我が愛しの女王陛下

第五章・外交官フィリップ=カリエール

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 【1】

 初めてあの方をお見かけしたのは、外交の手腕を評価され、王の御前に招かれた時だ。
 リュシエンヌ様は王の隣に座っていて、終始にこにこ微笑んでおられた。
 威厳ある王の御前での緊張感は、王女の微笑みを拝見しているうちに、いつの間にか解れていた。
 私は二十一、リュシエンヌ様は十二才であった。

「フィリップは遠くの国まで行ったことがあるのね。お話を聞かせてくれないかしら」

 好奇心旺盛な姫君は、私が見てきた外国の話を聞きたいと、時々お部屋に招待してくださった。
 たまに民芸品などのお土産を持って訪ねると、大喜びで受けとられた。

 始めは臣下の勤めとして、主君の命に従っての訪問のつもりであったが、次第に私自身もリュシエンヌ様と過ごす時間が楽しみになっていた。
 外交だけに限らず、私のような貴族社会に身を置く人間は、常に偽りや誇張を交えて話し、自分を有利に見せて相手を丸め込み、または威嚇し、牽制して押しのけねばならない。
 慣れていると言っても、私とてストレスは感じる。
 だが、リュシエンヌ様の前では己を偽る必要はなかった。

 嘘と真実を見極める目を持つあの方は、必要のない世辞や大仰な褒め言葉は好まれない。
 無邪気な微笑みを見て、言葉を交わすだけで、心が明るくなった。
 王女の存在は私に潤いを与え、周囲の黒い感情に流されて、つい忘れそうになる優しさを思い起こさせてくれた。
 私が彼女に特別な好意を抱いたのは、自然の成り行きであったと思う。

 しかし、相手は主君であり、いずれは他国の王族と婚姻を結ぶお方。
 加えて、名門貴族の長子である私は、跡継ぎを作るために、遅かれ早かれいつかは結婚せねばならなかった。
 どんなに想いを寄せようとも、結ばれることなどありえない。
 父が病に倒れ、家督を継ぐことが決まった時、私は王女への想いを胸に封印して妻を迎えた。
 それが、二年前のことだ。

 妻となったクリスティーヌは家柄も同格の貴族令嬢であった。
 長く豊かな金髪と澄み渡る空色の瞳を持ち、年は私より四つ下で、嫁いだ当時は二十才になったばかり。
 物腰も体つきも、成熟した一面を覗かせる大人の女性だった。
 身分高き婦女子にありがちな傲慢なところは少しもなく、謙虚で控えめな性格をしており、服装も内面を映し出すように慎ましやかで上品なものを好んでいた。
 常に穏やかに微笑み、周囲の者への気配りも忘れない。
 彼女は妻として申し分のない人で、私の身内にも、それこそ使用人に到るまで多くの者に慕われた。
 傍にいて、安心できた。
 この人と共にいれば、王女への想いも忘れられると思えた。
 叶うことのない恋から逃れたかった私は、クリスティーヌに救いを求め、たくさんの癒しを与えてもらった。
 彼女を愛おしいと、微かに思い始めた頃だ。
 私の心を大きく揺り動かす、転機が訪れたのは。




 内外からの脅威に晒され、国は滅びの兆候を見せ始めていた。
 私も事態の打開を図ろうと、外交の面であらゆる手を尽くしたが、現状では駆け引きに使用できるカードは少なく、八方塞がりとなってしまった。
 情勢が不利と知れ渡るや、名のある貴族達が国外へと逃亡を始めた。
 女王となったリュシエンヌ様は、彼らを咎めることはせず、残った者達にも忠誠を強要されることはなかった。
 私の一族の中にも他国へ逃れようと進言してくる者がいたが、私は拒み続けた。
 最悪の場合、殉死も覚悟していた。
 心に抱くリュシエンヌ様への愛は消え失せてはいない。
 たとえ、王国が滅びを迎えることになったとしても、私はこの命が尽きる瞬間までリュシエンヌ様に仕え続ける。
 それが私ができる、ただ一つのあの人への愛の示し方だった。

 だが、それは私の独りよがりの満足でしかない。
 家人まで巻き添えにする気はなく、逃げても咎めない、自分の身の安全を第一に考えろと言い渡し、各々の判断に任せた。
 日を重ねるごとに親族も使用人達も国内から姿を消していったが、クリスティーヌは残っていた。
 彼女の親族も、すでに全員逃げてしまったというのに。

「君も逃げた方がいい。隣国の攻撃が始まれば、向こうの同盟国も一斉に攻め込んでくる。そうなれば、我が国はひとたまりもない。ゴルバドレイは敗者には無慈悲だ。貴族は一族郎党、女子供まで殺される。特に女性はただ殺されるだけではすまない。兵士の慰み者にされて、筆舌に尽くしがたいほどの惨い目に遭わされてしまう。頼る当てはあるのだろう? 安全な場所にいてくれ、国内にいては危険だ」

 彼女の身を案じて、国外に逃れるように勧めた。
 しかし、クリスティーヌは動こうとしなかった。

「いざとなれば、辱めを受ける前に自害します。わたしはあなたの妻です。最期までお傍にいさせてください」

 クリスティーヌは少しの恐れすら見せず、毅然とした態度で私に願い出た。
 彼女が残ったのは、私と生涯を最期の時まで共にするためだった。
 ただの義務感で、これほどの覚悟ができるわけがない。
 クリスティーヌに対して、これまで感じたことのない熱く強い感情が湧き上がってきた。
 彼女を抱きしめて、胸に誓った。
 この人のためにも、最期の時まで諦めまいと。

 女王となったリュシエンヌ様も、まだ諦めてはおられない。
 私の愛しい人達を、必ず守ってみせる。
 そう、決意を新たにした私に、ロベールが話があると近寄ってきた。

 国を救い、さらにはリュシエンヌ様の伴侶となれる。
 それはとても魅力的で、遅すぎた提案だった。
 私にはクリスティーヌがいる。
 命を捨てることになろうとも、私と共に在ることを選んでくれた妻が。

 私の迷いを見透かして、ロベールが囁いた。

「我が国では複数の妻を持つことは許されないことではない。それに夫が複数であるということは、生まれる子が誰の血を継ぐ者だかわからない可能性が高い。そのため、子は例外なくリュシエンヌ様の血を引く王族として扱い、臣下の勢力を均等に保つためにも、我々は父親としての権利を主張してはならない。跡継ぎのことだけを考えても、君の家のためには奥方は必要だ。何も迷うことはない」

 合理的に、彼は私の迷いを打ち消してみせた。
 そうまでしてロベールが私を仲間に引き入れたのは、同じ目的で集うことによって強い結束を作ることが必要だったからだ。

 クリスティーヌと別れずとも、リュシエンヌ様と結ばれることができる。
 甘い誘惑には勝てず、私は彼の企みに乗った。




 ゴルバドレイとの戦争は、我が国の勝利で終結した。
 国外に逃れていた一族も帰国し、私が陛下とした約束が知れ渡るなり大騒ぎとなった。
 特にクリスティーヌの親族の反発は強かったが、彼女の立場に変わりがないことを知ると、表立っての抗議はなくなった。私は親族に対し、当家には一切の不利益はなく、逆に多大な恩恵と利益がもたらされることを懇々と諭して納得させていった。
 だが、唯一受け入れなかったのは、妻であるクリスティーヌだったのだ。
 彼女は離縁を望んだ。
 戦時下で、最期の時まで共に在ろうと誓ったはずなのに、その心変わりが信じられず、珍しく取り乱して詰め寄っていた。

「離縁だなんて、バカなことを! 君の立場は揺るぎのないものだと説明したはずだ。決して蔑ろにはしない。君にはカリエール公爵夫人として、私の子を生み、育てる義務がある。元々、そのための結婚だったはずだ。この家のためにも、君が必要なんだ!」

 必死でまくしたてる私を、クリスティーヌは憂いを帯びた瞳で見つめた。
 彼女は首を横に振り、視線を手元へと落とした。

「まだこの腹に子は宿っておりません。あなたは子を生み、育てることは義務だとおっしゃいましたが、その役目を果たすのは私でなくともいいのです。お相手が見つからなければ養子を迎えられてもいい。公爵家の血に連なるお子は大勢おいでです。そのぐらい、どうとでもなることなのです。私がいなくても、あなたの家系が途絶えることはないでしょう」

 淡々とした口調で語る彼女からは、普段の穏やかな微笑みは消え、硬い拒絶の意志が感じられた。
 何も言えず、聞くに徹した。
 クリスティーヌは俯いたまま話し続けた。

「家同士の思惑で娶わせられた夫婦とはいえ、私はあなたをお慕いしていました。たとえ、あなたの心が私に向いていなくとも、お傍でお仕えできるだけで幸せでした。だけど、それも、あなたの想いが報われぬものだと知っていたからです。私は知っていたんです、あなたの思い人が誰なのか、立場上絶対に結ばれない人であったことも。ですが、その人は、今はあなたの手の届く場所におられる。身分や利害など関係なく、一人の女性としてあなたに愛されるために」

 クリスティーヌは頭を起こし、私に向き直った。
 怒っているのかと錯覚さえしそうな表情で唇を噛み、目に涙を浮かべて私を睨みつけた。

「あなたが私を少しでも哀れと思ってくださるならば、このまま黙って行かせてください。義務だけで必要とされ、傍に置かれる私が、愛するためだけに求められたあの方を憎く思わぬはずがありません。これ以上、私を惨めにしないで。あなたの幸せを心から望めるうちに、私を解放してください」

 クリスティーヌは滲んだ涙を手で拭い、私の横を通り過ぎた。
 振り返ることもなく、扉へと向かう。
 彼女は出て行く気だ。
 私への想いも全て捨てて、新しい人生を歩くために。

 考える暇もなかった。
 衝動的に彼女に駆け寄り、背後から抱きしめていた。
 クリスティーヌの生涯から、私が消えてしまうことが嫌だった。
 彼女と共に生きた時間は決して長いものではなかったけれど、そこには義務以上のものが確かにあった。私達はきちんと愛を育んでいた。それが全てなかったことになるなんて許せなかった。

「行かないでくれ、クリス。愛しているんだ、君を失いたくない」
「憐れみの嘘なら必要ありません。あなたの心に私が入り込む隙間などないことは知っています。離してください」

 クリスティーヌは私の言葉を信じようとしない。
 私がした行いを考えれば当然のことだ。

「確かに私はリュシエンヌ様を愛している。君と出会う前からあの方をお慕いしてきた。その想いは消えず、伴侶となれるこの機会を逃すことはできないと考えたことも事実。だが、だからといって君のことを思わなかったわけではない」

 口にする言葉には、体裁を整えるための嘘も言い訳もいらない。
 彼女は聡明な人だ。
 真っ直ぐに気持ちを伝えなければ、心には届かない。

「家のために望まぬ結婚をした私には勿体ないほど、君は素晴らしい妻となってくれた。誰よりも深い愛を示し、苦境にあった時でさえも逃げ出すことなく支えてくれた。あの時、私は知ったのだ。君を成り行きで娶った妻ではなく、一人の女性として愛していることに」

 腕の中でクリスティーヌが息を詰めたのがわかった。
 彼女は信じられないと呟いた。

「身勝手なことを言っているのは承知の上だ。私はリュシエンヌ様を欲し、さらに君まで求めている。どちらも選べず、失いたくない。義務だけじゃない、私はリュシエンヌ様と同じほど、君のことも愛しているんだ」

 クリスティーヌは身動きすることなく、黙って私の腕の中にいた。
 どれだけの時間が過ぎたのか、長く口を結んでいた彼女が声を発した。

「私は愚かな女です。今のあなたの言葉を聞いて喜んでいる。たとえ二番目であろうとも、あなたに求められ、愛されていると知っただけで、この心は歓喜で満たされてしまった」
「二番目なんかじゃない、君も私の掛け替えのない人だ。リュシエンヌ様と比べることなどない。その必要もない。私は君を愛したいだけだ」

 クリスティーヌは振り向き、私の胸に飛び込んできた。

「私を愛しているという、あなたの言葉を信じます。あなたが私を愛してくださる限り、生涯お傍におります。ですが、その愛が失われた時は、死する時までお恨みいたします」
「信じてくれてありがとう。この命に賭けても、君の信頼と愛は裏切らないと誓うよ」

 二度と離すまいと、彼女を抱きしめた。
 私は欲張りで罪深い男だ。
 自分の欲のために、取引を使って愛しい人を手に入れたばかりか、心底愛してくれる女性に別の妻の存在を認めさせた。
 天罰が下るなら、全てこの身に振ればいい。
 そのために無残な死を迎えようとも、私は十分な幸せを得た。




 リュシエンヌ様の伴侶は、私以外に四人いる。
 そのため、寝所に招かれる日はそう多くない。
 私は城に泊まる日以外は、必ず屋敷に帰るようにしていた。
 クリスティーヌの不安を少しでも和らげるために。

「明日の夜は陛下の宮殿にお泊りなのですね」

 ベッドの中で睦みあった後、私の腕に抱かれながらクリスティーヌが呟いた。

「そうだよ。明日の夜は寂しいだろうが、我慢してくれるね?」
「ええ、わかっています、大丈夫です。どれほど寂しくとも、他の殿方は招きませんわ」

 彼女は笑って気まずくなる空気を濁した。
 強がりなのはわかっている。
 私のわがままを受け入れた時に腹を決めたのか、クリスティーヌはリュシエンヌ様のことで不満を口にしたことはない。
 どれだけ多くの不安や嫉妬の言葉を、耐えて飲み込んでいるのだろう。
 罪悪感が胸を刺し、またその健気さに愛しさが込み上げてくる。

「三日後には外交のために旅立たねばならない。今度はシャラディンという砂漠の国だ。往復だけで一ヶ月はかかる。滞在を含めると一ヵ月半、長くて二ヶ月ほどかかるな」

 その前にリュシエンヌ様とも触れ合っておきたい。
 ちょうど良いタイミングで呼ばれたものだ。
 やはりあの方は、我らの心も、何を望んでいるのかも、全てわかっておられる。

「明後日の夜は君と過ごすよ。どれだけ離れても覚えていられるように、熱い夜を過ごそう」
「ええ、私があなたを忘れないように、しっかり抱いていってくださいな」

 胸に擦り寄ってきた彼女を抱きしめて、キスを交わした。
 心に浮かんでくる愛しさの感情だけを口づけに乗せて伝えていく。
 二人でいる時だけは、もう一つの想いは心の隅に押しやって、彼女の純粋な崇拝者となることにしている。
 それはリュシエンヌ様と触れ合う時も同じだった。




 翌日、登城してからは、ロベールとの打ち合わせに始まり、私の留守中にやってくる他国の使節団のもてなしや、周辺諸国からの書簡の処理などについて、配下に細かく指示を出す。
 重臣達を集めての晩餐会を終えると、ようやく一日の執務が終わった。

 入浴を済ませ、寝支度を整えて、リュシエンヌ様の寝室をお訪ねする。
 陛下は先に支度を済ませて、私を待っておられた。

「いらっしゃい、フィリップ。昨日、献上されたばかりの上質のワインがあるの。どうかしら?」
「いただきましょう。ただし、酔わない程度にね」

 リュシエンヌ様は自らグラスを取り出して、ワインを注がれた。
 一日の労を労う乾杯をして、香りを堪能しつつ、口に含んだ。

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