京の街を、秋の気配を感じる風が吹き抜ける。
通りは、内裏から帰る者や、用事で出歩く家人などで賑わっている。少し前まで、昼間でも閑散としていたなど、微塵も感じられない。
その中を友雅の牛車が通っていた。仕事を終え、帰宅する途中だ。
牛車は秋晴れの中をゆっくりと進んでいく。だが、邸の門が見えてくる頃、従者の一人が顔をしかめ、車を止めさせる。そして、中にいる友雅に声をかけた。
「…殿。また、あの少年がおりますが」
のんびりと脇息にもたれていた友雅は、そのままの格好でいつもの指示を出す。
「西門へ」
「かしこまりました」
牛車は正門から西門へと方向を変え、動き出した。
あの決戦から、そろそろ二月が経つ。
京は次第に活気を取り戻し、復興へ動き出していた。傷跡はまだ新しいが、流れゆく時は、優しく残酷に全てを押し流していく。だが、どうしてもその流れに乗れない者もいた。
友雅の牛車が西門から邸内へ入ろうとした時、後方から怒鳴り声が追いかけてきた。
「待てよ、友雅! 今日こそ、蘭の塚の場所を教えてもらうからな!」
従者たちが眉をひそめ、駆けてくる天真に目線をやる。しかし、相手にしても仕方ない事は分かっているので、急いで車を門の中へ進め、何とか彼が追いつく前に門を閉ざした。
「出てこいよ! この人さらい! 今すぐ、あいつの死体をここに出せ!」
どんどんと門扉を叩く音が聞こえる。そして、すぐに門番と彼が言い争う声が響いてきた。
それから逃げるように、従者たちは急いで牛車を車宿に入れる。牛の綱を外し、ほっと息をついていると、中から彼らの主がのんびりとした所作で降りてきた。
「ご苦労、少し休んでいいよ」
友雅は何事もなかったかのように彼らに声をかけ、すぐ建物内へ向かう。その背を、困り果てた表情の従者たちが見送る。
「…あの、殿!」
その内の一人が思い切ったように、友雅に声をかけた。
「あの少年の事ですが、これ以上捨て置けません。話を聞かれるおつもりがないならば、相応の手段を考えられたほうが」
そこまで言うと、友雅がやっと振り返る。
「放っておきなさい」
「しかし、隣の邸の方からも苦情が来ております。妙な噂も立てられているのですよ。せっかく、恐れ多くも主上より格別の信任を頂いておられますのに、このままでは殿の昇進にも障りになります」
「それならそれで、静かでいいよ」
「殿!」
従者が非難をこめた眼差しで友雅を見上げる。だが、友雅はそれを黙殺して、建物の奥へ消えていった。
ため息をつく従者らの後ろで、「絶対に取り返すからな!」という天真の叫びが、重く響いた。
天真はひとしきり叫んだ後、友雅の邸を後にした。その顔や身体には、門番と争った際についた痣があちこちに見える。
ふらふらと通りを歩く彼を、その場にいた者たちは好奇の眼差しで見ていた。ここ二ヶ月ほど、毎日のように左近少将の邸に罵声をあびせる彼は、格好の噂の的だった。
だが、本人はそんな不躾な視線など、つゆほどにも感じておらず、それらの者を押しのけるようにして進んでいく。そして、友雅の邸からひとつ通りを超えた辺りで、二つの人影が彼の前に現れた。
「天真くん……」
あかねが心配げな顔で、天真を見つめている。その隣に、何か大きな包みを持った詩紋もいる。
天真はちらりと二人を見やり、すぐに顔を背けた。
「また来たのかよ」
そのまま歩き出す彼を、あかねは慌てて追いかける。詩紋もすぐにそれを追った。
「天真くん、待ってよ」
「もう話す事なんてないだろ。いいから、俺の事は放っておいて、お前らだけで帰ってくれ。いい加減に戻らねえと、向こうの奴ら心配してるぞ」
「それだったら、天真くんだって…」
あかねは言いかけ、だが、天真に睨まれて口をつぐむ。
「だからだよ。蘭を置いて帰れないだろ。例え、死体でも連れて帰る。こんな所にあいつを残していけない」
「天真くん……」
あかねがたまらず顔を伏せる。もう二ヶ月も経っているのだから、遺体を連れ帰るなど不可能だ。だが、それを彼に言うのは残酷に過ぎる。
あかねが黙り込んでしまうと、詩紋が代わりに天真の前へ出た。
「先輩、これ。少しだけど、食べ物を持ってきたから。後、着物なんかも」
詩紋が手にしていた包みを差し出す。だが、天真はそれを一顧だにせず、払いのけた。
「いらねえよ」
「…でも、これから寒くなっていくし、食べ物にも着る物にも困るよ」
「いらない。どうせ、藤姫に用意してもらったもんだろうが。俺はもう八葉でも何でもないんだ。これ以上、あそこの世話にはならない」
「先輩…!」
詩紋がすがるように天真を見上げてくる。だが、天真はそんな彼を見ようともしなかった。彼らの気遣いと、それに応える余裕のない自分に向き合うのは辛い。
「頼むから、もう帰れ。お前たちまで、俺に付き合う必要はない」
苦しげな声で告げ、天真は走り去っていった。残された二人は、深いため息をついた後、土御門邸のほうへ向かう。
―――彼らは、未だこの京へとどまっていた。
蘭が亡くなったと聞かされた天真はしばらく呆然としていたが、我に返ると、とにかくその話を確かめようと、友雅に蘭の遺体に会わせるよう言った。だが、彼はそれを拒み、埋葬したというその場所すら教えてくれなかったのだ。
天真は戸惑い、何度も友雅のもとへ押しかけた。その内に、戸惑いは憎しみに変わり、天真は土御門邸を飛び出すと、町で日銭仕事をしながら友雅の後を追いかけ回すようになった。
いずれ、蘭の塚を訪れるだろうと思ったのだが、友雅は内裏と自分の家を往復するだけで、どこへも出かけなかった。あれほど艶聞の絶えなかった彼が、女の所すら通っている様子がない。
それでも天真は諦められず、また、そんな彼をあかねや詩紋も放っておけず、今に至っている。
「どうすればいいんだろ……」
帰り際、黄昏の気配を感じさせる空の下、あかねは呟いた。隣を歩く詩紋は頷き、だが、それ以上何も言えない。彼だって、聞きたいくらいなのだ。
「このままじゃ、天真くん、ダメになっちゃうよ」
あかねの声音に、かすかに涙が混じる。いつだって、泣きそうなのだ。これ以上、彼のあんな荒んだ顔を見たくない。
「…うん。せめて、蘭さんの墓にお参りできれば……」
詩紋は呟き、途中で言葉を切る。そう思って、既に友雅のところへ行った。だが、彼は会ってすらくれなかった。文を送っても、なしのつぶて。仕方なく鷹通や永泉に事情を話して、友雅に頼んでもらおうとしたが、友雅はうまく彼らと会うのを避け、たまに会っても人に紛れて逃げてしまう。
どうして、こうなったのか分からない。何が、友雅をああも頑なにしてしまったのか。そもそも、何故、蘭の最期を見取ったのが彼だったのか。
その理由を語ってくれる人は誰もおらず、だから先の事も分からず、二人は今日も重い気分を抱えて、途方に暮れていた。
―― 続 ――