどり着くと、蘭は小走りにその木へと駆け寄っていった。花はもちろん咲いていないが、蘭はその幹を愛しげに指でなぞっていく。
 楽しげですらある様子に、友雅はとうとう口を開いた。
「…蘭。そろそろ教えてくれないか」
 ぴたりと蘭の動きが止まる。少しして振り返った彼女は、どこか諦めたような、苦笑のような笑みを浮かべていた。
「…気付いてるでしょ。私…、もうそんなに長くは生きられないの」
「蘭……!」
 息を呑む友雅の前で、蘭は更に言葉を続ける。
「いいえ、そんなにどころか、きっと次の望月までも…。いえ、新月までももたないわ。だから、どうしても今夜、ここへ来たかったの」
 そう言って目を伏せる彼女に、友雅は押し殺したような声を発した。
「…その、黒いもののせいか。それは一体何なんだ?」
「最初に黒龍を呼んだ時の力の残骸。今は押さえているけど、いつも私を食い破って、外に出ようとしている」
「それは、白龍の力では祓えなかったのか?」
「ええ…。もう、私の一部になってしまっているもの」
 それに、祓えたとしても、その時に起こるだろう激しい陰陽の均衡の崩れに、身体がもたない。どの道を選んだとしても、自分のゆく末は決まっているのだ。
 蘭は寂しげに笑い、そっと胸の辺りに両手を当てた。自分の鼓動と、もうひとつ息づいているものの胎動を感じる。
「…白龍が呼ばれて、京の理は整った。龍神の神子はその役目を終え、力を失う」
 友雅がはっとした表情になる。蘭はゆっくりと頷いた。
「私の力は、もうほとんど残っていない。今夜を境に、更に弱まって消えていく」
「……それで?」
 少しの沈黙の後、友雅が先を促す。その表情は険しかった。
「その前に、私の最後の力で、この瘴気を浄化する」
 最後の力―――つまりは、彼女自身の生命力。
「このまま私の力が尽きれば、この瘴気は京に飛散する。そうなれば、また何十人と人が死ぬ。…いえ、水源が冒されるような事があれば、何百人かもしれない」
「それで、自分を犠牲にするというのか?」
 友雅が怒ったような声音で問う。いや、実際に彼は怒っていた。
「どうせ、残った寿命もそう変わらないわ」
「それでも、まだ生きていられるんだろう! 今さら、自らそれを放棄する事で、罪滅ぼしをしたいなど殊勝な事を言うつもりかい?」
 追いつめる言葉に、蘭は傷ついた風もなく、ただ笑う。
「こんなこと、今まで私が消した命に比べれば、些細なものよ。…だから、これは私の自己満足。私は気休めをしたいだけなのよ……」
「…では、何故私を呼んだ?」
 蘭が顔を上げて、友雅を見つめる。その眼差しは静かで、強かった。
「私に何を望んでいる?」
「……あなたなら、私の中のものを見ても、逃げ出したりしないと思ったのよ」
 蘭は一瞬泣きそうな表情を浮かべ、それを隠すように友雅の胸に顔を埋めた。
「私が死んだら、この木の下に埋めてくれる? 私、この木が好きだった。小さな花も、涼やかな香りも。この木を見つけた時、とても懐かしくて、暖かい感じがした。ここにいる時、私とても安らげた」
 何故、そう感じたのかは、記憶を取り戻した時に思い出した。自分の家の庭にも、金木犀が植えられていたのだ。小さい頃は、花を糸でつなぎ、首飾りを作ったりして遊んだ、暖かな思い出の木。
「私の物も、全てここに埋めて。そして、誰にも知らせなくていい。この場所を知るのは、あなただけでいい」
 友雅が軽く目を見開く。蘭は顔を上げ、ゆっくりと彼から離れた。
「お兄ちゃんに、私が死んだ事だけ伝えておいて。そして、三人で家に帰ってと」
 蘭はくるりと友雅に背を向け、金木犀を見上げた。
「蘭!」
「来ないで! それ以上近づいたら、あなたまで巻き込まれる!」
 背中越しに叫んで、蘭は金木犀の枝を抱くように、両手を広げた。
 ……花を咲かせて。私はきっと瘴気に呑まれて、醜く死んでいくだろう。その降りしきる雪のような花弁で、私の死体を覆い隠して。そのむせかえるような芳香で、私の腐臭を隠して。そして、私という存在の全てを、この世界から隠してほしい。
 蘭の身体から光と瘴気が溢れ出す。それと共に、ゆっくりと金木犀が花開き、涼やかな香りが辺りに漂い始めた。
 金木犀の芳香。そして、橙黄色の小さな花。それらが、黒い瘴気を包む蘭の光を、更に包んでいく。
 光と闇と金木犀の舞い。それらは絡み合いつつ、次第に上昇していく。辺りの木々を揺らめかせ、極上の音色を奏でながら、澄んだ夜空を舞い遊ぶ。そして、望月に吸い込まれるように消えていった。
 同時に、どさりと重い音が響く。友雅はゆっくりと視線を地上に戻した。
 蘭の身体が地に倒れ伏していた。表着の袖が羽のように広がり、大きな蝶が横たわっているように見える。
 友雅はそっとその脇に膝をつき、蘭の身体に手をかけた。抱き起こすと、力ない肢体は、何の抵抗もなく友雅の腕の中に収まる。
「……蘭」
 友雅は蘭を懐深く抱き込んだ。その身体は冷え切り、何の反応も返さないが、しばらくこのまま抱きしめていたかった。
 ―――その胸に湧き上がるのは、怒りと悲しみ。そして、隠しようもない喜び。


―― 続 ――


 

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