償い

鷹雄サイド・4

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 翌日は昼まで寝てしまった。
 用意されていた着替えを身につけて部屋を出ると、通りかかった家政婦に食堂までつれていかれた。
 昼食の席には誰もおらず、母さんと再婚相手の旦那は揃って出かけているとのことだった。
 少しがっかりした。
 母さんともっとしゃべりたかったのに。

「先ほど連絡が入りました。奥様はじきに帰っておいでになります」

 オレの落胆がわかったのか、年配の家政婦が言い添えた。
 恥ずかしくなって、食事に集中した。
 別に母さんがいないからって、寂しいとか心細いとか、そんなんじゃないんだ。

 食事が終わった頃に、玄関が騒がしくなった。
 食堂にいた家政婦達も迎えに出て行く。
 母さん達が帰ってきたんだ。
 そしてオレは応接間で、母さんの再婚相手である鷲見隼人と初めて対面した。




 鷲見隼人はめちゃくちゃ若かった。
 母さんも若いけど、その三つ年下らしいから、さらに若い。
 三十二ということだが、二十代でも通じる。
 加えて男のオレから見てもカッコ良かった。
 外見はもちろんだが、滲み出る雰囲気が只者ではないと思わせた。
 母さんも、よくこんな玉の輿に乗れたな。

「はじめまして、鷲見隼人だ。会うのは初めてだけど、君のことはつぐみから聞いてるよ」

 つぐみと母さんを呼び捨てにしたこの人に、オレは現実を思い知る。
 母さんはこの人の奥さんで、親父とは他人になったんだ。
 オレのいたあの家庭は、二度と元には戻らないんだ。

「はじめまして、えーと……鷲見……さん?」

 何て呼べばいいのかわからなくて、そう呼んだ。
 鷲見さんは、困った顔をして微笑んだ。

「隼人でいいよ、私も鷹雄と呼ばせてもらおうかな。もしかすると、親子になるかもしれないんだし」

 親子と言われてぎくりとした。
 オレの変化に気づいたのか、母さんが傍に来て手を握ってくれた。

「一度に聞かされたら鷹雄が混乱するわ。隼人さん、順番に話して。大丈夫よ、鷹雄。お母さん達はあなたの意思を尊重する。あなたが望まないことはしないから信じて」

 母さんの言葉で落ち着きを取り戻した。
 隼人さんはゆっくりと説明を始めた。
 二人は朝から親父と会って話し合ってきたそうだ。
 その結論として、オレに選択させることで、双方が同意した。

「親権はどちらかが預かることになる。つぐみと暮らすにしても、戸籍を動かさずに小鳥の姓を名乗ってもいい。養子にならなくても養育はするつもりだ。もちろん今まで通りの暮らしに戻ることもできる。つぐみとは以前のように気軽に会えばいい。鷹雄の好きな暮らしを選んでいいんだよ」

 オレは隼人さんを見つめた。
 この人の気持ちはどうなんだろう?
 面倒見てもいいって言ってくれてるけど、本音は親父のところに戻って欲しいんだろうな。
 オレは赤の他人なんだから、結婚生活には邪魔だ。それに自分の子供ができた時に困るから、養子にはできないって前に言ってたはずだ。

 二人から視線を逸らして考える。
 どうする?
 親父にはちどりさん、母さんには隼人さんがいる。
 オレはどちらにもついていけない。
 それなら、オレが選ぶ道は……。

「どっちとも暮らさない。オレは一人で生きていく」
「鷹雄、どうしてそんなこと言うの? お父さんもお母さんも、鷹雄のことが大事なの。邪魔だなんて思うわけないじゃない」

 オレの答えを聞いて、母さんは悲痛に顔を歪めた。
 違うんだよ、わかってる。
 でも、オレは二人の幸せを壊したくない。
 愛してくれてたとわかっただけで十分だ。
 死のうなんて思わない。
 一人でだって頑張って生きていける。

「つぐみ、席を外してくれるかな? 鷹雄と二人で話がしたい」

 隼人さんは母さんを部屋の外に出して、ドアを閉めた。
 こっちに戻ってくると、二人掛けのソファに座っていたオレの隣に腰掛けた。

「君のお父さんと奥さん……ちどりさんだったな。彼らと会ってきたことは言ったよね。話し合ってきたのは、鷹雄の今後をどうするかについてだ」

 親父は母さんからオレを保護したと連絡を受けて、すぐに話し合おうと、今日は会社を休んで待っていた。
 隼人さんが話してくれた親父の言動は、オレにとっては意外なことばかりだった。
 ほとんど一睡もしていなかった証拠に充血した目で親父は二人を迎えたそうだ。

「お父さんは君のことを心配していた。こちらが口を開く前に、鷹雄は無事か? どうしているのかって質問責めにされたよ。ちどりさんもつぐみに頭を下げ続けていた。彼らは本気で君の将来を案じていたんだ。私は第三者の目でそう感じた。厄介払いができて、清々した人間の態度じゃなかったよ」

 オレは言葉に詰まった。
 親父とちどりさんのことを、オレは信じ切れなかった。
 二人があれだけ必死になっていたのは、世間体を気にしてじゃなくて、オレのことを思って更生させようとしていたんだと、隼人さんの言葉でやっと信じることができた。
 今でもそうなのか?
 オレが勝手に捨てられたと思い込んでいただけで、親父はずっとオレを愛してくれていたってのか?

「つぐみも電話を受けるなり、車を出して、鷹雄を探してって、えらい剣幕で叩き起こされた。ああ、ちょうどベッドに入ったところだったんだ。たまに早く眠れる日に限って、こういう緊急事態がやってくる」

 隼人さんは笑いながら言った。
 睡眠を邪魔されたことを怒っているわけじゃない。
 それだけ母さんが必死だったことを言っているんだ。

「鷹雄は愛されているんだよ。だから、遠慮することはない。子供は素直に甘えればいい。お父さんとお母さんの復縁を望まれても無理だけど、どちらの家を選んでも君は大歓迎される。もちろん、私も例外じゃない。父親になる心積もりはできている」

 隼人さんはまっすぐオレの目を見て言った。
 この人が嘘をついているとは思えない。
 オレはそれでも打ち消すことができなかった疑問を率直に打ち明けた。

「父親にって、オレの? どうしてそこまで……」
「君がつぐみの愛しい息子だからさ。彼女が愛する者は私にとっても大事な人だ。わたしはつぐみを愛している、彼女を幸せにしてあげたいんだ」

 照れることなく、隼人さんは母さんへの愛情を口にした。
 オレは安心した。
 この人になら母さんを任せられる。

「ちどりさんもそうだったんじゃないかな。それにね、人は長く接すれば情が湧く。始めは他人でも家族になれる。親子だと気を張らなくても、一緒に暮らせば自然にそうなるさ。無理をして、お父さんなんて呼ばなくてもいい。私と家族になる気があるなら、養子になる道も考えてくれ。私は子供に恵まれない体だから、親戚連中のことは気にしなくていい」

 言いたくないことだろうに、隼人さんは正直に話してくれた。
 自分の子供が持てないなら、いずれ養子を迎えることになる。
 それなら母さんの息子であるオレの方がいい。
 オレの負担にならない言い方で、隼人さんは養子への選択肢を提示した。

「オレは迷ってる。このまま親父の所に帰っても、変われる自信がないんだ。親父がちどりさんを選んで、母さんを捨てたことは事実で、まだそのことが許せないでいる。親父を憎む気持ちは消えたけど、すぐに割り切れるほど整理がついたわけじゃない。あの家で家族の一員になって、一緒に笑うことなんて今はできそうにない」

 これは紛れもないオレの本音だ。
 隼人さんは微笑み、オレの肩に手を置いた。

「それはここで暮らしたいってことだね?」

 確認の問いに頷いて返す。

「鷹雄は変わりたいと言った。つまり、それは素行を改めて更生したいってことかな?」
「ああ、ケンカもサボリもやめる。将来のことも真面目に考える」

 親父に反抗する理由がなくなった。
 これからのことを考えるなら、とりあえずは今までの生活を改める必要がある。

「将来ね。じゃあ、大会社の社長になる気はある?」
「そりゃあ、まあ……。どうせなるなら、偉いほうがいいけど……」

 何だろう?
 隼人さんの笑みに黒いものが混じったような気がした。

「社長さんになりたかったら、すごく勉強しなくちゃならないんだ。特に鷹雄は二年もサボッていたからね。子供の二年間は大きいよ、鷹雄には無理かもなぁ」
「やってみせる! オレを見くびるなよ、二年分ぐらい、すぐに取り戻してやる!」

 元来、負けず嫌いな性格をしているオレは、隼人さんの挑発に乗ってしまった。
 彼は書類を差し出して、サインをするように言った。

「社長さんになるための契約書だ。ここにサインしたら、もう後戻りはできない。鷹雄は私の養子になって、後継者として勉強に励むんだ」
「おう! 後悔するなよ! 後で養子が気に入らないとか、外野がぐだぐだ抜かしやがっても、オレは下りないからな!」

 書類をひったくって、名前を書いた。
 ペンを置き、差し出された印鑑を押して、ハッとする。
 それは委任状だった。
 養子縁組の手続きを、同意で代理人に任せるという内容の……。

「これは君の意思確認の証拠となる書類だ。手続きは専門家に任せてあるからすぐ済むよ。君は今日から私の息子だ。戸籍が動いても小鳥鷹之氏が父親であることにも変わりがない。お父さんが二人もできて良かったね」

 ぽんぽんとオレの頭を撫でて、隼人さんは書類を持って立ち上がった。
 そりゃあ、少ないより多い方がいいんだろう。
 いや、いいのか?
 オレは嵌められたのか?
 待て、心の準備ってものがっ!?

「ちょっ、隼人さん、待ってくれっ!」

 目の前でドアが閉まり、オレはノブを掴んだ。
 まわそうとして、手を止める。

 戸籍が動いても、父親であることに変わりがない。
 その言葉に背中を押された。
 姓が変わっても、親子の情まで断たれたわけじゃない。
 母さんだって、オレを迎えに来てくれた。
 親父とオレは親子だ。
 生まれた時から死ぬまで、オレとあの人の血の繋がりが断たれることなどない。

「お父さんが二人か……。それもいいかもな」

 ついでに言うなら、お母さんも二人になってもいいかなとは思った。
 だが、それは母さんには酷な話だ。
 今は幸せとはいえ、あの時のことは母さんの傷になって残っているはずだ。
 ちどりさんだって、手の平を返したように懐かれたって迷惑なだけだろう。
 二人のことを考えると、オレは親父のところには行かない方がいいんだと判断した。

 それから雛のことが浮かんだ。
 親父とちどりさんに会わないということは、雛にも会えなくなるということ。
 お前は幸せでいるのかな。
 平気だよな。
 雛には両親がいて、友達もいる。
 オレ一人が欠けたぐらいで、雛の世界が揺らぐわけはないんだ。
 会いたいけど、二度と会わない。
 母さんがつらい過去を思い出さないように。
 そして親父とちどりさんが作る家庭を壊さないことが、雛のためにもなるんだ。




 オレはすぐに髪を黒く染めなおした。
 改造しまくった制服は成長してサイズが合わなくなり、窮屈になっていたこともあって、買い直してもらった。

 養子縁組の手続きは迅速に進み、二日後には鷲見の姓に変わって学校に登校した。
 制服も崩すことなくきっちり着こんで、カバンには教科書とノートを詰め込んである。
 校門のところで立ち番をしている、生徒指導に熱心な顔馴染みの教師に向かい、オレは会釈した。

「おはようございます」
「え? ああ、おはよう?」

 オレの顔を見ながら、教師は首を傾げて考え込んでいた。
 誰だかわからないらしい。
 内心噴き出しそうになった。
 今まで熱心に説教かましてた生徒指導室の常連の顔が、なんでわからねぇんだよ。

「あっ、お前、小鳥か? 何だその頭は!? それにその制服もっ!?」

 気づいた途端、予想以上に取り乱している。
 オレは笑いを押し隠して、真面目な顔で教師と向き合った。

「何言ってんの、センセー。これで普通だろ? もしかして、金髪が校則になったの? まずいなぁ、せっかく真面目になろうと改心して、親に小遣いせびって染め直してきたのに。制服だって買い直したんだぜ、何万したと思ってんだよ」

 わかっていながら、オレは口を尖らせて詰め寄った。
 教師はわたわた慌てながら、違う違うと手を振った。

「いや、それでいいんだ! お前もやっとわかってくれたんだな! 先生はお前の味方だぞ、授業でわからないところがあったら遠慮なく聞きに来い! 進路も心配するな! 真面目に頑張る者をオレは見捨てないぞ!」

 前はうっとうしくてたまらなかった熱血教師の言葉も、素直に受け入れていた。
 新しい姓に、新しい家族、新しい環境。
 オレは変われる。
 くだらない人間から、価値のある人間になるために、オレは一歩を踏み出した。




 夜遊びとは縁を切ったが、ダチの縁まで切ったわけじゃない。
 オレの変化を受け入れてくれた者とは変わることなく接し、離れていく者は追わない。
 昔のダチが戻って来たことには苦笑したが、拒む理由もなく受け入れる。
 入れ替わる人の流れの中で、渡だけはいつも変わらずオレの傍にいた。
 真面目だろうが、不良だろうが、渡はオレの親友でいてくれた。
 そして、オレの一番の理解者でもあった。
 オレの寂しさに真っ先に気づいたのも渡だった。

「本命の彼女はどうしてる?」

 渡の問いに、オレは首を横に振った。
 会ってないと正直に答えた。

「捨て犬みたいな顔して寂しがってないで、親父さんと和解して会ってくればいいだろ。彼女もお兄ちゃんに会いたがってるんじゃねぇの」

 お兄ちゃん?
 オレは口を開けた間抜けな顔で渡を見つめた。
 渡は知ってるよと呟いて、ニヤリと笑った。

「本命ってよくいったもんだよ。かわいいよなぁ、お兄ちゃんって無邪気に甘えてくれてさ。お前に近寄る色気づいた化粧臭い女どもより、断然癒されるだろ。恋より、妹か。中坊ならそれでもいいよな」

 渡は微妙に勘違いしているようだが、訂正はしなかった。
 間違いは次の機会にでも正すとして、いつ見たんだ?

「お前、どこで雛を見た?」
「あ、雛ちゃんて言うんだ。名前も可愛い」
「馴れ馴れしく呼ぶな! 言え、どこでだ!?」

 オレの激しい問い詰めに、渡は肩をすくめてごまかし笑いを浮かべた。

「前にお前の家の前で別れた時、こっそり見てたんだ。小さい女の子に出迎えてもらってただろ? 会話からお前から聞いてた本命の子だってすぐわかった」

 一生の不覚。
 こいつにだけは雛を見られたくなかった。
 いや、まだ会わせていないから大丈夫か。
 理由は簡単。
 渡の方が愛想も顔も性格も、とにかくオレより人に好かれる要素が豊富だ。
 雛がこいつを気に入って、お兄ちゃんより、渡お兄ちゃんの方がいいとか言い出したら立ち直れないだろ。
 だが、そんな心配をする必要はもうないんだ。
 オレは雛とは会えないんだから。




 業者に頼んで運び出してもらったオレの荷物の中には宝物にしていた雛との思い出の品があった。
 自室で一つ一つ取り出して見ていた。
 アルバムに入れた写真はオレと雛が写っているものばかりだ。
 雛にせがまれて一枚だけ四人で写したものがあったが、それは最後のページに裏返して入れてあった。
 捨てなかった自分を褒めて、表返して入れ直す。
 ふて腐れた顔のオレ。
 思えばオレの笑った顔なんて、ちどりさんは見たことなかったんじゃないかな。
 こんな可愛げのないガキの面倒よく見てたな。
 オレだったら、すぐにキレて放り出してるね。

 ちどりさんに改めて感心しながら、次に画用紙を取り出した。
 画用紙いっぱいに描かれたへたくそな人間の顔。
 お兄ちゃんを描いたんだって、雛が嬉しそうな顔して持ってきた。

 何の変哲もないチラシの裏には、これまた下手なひらがなだらけ。
 オレが見本を書いて、雛が練習していた。
 小学校に上がったら宿題見てって言われてたけど、結局あまり付き合ってやれなかった。
 後悔と雛への愛しさが募る。
 会いたい。
 声を聞きたい。
 許されるなら、もう一度だけ雛を抱きしめたい。

 半開きになっていたドアがゆっくりと開いていった。
 風で開いたのかと思ったが、ドアの向こうに母さんが立っているのを見て血の気が引いた。
 慌てて散らばっていた紙やアルバムに手を伸ばしたが、間に合わなかった。
 部屋に入ってきた母さんは、アルバムを拾うとページをめくった。

「この子はちどりさんの子ね。よく似てる。ここに写っているのは、幼稚園までみたいだから、今はもっと大きくなっているはずね」

 アルバムを閉じて、母さんはオレの前に膝をついて座った。

「鷹雄の様子がおかしいことには気づいていた。それはこの子に会えないからなの?」

 オレは嘘をつかないことに決めた。
 子供は素直になれと隼人さんも言っていた。
 わかってもらえなくてもいい。

「母さんを追い出した人の娘でも、オレは雛が好きだ。雛がいてくれたから、母さんがいなくても我慢が出来た。苦しい時、狂いそうなほど寂しい時に、雛は傍にいて笑顔をくれた」

 オレは矢継ぎ早に喋り続けた。
 雛との思い出を。
 あいつがオレにとって、どれだけ大切な存在で、心の支えだったのかを。

「親父との離婚で母さんがどれだけ傷ついたのか知っている。だから、雛には二度と会わない。でも、オレの思い出だけは奪わないで欲しい。これはオレの宝物なんだ」

 母さんはアルバムをオレに差し出して微笑んだ。

「思い出だけで満足しないで、雛ちゃんが好きなら会いに行ってきなさい。この子に罪がないことぐらいわかってる。遠慮しなくていいの、わたしは鷹雄の幸せを一番に願っているからね」

 会いに行っていいと、母さんは言った。
 雛にまた会える。
 歓喜に体が震えた。
 すぐには無理だが、週末になったら会いに行こう。
 雛はオレを忘れていないかな。




 雛に会えるとなったら、オレは有頂天になった。
 浮かれて学校に行き、機嫌よく授業も受けた。
 放課後は渡を含めた連れとコンビニに寄り、菓子やジュースを買ってから、駐車場で話し込んでいた。
 夕方には家庭教師が来るので遅くまではいられないが、たまにこうして以前のように集まって話すこともあった。

 オレの隣には、化粧が濃いことで有名な女が陣取っていた。
 中一の時からつきまとわれている。
 露骨に避けているのに気づいていないフリをしているのか、それとも諦めが悪いだけなのかはわからないが、いつの間にか仲間の輪に紛れ込んできては、オレの隣に割り込んでくるのだ。
 本命がいるって言っても信じないし、厄介な女だ。
 鼻がひんまがりそうな香水の匂いに、幾ら機嫌のいいオレでも我慢の限界が近づいていた。

 離れろと怒鳴ろうと口を開きかけた時だ。
 こっちに向かって突進してくる赤いランドセルの小学生が見えた。

「お兄ちゃん!」

 座っていたオレの体めがけて飛び込んできたそいつは、そう叫んで抱きついた。
 オレの首を締める勢いで腕を回し、しっかりとしがみついている。

 雛だ。
 夢じゃないよな?
 会いたくてたまらなかった雛が、オレを呼んで抱きついている。

「雛。苦しい、離せ」

 口から出たセリフはすごく冷静なものだが、内心では何を言ってこの喜びを表現していいのかわからなかったんだ。

「やだ、一緒に帰ろう。家に帰ろうよぉ」

 雛はオレの養子の件や、血の繋がった兄妹ではなかったことを知らない。
 こいつの中では、オレは単なる家出した兄貴なんだ。
 今は知らせない方がいいんだろう。
 複雑すぎて雛には事情がわからない上に、理解できたとしてもショックを受けるだろうしな。

 オレは雛の頭を撫でながら、久々に愛しい温もりに癒されていた。

「鷹雄。その子、何? 妹ぉ?」

 存在を忘れていた隣の女が、甲高い声を上げた。
 馴れ馴れしく名前で呼ぶな。
 雛が誤解したらどうしてくれる。

 雛はヤツを怖がっているのか、オレにしがみついている腕の力を強めた。
 よしよし、オレがいるから平気だぞ。

「こいつはオレの大事な女だ」

 釘を刺すつもりで、オレの女との宣言をしておく。
 だが、どいつもこいつも本気にせずに笑い出した。

「鷹雄、冗談キツイ。ランドセル背負ってるじゃん。それ、犯罪だって」
「やめてよね、本気にしかけたじゃない」

 そうか、雛は小三だもんな。
 世間一般では、中三と小三のカップルだとロリコンだよな。
 つまり、ここにいる男どもは安全というわけだ。
 良かった、良かった。
 オレは安心して一緒に笑っていた。
 女をめぐってダチと気まずくなるのは嫌だからな。




 雛とゆっくり話したくなったオレは、家に連れて帰ることにした。
 小鳥の家に行けば、ちどりさんがいる。
 会ってどんな顔をすればいいのかわからず、彼女に会う勇気が出なかったからだ。

 仲間と別れ、雛と手を繋いで歩き始めた。
 握ったら潰れそうなほど小さな手。
 雛が戻って来た実感を噛みしめる。
 諦めなくてもいいとわかったからには遠慮はしない。
 この手は絶対に離さない。

 鷲見の家に到着し、立ち止まる。
 雛は大きな門構えの洋風の屋敷を見て目を丸くしていた。

「ここが、オレが厄介になっている家だ」

 そう言ってごまかしておく。
 嘘でもないしな。
 雛の前では、母さんのことも母さんって呼べないから気をつけないと。

 リビングでは母さんがオレを待っていた。
 用事があって家を空けていても、オレが帰る時間を見計らって戻ってきて、こうやって迎えてくれる。
 オレが落ち着くまでは構うつもりなんだ。
 過保護な母さんに苦笑するが、それ以上に嬉く思う。

「お帰りなさい、鷹雄。そちらのお嬢さんは、どなた?」
「雛だよ」

 答えた瞬間、母さんの顔が強張った。
 そりゃ驚くよな、週末に会いに行くって言ってたんだから。

 母さんはすぐに状況を理解したのか、笑顔に戻った。

「はじめまして、雛ちゃん。あなたのことは鷹雄から聞いているわ。わたしは鷲見つぐみよ。よろしくね」
「は、はい、こちらこそ。いつも兄がお世話になっています」

 雛はぺこんと行儀よくお辞儀して、母さんに挨拶した。
 兄ってのが気に入らないが、今日は仕方がない。
 初めて彼女を家に連れてきた男って、こんな気分なのか?
 母さんが雛を気に入ってくれるのかが気になって、意外に緊張した。

「ゆっくりしていってね。お兄ちゃんに会いたいでしょうから、いつでも遊びに来ていいのよ」

 母さんは部屋を出て行き、家政婦に指示して、雛とオレの分のケーキとジュースを用意してくれた。
 気を利かせて二人っきりにしてくれたんだ。

 母さんに感謝しながら、雛と二人でケーキを食べた。
 後で聞いたのだが、このケーキは有名洋菓子店の特製ケーキでホールで何万もするヤツだった。
 イチゴを始めとした素材から、土台となるスポンジケーキの材料まで全て高級品らしい。
 普段口にしたこともない極上のケーキに、雛はご満悦だ。

「お兄ちゃん、おいしいねぇ」

 口のまわりを生クリームで真っ白にして、雛はオレの方を向いた。

「雛、すげぇ顔。口の周りクリームだらけだ」

 無邪気な笑顔とその惨状のギャップに噴き出して、ナプキンで口元を拭いてやった。
 雛も笑っていた。
 ああ、オレの幸せはこれなんだ。
 雛といつまでもこうやって一緒にいたい。

 口元が綺麗になると、雛の表情が変わった。
 すがるような目でオレを見つめてくる。

「お兄ちゃん、家に帰ろう。お父さんに叩かれそうになったら、わたしが守ってあげる。お兄ちゃんがいないと、寂しいよ」

 健気な雛の言葉に心が揺れた。
 そんなにオレと一緒にいたいのか。
 だけど、オレは帰れない。
 雛の願いでも、それだけは聞けない。

 つらくてたまらず、オレは雛を抱きしめた。

「あの家にいたら、オレはダメになる。鷲見さんは親身になって面倒見てくれてるし、ここでならオレは立ち直れそうだ。雛と暮らせないのは寂しいけど、いつでも会いに来ていいから、我慢してくれ」

 どこに出たって恥ずかしくない立派な人間になって、雛を迎えに行くんだ。
 お前に相応しい男になるために、オレは変わってみせる。

 オレの決意が変わらないことを知り、雛は納得してくれた。

「お兄ちゃん、大好き。ここに来たら会えるなら、寂しいの我慢するよ」

 それ以来、雛は週末と長期の休みをオレと共に過ごすようになった。
 立場は兄と妹のまま、プラトニックな関係を維持していたが、オレは雛の愛を独占していると自惚れていた。
 雛のオレへの愛は兄への思慕で、男に向けるものではないことを失念していたのだ。
 そのことを思い知らされた時、オレは再び闇を彷徨うことになる。
 穏やかな日々の終わりは、オレが社会人となり、雛が高二に進級した年の春にやってきた。

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