その涯を知らず  ―― 葉月(2) ――

                  翠 はるか



 数日後の望月の晩。
 友雅は右兵衛府の一室で、葉月の望月を眺めていた。
 今夜も空は晴れ渡り、中天にかかる月が美しい。その美しさはある面影と重なり、友雅の心をざわめかせる。
 やがて、彼の口唇から、ほうとため息が漏れた。
 本当は、望月はここでなく、あの木のもとで見たい。だが、天真がつけ回しているから、迂闊に近寄る事ができない。
 どうしたものかと思う。
 思案に耽りかけ、だが、今夜くらいはただ月を愛でていたいと思い直す。月影はさやかで、その光に包まれるのが心地良い。この辺りの部屋には友雅しかおらず、場を支配する静寂も、彼の追憶を助けてくれる。
「月夜見姫……」
 久方ぶりにその呼び名を呟くと、胸の中に熱いものがこみ上げる。ただ言葉ひとつで、彼女はまだこんなにも強い感情を自分にくれる。
 友雅は飽く事なく月を見つめ、全身で月光を感じた。
 だが、少し後、友雅は廊下に響く足音に気付き、眉を寄せた。その後、足音の主が姿を現すと、更に不機嫌そうな顔になる。対照的に、現れた人物のほうは、ほっとした顔をしていた。
「…ようやく捕まえましたよ、友雅殿」
 鷹通が月光を遮るように立っていた。友雅は小さく息をついて、上体を脇息から起こす。
「よく、ここが分かったものだね」
「もちろん、簡単ではありませんでしたよ」
 答えつつ、鷹通が部屋に入って来る。その視線は、注意深く友雅の動向を窺っていた。また友雅が逃げてしまうと思っているのかもしれない。ここまで来て、そんな事をするつもりはないのだが。
「友雅殿…、お話があります」
 改まった口調に、友雅は辟易してそっぽを向く。ここ二ヶ月というもの、他の八葉や藤姫から、幾度同じ事を言われたか知れない。もっとも、他の者から見れば、友雅の行為は非道としか映らないだろうから仕方ないとは思うが。
「分かっているよ」
 返す言葉も、自然と素っ気ないものになった。鷹通はそんな友雅をしばし見遣った後、おもむろに口を開いた。
「私は、元の世界へ帰るよう、天真殿を説得するつもりです」
 思いがけない言葉に、友雅がはっと鷹通を振り返る。彼は変わらず実直な顔つきで、友雅を見据えていた。
「このままでは、誰よりも天真殿にとって不幸です。他の方も、彼のそんな様子に心を痛めている。彼の憔悴ぶりは、見ていて、あまりに痛々しいですから」
 鷹通自身も辛そうな表情になり、友雅に語りかける。今夜は、彼なりに良いと思う方法を考えてここへ来た。この現状を、何としても打破しなければ。
「友雅殿が何を考えておられるのか分かりません。ですが、あなたがそこまでなさるからには、それなりの事情があるのだろうと思います。そうである以上、決してあなたは口を開かれないでしょう」
「…それで?」
 友雅が先を促す。聞いてくれる気になったのだと、鷹通はほっとした。
「しかし、天真殿はそれでは納得されないでしょう。ですから、せめて蘭殿が亡くなった時の様子だけでも教えて頂けませんか? それだけお聞かせ願えれば、なんとか天真殿を説得してみます」
 鷹通は力強く友雅に申し入れた。友雅はその眩しいほどの眼差しを、黙って見つめる。
 彼の情熱はまっすぐだ。彼ならば、彼女と出会っても自分のようになる事はないだろう。だが、だからこそ、彼は選ばれなかった。
「…そうだね。あの闊達で奔放だった彼が荒んでいるのを見ると、心が痛む。君が説得してくれるならありがたい」
 鷹通の眉がかすかに寄る。友雅は小さく笑って、円座から立ち上がった。
「白々しいとでも言いたげな顔だね。だが、本気でそう思っているんだよ」
 こうなる前は、いや、今でも彼の奔放さが微笑ましいと思っている。できれば、それを失って欲しくないとも思う。ただ、彼女の事は誰にも言いたくないのだ。
どうしても譲れない事をしなければ叶わないのならば、それを叶えようとする程に優しくはなれない。
 友雅は簀子近くに出て行き、外を眺めた。庭では、幾つものかがり火が燃えさかり、赤い炎を揺らめかせている。揺れる炎は激しく、煽情的で、じっと眺めていると、ふらりと引き寄せられてしまいそうだ。
「―――夏虫を何か言いけむ心から 我も思ひに燃えぬべらなり…」
 (夏虫を自ら炎に飛び込む愚か者と、どうして馬鹿にしたりしたのだろうか。私自身も自ら「思ひ」の火で燃えてしまいそうだよ)
 友雅が呟いた古今の一首に、鷹通ははっとした表情になる。
「友雅殿、その和歌は……」
「君たちは、さぞ不思議に思っているだろうね。私と彼女の関わりを」
 友雅が振り返り、どこか挑発的な笑みを浮かべながら切り出す。
「ええ。何故、蘭殿を連れ出したのか。それについて、口を閉ざすのか」
「私が蘭に初めて会ったのは、もう一年半ほど前になる」
「え? …それでは、八葉となる前から、彼女をご存知だったのですか?」
 思いがけない事実に、鷹通の顔に戸惑いが浮かぶ。友雅は小さく頷き、月へ目線を映した。
「その日も、望月だった。春の夜の朧月のもとで、私は彼女に会った。もちろん、その時はああいう事情があるとは知らなかったが。天真の妹だと知ったのも、彼らが来てずい分と経った頃だ」
「蘭殿と一年以上もお付き合いがあったのですか…」
 ようやく、鷹通は少し納得する。今までは、二人がちゃんと知り合ったのは決戦の後だと思っていたから、接点を見出せなかったのだ。
 だが、そんな彼に、友雅は自嘲気味の笑みを向けた。
「お付き合いと言えるほどのものじゃないよ。会ったのは数えるほど。言葉を交わしたのは、更に片手の指ほどしかない」
 だが、それだけのもののために、友雅は少し前まで仲間だった者たちから非難を受け、口さがない者の中傷を受ける羽目になっている。彼女に初めて触れたあの日から、何かが狂い出してしまった。月の幻だった彼女を、現実のものとしてしまったあの夜から。
 友雅は懐から守り袋を取り出した。紅に金糸を織り込んだ布が、月光を静かに照り返す。
「それは何ですか?」
 守り袋に気付いた鷹通が尋ねると、友雅は袋の口を開き、中のものを手の平にのせた。それは、赤茶けた糸のようなものだった。
「…それは、もしや……」
「彼女の遺髪だ。彼女のものは全て埋めて欲しいと頼まれたが、これだけはね。どうしてもと思って、持ってきてしまった」
「頼まれた…?」
 鷹通が言葉尻を捉えて問い返すが、友雅はそれには答えず、遺髪を丁寧に守り袋の中にしまった。それを懐に戻してから、やっと鷹通のほうに目を向ける。
「彼女は鬼のもとで黒龍を呼び、怨霊を操って京を穢していた。言ってみれば、振り撒いた呪詛が己に還ったという事かもしれないね。その瘴気は彼女の中に巣食い、蓄積して、とうとう彼女を食い破った」
「それは…!」
「それが、彼女が死んだ理由だよ。決戦の後も、その瘴気は彼女の内に残ったが、それを抑えていた彼女の神力は消えてしまった。だから、彼女はわずかだけ残った自身の霊力と生命力を使って、その瘴気を浄化させた。…自分もろとも」
「そんな…。そんな事が……」
 鷹通が息を呑んで友雅を凝視する。そんな理由だとは思ってもみなかった。数日前に吐血したと聞いていたから、亡くなった原因は何かの病だと思っていたのだ。
 けれど、そうではなく、己の内の瘴気のためだと言う。敵方にいた頃の彼女の強大な力を思えば、それがどれほどのものだったか、何となくだが想像できる。それを浄化するために、自ら殉じたのか。
「そんな…。何故、言ってくださらなかったのでしょう。神子殿や、我らの力を合わせれば、何とかできたかもしれないのに」
「無理だね。相手は黒龍―――神に匹敵するほどの力だよ。白龍の加護も消えた我らに何ができる。それこそ、蘭のように命を燃やすなりしなければ」
「しかし…! ……あ。もしや、それで、蘭殿はお一人でゆかれたのですか。きっと、それを知れば、天真殿たちは自らの命を削ってもと思われたでしょう。あのような事を書き残されたのも、天真殿のご負担とならぬように…」
 友雅がくっと笑った。
「忘れてくれという、あの文かい? 果たしてそうかな。彼女はそう言いつつ、天真に何も言わず、何もさせない事で、彼の心に爪を立てていった。案外、自分を忘れさせないために、わざとそういう残酷な方法を取ったのかもしれないよ」
「友雅殿…! そのような蘭殿を侮辱するような事を…」
「だが、結果的にはその通りだろう。今、天真はどうしている? 蘭を忘れて、幸せに暮らしているかい?」
「それは……」
 鷹通が口ごもる。確かに、彼女の不可思議な消失は、天真の心に暗い影を落とした。死因がどんなものでも、話してくれていれば、天真もあれほどに荒む事はなかったろうに。
「彼女はそういう女だよ。人の心を惑わせておいて、結局は自分の事しか考えていない」
「友雅殿!」
 鷹通が今度ははっきりと非難の声を上げる。彼と蘭の間に実際に何があったのかは知らない。だが、既に故人となった人を悪し様に言う態度には嫌悪を覚えた。
「何故、そのように仰るのです。あなたは、まるで蘭殿を憎んでおられるかのようだ。……愛しておられたのではないのですか?」
 友雅はまた笑った。確かに、自分は彼女を憎んでいる。好きなだけ自分の心をかき回し、最後に決して解けない謎解きを仕掛けていった彼女を。愛しすぎて、憎まずにいられない。
「……彼女は、自分の塚の場所を、誰にも知らせなくていいと言った」
 呟きに、鷹通は表情を改める。友雅の声は一転して弱く、表情は切なげだ。
「それを知るのは私だけでいいと言った。そうして、彼女は自身を私に与えた」
 それが、彼女が払った代価。彼女の望みを叶える代わりに、私が得たもの。
「分からないんだよ、今でもね。何故、彼女は私を選んだ。私は確かに彼女を独占したかったが、彼女はどういうつもりでそれを叶えたのだろう。哀れみだったのか、単に私のそういう気持ちを利用しただけか、…それとも、私に応えてくれたという事なのか。分からないな、彼女はやはり何も言い残してはくれなかった」
「友雅…殿……」
「けれど、君の言う通り、私はこの先も決して口を開かないよ。誰にも彼女の居場所は教えない。…ようやく、私だけのものになったのだから」
 鷹通は友雅の変貌を目の当たりにし、声もなく彼を見つめ続けた。そんな鷹通を見て、友雅はふっと笑う。
「もういいかい? 今宵はせっかくの望月。まだ、彼女を感じていたいのだよ」
 目線で出口を示し、鷹通に出て行くよう促す。鷹通は立ち上がり、強張った足取りで出口へ向かった。だが、その途中で思いついて足を止め、友雅を振り返る。
「友雅殿、先ほどの遺髪を分けて頂けませんか? 形見でもあれば、天真殿も慰められるでしょう」
 友雅は口元だけ笑みを浮かべ、はっきりと言い切った。
「駄目だ」
「…………」
 鷹通は重ねて頼む事はせず、辞去の挨拶もそこそこに、逃げるようにその場を去っていった。

 ……なんという事だ。
 廊下を大股に歩き進みながら、鷹通は口唇をかみしめる。
 何故、今まで気付かなかった。恐らく、あの決戦以前から、彼の心に忍び込んでいたであろうに。
 先ほどの友雅の表情を思い出す。彼の真摯な姿を見たいと、ずっと思っていた。だが、今はそれを見てしまった事を激しく後悔している。
 …蘭殿。貴女は二人の男性の心に、何というものを残していかれたのか。
 つい、恨みがましい気分になってしまう。彼女の責任とばかりは言えないが、こうなる以外に、本当に方法はなかったのか。
「……っ」
 鷹通は苦い気分を払拭するように首を振った。それはもう、今さらどうしようもない事だ。それより、これから先の事を考えなければならない。明日一番に、天真に会いに行かねば。
 鷹通は目を伏せた。自分を照らす月光が、痛くてならなかった。


―― 続 ――


 

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