その涯を知らず ―― 葉月(3) ――
翠 はるか
翌日の朝、天真はその日の仕事に向かうために、家を出た。 土御門邸を出た後、彼は今の仕事仲間に紹介してもらった家に住んでいる。風が吹けば飛びそうな建物だが、雨露をしのげるだけで充分だ。 歩き出そうとした時、その前を塞ぐように人影が現れた。天真ははっきりと眉をひそめて、その男を睨みつける。 「おはようございます、天真殿」 鷹通が、天真に丁寧に挨拶する。だが、彼はそれを無視して、その脇を通り抜けていった。 「お待ちください、話があります」 「…俺は、これから仕事なんだ。邪魔しないでくれ」 「妹御の死因についてです」 天真の足がぴたりと止まる。険しい目つきが、ゆっくりと鷹通を振り返った。 「どうにか、友雅殿にお話を伺ってきました。お時間を頂けないでしょうか」 「あいつが、話した…のか?」 天真の瞳には不信の色が浮かんでいた。だが、その誘いを断れるはずがなく、彼は鷹通の期待通りに頷いた。 「ありがとうございます。では、場所を変えましょうか。もう少し人のいない、静かな所がいい」 天真は頷いて、先に立って歩き出した。この辺りの地理は彼のほうが詳しく、すぐに、あまり人目につかない河原へ鷹通を連れて行く。 「…この辺でいいだろ」 適当な場所で天真は立ち止まり、ついてくる鷹通を振り返った。 「……で?」 微妙に揺れる表情で、鷹通の言葉を促す。鷹通はゆっくりと息を整え、彼の眼差しを受け止めながら切り出した。 「はい…。どうか、心を落ち着けて聞いてください。妹御のためにも」 「…早く話せ」 鷹通はもう一度息をつき、昨夜、慎重に選んだ言葉を彼に告げた。次第に強張っていく彼の表情を窺いながら、できるだけ穏やかな口調で話していく。 話し終えた時、天真は握りしめた拳を震わせながら、地の一点を見つめていた。 「………そんなの」 長い沈黙の後、天真は震える声を発する。 「そんなの…、そんなの嘘だ。そんな事があったなら、なんで俺に言わねえんだ。俺は蘭がいなくなった日まで、ずっとあいつといたんだぞ」 自分と同じ疑問に、鷹通は苦い表情を浮かべる。 「…蘭殿はご自分の死を悟っておりました。考えた末、そういう方法をお選びになられたのでしょう。どうか、天真殿もご理解を……」 「できるはずないだろ。そんな大事なこと頼むのが、どうして俺じゃなくて友雅なんだよ。友雅の奴、またいい加減な事を言ってるんじゃないのか。…そうだ、本当はあいつが蘭を殺したんじゃないのか。それで、そんな言い逃れを…」 「天真殿!」 鷹通が大声を上げて、話を受け止めようとしない天真を一喝する。天真はびくりと震えて、鷹通を見返した。 「…でも、俺はあいつの遺体も見てないんだ……」 「確かに、納得しがたい事でしょう。…実は、天真殿を差し置いて申し訳ないのですが、昨夜、蘭殿の遺髪を見せて頂きました」 「遺髪…っ?」 天真がはっと目を見開く。鷹通は頷き、深く息を吐いた。 「お借りする事は叶いませんでしたが。友雅殿の仰る事は真実だと思います。あの方も、蘭殿を大事に思われている事は確かなのですよ……」 それが、狂気とすら呼べるものであっても。 鷹通は顔を上げ、力強く言った。 「天真殿。どうか、蘭殿の遺志を無駄にされないでください。蘭殿は、己が身の内の瘴気が人を傷つけるのを恐れて、命を賭したのです。ですから、あなたもこれ以上荒んだ生活をするのはやめてください」 「……………」 天真はしばらく凍りついたような顔で鷹通を見つめていたが、不意に瞼を震わせ、がくりと膝をついた。 「……蘭は、本当に死んだんだな」 彼の両眼からは涙が溢れ出していた。 「天真殿……」 「俺…、俺、信じたくなかった。あいつが血を吐いた時から、嫌な予感はしてたけど、それでも信じたくなかった。友雅が、死体を出せって言っても何も答えないのは、本当は生きてるからだって…、そう思い込もうとしてた」 その言葉に、鷹通ははっとした。 天真が無駄と知っても、頑なに友雅を責め続けたのは、妹の死という現実を受け入れたくないがための逃避だったのだと、初めて気付く。 「俺…、鬼を倒して、蘭が戻ってきた時、これで解決したと思った。自分はやり遂げたんだって思った。でも…、俺は全然間に合ってなんかいなかったんだ!」 「天真殿……」 …もしかしたら、自分はひどい事をしたのだろうか。自分のした事は、彼の逃げ場を奪い、彼を追いつめただけかもしれない。いや、だが、このままでは何も進まない。 鷹通が天真の肩に手をかけようとする。その時、天真が弾かれたように顔を上げ、鷹通の着物の胸を掴んだ。 「なんでだよ! なんで、蘭が死ななきゃなんねえんだ! 瘴気に喰われた? 呪詛が返っただって? ふざけるな、そんなの蘭のせいじゃない!」 「天……」 「黒龍に選ばれたのは、蘭が悪いのか? たった13歳の子供が鬼に捕まって、術で操り人形にされて、それが罪なのか? 鬼と京の争いに巻き込まれたのが、あいつの責任なのかよ!?」 湧き上がる怒りそのままに天真は叫ぶ。喉が切れて、血を吐きそうだった。 「蘭は、何も悪くないじゃないか! なのに、どうしてその責任だけ背負わされなきゃいけない。当の鬼すら―――イクティダールとかセフルだって生きてるのに、どうしてあいつが死ななきゃいけないんだよ!」 「…天真、殿……」 「なんで…! …ごほッ」 叫びすぎたあまり、天真は咳込んだ。背を丸めて血の味が混じった咳を繰り返し、そのまま地面に顔を伏せてしゃくり上げる。 鷹通は胸を塞ぐ重石を噛みしめながら、泣き伏す天真を見つめていた。 戦の爪跡を、改めて思い知った気がする。今までは、どうしても仕事量の増加というものを通してのみ感じていたものを、天真の嘆きと叫びがそれに現実感を与え、鷹通の胸に迫る。 ―――戦とは、こんなにも何も生まない。 自分たちは勝ったが、その後に残ったのは、取り返しのつかない悲しみだけだ。 鷹通は天真の前に膝をつき、そっとその肩を抱いた。 「…天真殿。どうか、ご自分の国へお戻りください。これ以上この地にいる事は、あなたにとって苦痛にしかなりません」 天真の上体を起こさせながら、鷹通は袖で天真の顔を拭う。 「あなたが蘭殿の幸せを願われたように、彼女もあなたの幸せを願っていたでしょう。だから、あの書き置きを残されたのですよ。自分の事は気にせず、あなたが在るべき場所で幸せに暮らしてくれるようにと」 言いながら、昨夜の友雅の言葉が頭をかすめる。だが、蘭の本当の気持ちは、誰にも分からないのだ。ならば、天真に都合のいいように解釈してもいいだろう。 「ですから、どうか。これ以上、自分を責められないでください……」 鷹通が目を閉じ、天真の頭を強く抱きしめる。天真の震える腕がゆっくりと鷹通の袖を掴み、やがてその首がごく小さく縦に振られた。
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