次の日の朝、天真は身支度を済ませた後、蘭の部屋へ向かった。
「まだ、寝てっかな…」
呟きながら、いっそう儚げな様子になった妹の顔を思い出す。
血を吐いたのはあれきりだが、とても安心できない。そろそろ、自分たちの世界へ帰ったほうがいいとも思っていた。あちらのほうが、ここより医療施設は格段にいい。何か病気にかかっているのなら、体力の回復など待っていないで、向こうで入院させたほうがいいだろう。
その話もしようと考えている内に、蘭の部屋の前に着いた。部屋の格子は、まだ降ろされている。
……寝てるのか。出直すかな…。
起こしては悪い。だが、天真はそのまま帰ることにためらいを感じた。夜、離れている内に、また血を吐いたのではないかと、嫌な想像ばかりが頭を巡る。
本当は、夜も側についていたい。でなければ、女房でも誰でもいいから側についてて欲しい。だが、本人が側に人がいると休めないと言い張るので、仕方なかった。
……顔だけ見ていくか。
天真はそっと妻戸を開けて、中に入った。足音を立てないように、寝所のほうへ歩いていき、褥を囲う几帳をそっと避け―――目を見開く。
そこには、誰もいなかったのだ。
「蘭?」
慌てて部屋の中を見渡す。だが、誰の姿も見えない。
一体…。いや、落ち着け。単にもう起きてて、どっか歩き回ってるんだろう。仕方ないな。
天真は出口のほうへ身を翻した。そして、鮮やかな色の紙が、文机に置かれているのに気付く。
綺麗に折りたたまれた紙の表には、文字が書き連ねてあった。よく見てみると、それは『お兄ちゃんへ』と書かれていた。
「俺に…?」
天真は首を傾げながら、その紙を拾い上げた。広げて、中の文を読み進めていく内に、天真の顔色が変わる。
「な…、何だよ、これ」
たった三行の短い文。
『お兄ちゃん、迎えに来てくれてありがとう。嬉しかった。
けど、私はもう帰れないから、お兄ちゃんだけ家に帰って。
そして、私の事は忘れてください。さようなら』
何度も読み直すが、内容は変わらない。
帰れない? さよなら? 一体、これはなんだ。
穏やかでない内容に、不安が急速に湧き上がる。じっとしていられなくて、その紙を持ったまま、部屋を飛び出した。離れの建物や庭を歩き回り、出会う人皆に蘭を見なかったか尋ね歩く。
だが、誰も見た者はいなかった。
その内、天真の様子がおかしい事を知ったあかねや詩紋が彼の所にやってくる。蘭の文を見て、彼女らも慌てて蘭を捜したが、蘭は見つからなかった。
「―――どういう事だ? もう、この邸にはいないって事か?」
一旦、三人は天真の部屋に集まり、顔をつき合わせて話し合う。
「うん。いくら広い邸でも、これだけ探していないんじゃ…。あ、それなら、門番の人に聞いてみようよ」
「そうだね。…あ、でも、妹さんって瞬間移動できるんじゃなかった?」
詩紋の一言に、二人ははっとした顔になる。
「そういや、そうだ。…それに、抜け道とかもあるしな。出てったにしても、門を通ったとは限らないか」
天真がちらりとあかねに視線をやりながら言う。あかねは決まり悪そうに、あさってのほうを向いた。
「ん〜。でも、あの抜け道を蘭ちゃんが知ってるとは思えないよ。来たばっかりだし、私もそんな話はしなかった」
「ああ、俺もしてねえな。…とりあえず、門番の奴らに話を聞いてみようぜ。それと、その前に頼久を捕まえて、昨夜の警護中に何か見た奴がいないか調べてもらおう」
「そうだね、よしっ」
三人は頷き、立ち上がった。そして、意外な名を門番から聞いた。「友雅さん?」
「ええ。昨夜、こちらへいらしたのは少将様だけです」
武士団の一人である門番たちは、元神子と八葉である彼らに丁寧に応対してくれた。
「もっとも、他に女房に通う男などもやって来ましたが、彼らはそれぞれ一人でしたよ。徒歩ですから、すぐ分かります」
「そうですか……」
「ですが、聞かれてみれば妙でしたね」
「えっ?」
「いえ、少将様の事です。小半刻もいらっしゃらない内に、お帰りになられたものですから」
「そうなんですか……」
あかねは頷き、とりあえずその場を離れる事にした。邸内に戻りながら、互いに顔を見交わし合う。
「どういう事かなあ」
「どうって…、あいつがここに来るのなんか、いつもの事だろ?」
「うん。でも、すぐに帰ったって。何しに来たんだろ」
天真がひょいと肩をすくめる。
「夜に来たって事は、どうせ女だろ。で、その女を怒らせるとかして追い出されたんじゃねーの」
「ああ……」
あかねは少し申し訳ない気分になりながら、納得して頷いた。
「でも、昨夜ここにいたなら、何か知ってるかもしれないよ。後で、手紙出してみよう」
「そうだな。それじゃ、今度は頼久の所に話聞きに行くか」
天真は言うなり駆け出す。動いている事で少し気が紛れているが、未だ不安は身体を満たしていた。
「何人か人は見かけたが、蘭殿は見かけていないそうだ」
その答えに、三人は落胆した表情を隠せなかった。それを見て、別に彼のせいではないのに、頼久は済まなさそうな顔になる。
「すみません。お役に立てなくて」
「そんな、頼久さんが謝る必要なんてないですよ。…それじゃ、やっぱり友雅さんにも聞いてみようか」
あかねが天真と詩紋を振り返りながら言う。すると、その名を聞いて、頼久は小さく首を傾げた。
「そういえば、昨夜は友雅殿もいらしていたようですね」
「そうなんです。それで、話を聞こうと思って。誰か見かけた人がいるんですか?」
「ええ。確か、その者が見かけたのは、そこの廊下の曲がり……、蘭殿の部屋と近いですね」
はたと三人が顔を見合わせる。その時、彼らの背後で大きな声が響いた。
「あ、龍神の神子様!」
「えっ?」
驚いて振り返る。そこにいたのは、さっきの門番だった。
「あ、門番さん……」
名を知らないので役職で呼ぶと、彼はほっとしたように笑い、あかねのもとへ駆けよって来た。
「どうしたんです? 私に何か?」
「ええ。先ほど、橘少将様がおいでになりまして。気になさっておいででしたから、お知らせに来たのですが」
三人は再び顔を見合わせた。そして、誰からともなく駆け出す。
「門番さん、ありがとうっ!」
「あ、少将様は、もう中に上がっておいでですから!」
「はあいっ!」
三人の姿は、すぐに見えなくなった。
友雅は藤姫の部屋の少し前の廊下を歩いていた。用はもちろん天真にあるのだが、離れの主にも挨拶しておかねばならない。特に、これから騒ぎを起こす事になるだろうから。
だが、そんな彼の思惑は、彼の名を呼びながら駆け寄ってくる、三つの影によって崩れ去る。
「おい、友雅!」
声の元に目を向けた友雅は、三人の姿を見て、すっと目を細めた。そのまま、彼らが自分の元へたどり着くのを待つ。
その切羽詰った表情から察するに、蘭がいない事に気付いたのだろう。
「……やあ、天真、神子殿、詩紋」
「ちょっと、お前に聞きたい事があるんだよ。いいか?」
挨拶を返しもせず、天真は庭から友雅の前に駆け上がった。走ってきたため、荒い息を繰り返しながら、それでも口を開く。
「あのさ…、と、とりあえず、これを見てくれ」
握りしめていた文を、友雅に渡す。文はもうくしゃくしゃになっていたが、それを友雅は丁寧に開き、表情の窺えない眼差しで読み進めた。
読み終えて、友雅が視線を上げると、天真は焦燥も顕わな顔で彼に詰め寄る。
「昨夜、お前ここに来たんだろ? 蘭の部屋の近くを通ってたって…。そん時、蘭を見かけなかったか?」
その言葉に、友雅は小さく肩をすくめた。
やはり、見られていたか。無事に連れ出せれば良かっただけだから、もう構わないが。
友雅はおもむろに蘭の文を二つに引き裂き、懐の中にしまい込んだ。
「おっ、おい、何すん…っ」
「見たよ」
「えっ?」
天真の目が見開かれる。更に、友雅は淡々と続けた。
「彼女を連れ出したのは、私だからね」
「…何だって?」
「彼女からの伝言だ。君たち三人だけで帰ってくれと」
天真の目が更に見開かれる。だが、それには構わず、友雅はくるりと天真に背を向けた。
「確かに伝えたよ。ではね」
そのまま歩き去っていく。天真ははっとして、慌ててその後を追いかけた。
「ちょ、ちょっと待て! どういう事か説明しろよ。蘭はどこにいるんだ!」
友雅の肩を掴んで、無理やり振り向かせる。すると、友雅はこれまで見た事のないような冷たい眼差しで、天真を捉えた。
「亡くなったよ」
「―――え…?」
「遺体は私が埋葬した」
「な……」
衝撃的な言葉に、天真が硬直する。その間に、友雅は天真の手を振り払い、去っていった。
天真は追いかける気力も失い、あかねと詩紋がその側に寄り添って、やはり困惑と驚愕の表情を浮かべながら、友雅の背を見送った。
―― 続 ――