償い

鷹雄サイド・9

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 限度はないから自由に使えと言って、雛にクレジットカードを渡した。
 浪費グセのない雛だからこそ渡したものの、月に数百万使おうが、オレの懐はびくともしない。
 生活費は当然として、服や化粧品なども必要で、あの年頃は何かと入用のはずだ。
 存分に使えばいいと思っていたのだが、毎月送られてくる明細書はオレの思惑を裏切り続けていた。

「今月も出費は生活費のみか。あいつ、新しい服とかバッグとかどうやって買ってんだ?」
「間に合ってるんだろ。雛ちゃんは物持ちがいいみたいだぞ。今使ってるお気に入りのバッグは、高校生の頃にバイトして買ったヤツらしい」

 オレの独り言に渡が答えた。
 なぜお前がそんなことを知っている。
 無言で睨むと、渡は苦笑した。

「ちょっとした日常会話の流れだよ。せっかく情報提供してやってるのに、いちいち嫉妬するな」

 確かに渡の情報はありがたいが、雛と必要以上に仲良くなられるのは面白くない。

 複雑な気分でイラつきながら、オレは明細書に視線を戻して考えた。
 雛は欲しいものがあっても、手が届かないなら諦めるタイプだ。
 だが、あいつにだって贅沢をしてみたい気持ちはあるはずだ。

 オレが何でも好きな物を選べと言えば、雛も遠慮せずに買い物ができる。
 庶民では手の届かない贅沢を堪能した雛は、オレから離れられなくなる。
 オレの傍にいれば、何不自由のない生活ができるんだ。
 そこらの男より、オレが何倍も頼もしくて良い男だってことが、あいつにも理解できるだろう。

 オレの魅力に気づいた雛は、頬をバラ色に染めて俯く。

「わたし、やっとわかったの。お兄ちゃんより素敵な男の人なんていないってことが。もうお兄ちゃんだって思えない、愛しているの」

 素直に愛を告白してきた雛を、オレは優しく抱きしめる。

「オレはお前のことを妹だなんて思ったことはない。雛は昔も今もオレの女だ。今まで悪かったな、つらかっただろう? これからは幸せにしてやるからな。結婚しよう」
「お兄ちゃんのお嫁さんになれるの? 夢みたい……」

 瞳に涙を浮かべて感激している雛。
 オレ達の唇が、どちらからともなく近づいていく。

「雛……」
「お兄ちゃん……」

 これからが本当のスタートだ。
 もう一度やり直すんだ。
 オレと雛の愛に満ちた生活を……。




「おい、クレジットの明細でどんな妄想してるんだよ。気持ち悪いぞ」

 渡の声がオレを現実に引き戻した。
 締まりなく開いていた口元を瞬時に引き締める。
 やべぇ、この部屋にいるのが渡だけで助かった。

「どうせ雛ちゃんのことだろうけどな。幸せ妄想なんぞしてる暇があるなら、早めにどうにかしろよ。いつまでも中途半端な立場のままじゃ、雛ちゃんがかわいそうだぞ」

 渡は非難の目を向けて、責めるように言った。
 オレだって雛をいつまでも愛人にしておく気はない。
 いずれは籍を入れるつもりだ。
 最も確実に雛を手元に置き続けるために、子供を生ませるという方法も浮かんだが、それだけはためらっている。
 子供は愛の結晶として作りたい。
 その子が誕生する時には、雛と二人で心から喜びを分かち合いたいんだ。

 その日を迎えるために、オレは先ほどの思いつきを行動に移すことにした。
 雛は何を望むだろう。
 遠慮して一つしか言わないかもしれないが、全力で叶えてやる。
 お前のためなら、オレは世界の果てにだって飛んでいくつもりだ。




 仕事を終えて帰宅したオレは、さっそく雛にクレジットの明細を見せて詰問した。

「おい、雛。お前、今月もカード使わなかったな」
「使ったよ、食費と日用品で」

 雛が言うには、これでも使い過ぎた方らしい。
 散財を咎められて普通のはずだが、使わないことで問い詰められて、雛は困惑している様子だった。

「そういうのは生活費だろ。オレが言ってるのは、服とか小物とかのことだ。ブランドのバッグとか、宝石とか、毛皮のコートとか、買うものはたくさんあるだろう?」
「いらないよ。今あるものだけで十分だよ」

 予想通りの答えとはいえ、無欲過ぎる。
 オレが嫌いだから金を使いたくないのだろうか?
 よくない方向に思考が傾きかけて、しかめっ面となって感情が表に出てくる。

「お前が持ってるものなんて安物ばっかりだろうが、買ってやるって言ってんだから、買え。身につける物だけじゃなく、車でも家でもいいぞ。旅行に行きたいなら、地球の裏側にだってすぐ連れて行ってやる」

 しつこく勧めると、雛は欲しい物を考え始めた。
 やがて思いついたのか、顔を上げると遠慮がちに口を開いた。

「あのね、前から欲しかったものがあるの」
「おう、遠慮せずに言え。何でも買ってやるぞ」

 張り切って身を乗り出すと、雛も笑顔になる。
 そんなに欲しい物なのか。
 なんだろう?

「最近、友達の間で評判になってるケーキ屋さんの、一切れ七百円のスペシャルショートが食べたい」

 雛の所望はケーキだった。
 一切れ七百円。
 丸ごと買っても一万しないだろ。
 雛はそのケーキを思い浮かべているのか、悦に入った顔をしていた。
 オレは何も言葉が出てこなくて、がっくりと肩を落とした。

「お兄ちゃん、どうしたの?」

 雛の声で顔を上げ、ぐっと肩を掴む。

「一切れ七百円て、中途半端な値段じゃねぇか。どこのケーキ屋だ? そんなもんいつでも買ってやる。そうじゃねぇんだよ、オレが言いたいのはもっとスケールのでかい買い物だ。今まで高すぎて手が届かないと諦めていた物があるはずだろう? 一番欲しい物を言ってみろ」

 雛に自分の力を見せたくて、オレは意地になっていた。

「今日のオレは機嫌がいいんだ。何をねだってもいい、お前の望みを叶えてやる」

 ここまで言えば、鈍い雛にもオレの思惑が伝わったようだ。
 叶えることが難しい願い事を、改めて探している。

「何でもいいの?」

 念を押されて頷く。
 雛が願いを口にした。
 それはオレが想像もしていなかった願いだった。

「一日だけでいいの、お兄ちゃんと昔みたいに過ごしたい。お兄ちゃんの妹に戻りたいの」

 妹に戻りたい。
 それが雛が望む一番の願い。

 やっぱりだめなのか?
 雛はオレを兄だとしか思ってくれないのか?

 歯を噛みしめて、胸を焦がす苦痛に耐えた。
 その瞬間、急に気が変わった。
 昔に戻れる。
 それはオレにとっても望むところじゃないか。

「いいだろう、叶えてやる。明日はちょうど休日だ。一日だけ、お前の兄貴に戻ってやるよ」
「ほ、本当に?」
「ああ。その代わり、日付が変わるまでだ」

 オレは雛との偽りの関係に疲れていたのかもしれない。
 起きた事をなかったことにはできなくても、ほんの少しの間だけでも昔に戻れるならと、雛の願いを聞き入れた。




 翌朝、先に起きだしたオレは、肩の力を抜いた。
 今日一日は心を偽ることなく雛に接することができる。
 朝食を作っていると雛が起きてきた。
 振り返り、笑顔で迎える。

「おはよう、雛。ようやく起きたか、出かけるんだから、早くメシ食えよ」

 雛は驚きを見せた後、蕾が花を開くように笑顔になった。

「おはよう、お兄ちゃん」

 オレ達はすぐに昔の距離を取り戻した。
 だが、兄貴のオレが戻って来たことを喜ぶ雛を見て、胸中ではやりきれない思いが渦巻いていた。




 朝食を済ませると、雛を連れて遊びに出かけた。
 午前中は水族館に行き、午後は街をぶらつく。
 小腹が空いた頃に例のケーキを食い、最後に遊園地で観覧車に乗り、二人で夜景を眺めた。

 隣同士に座ったオレ達は、手を繋いで窓から見える景色を見つめている。

「お兄ちゃん、綺麗だね」

 夜景に満足した雛がオレに微笑みかけた。
 恋人同士と変わらない親密さで触れ合いながら、雛は兄であるオレを求める。
 その違いは何だ?
 オレにはさっぱりわからない。
 体の繋がりはいらなくて、心の繋がりだけが欲しいってことか?
 お前にとっての兄貴って何なんだ?
 雛に微笑み返しながら、オレは幾度も同じ問いを繰り返していた。




 マンションに帰りついた頃には、午後の十時を過ぎていた。
 残り時間は僅か。
 十二時が過ぎた時、オレ達は元の関係に戻る。
 雛もそのことを意識している。
 明るい態度に、微かな焦りが見え隠れしていた。

「イルカはリビングに飾っておくね。こうやって並べておくと、わたしとお兄ちゃんみたいに仲良しに見えるでしょう?」

 水族館で買ったイルカのぬいぐるみを、雛が飾り棚に並べて飾った。
 寄り添うピンクと水色のイルカは、兄妹のようでもあり、恋人にも見える。
 同じように傍にいたくても、オレと雛の望む形は違う。
 雛は兄妹で、オレは恋人。
 相容れることのない意識のズレは、オレに絶望しか与えない。

「ここに飾っちゃだめだった?」

 無言でイルカを見ていたオレに、雛が恐る恐る尋ねた。

「いや、いい。置いとけ」

 今日一日でオレは兄の立場で満足できないことを思い知った。
 偽りの時間はもうすぐ終わる。
 それが終われば、オレは二度と兄には戻らない。




 風呂から出た後は特にすることもなく、雛と並んでソファに座りテレビを見ていた。
 雛は壁にかけた時計を気にして、何度も見上げている。
 オレは黙って時間が過ぎていくのを待った。

 時計の針が十二時を指す。
 一日が終わった。
 この瞬間、オレは兄の立場を完全に捨て去った。
 雛の肩に腕をまわし、抱き寄せる。

「久しぶりに兄貴に会えて良かったな。これで満足したか?」

 雛は俯いていたが、やがて顔を上げて、笑みを湛えた顔をオレに向けた。

「わがまま言って、ごめんなさい。でも、一日だけでも楽しかった。ありがとう、お兄ちゃん」

 無理やり作った微笑みに、オレは痛みと嫉妬を覚えた。
 雛の心を捉えて離さない、過去のオレであった兄の存在が疎ましい。

 過去を全て消し去りたくて、雛の唇を奪っていた。
 抵抗されても構わずに体を抱きしめ、角度を変えながら貪り続ける。

「む…やぁ……、んん…ぅ…」

 雛が着ているパジャマのボタンを外して、肌に触れた。
 服の中をまさぐり、胸の膨らみを探り当てて撫で回す。
 唇をキスから解放してやり、口付けを頬から首筋へと移していった。

「いやぁ! お願いだから今夜はやめて! 朝になったら気持ちを切り替えるから、今夜だけは……っ!」

 雛は初めて見る激しさで抵抗した。
 処女を奪った夜でさえ、見せたことのない必死な抵抗だった。

 鋭い痛みと共に頬が熱くなり、雛の抵抗も止んだ。
 雛の手が当たったんだ。
 手の平に伝わった衝撃が、雛を我に返らせた。

「お、お兄ちゃん、ごめ……」
「そんなに兄貴がいいのかよ」

 拒絶されたことで、頭に血が上る。
 まだ痺れの残る頬を手の甲で擦って雛を睨みつけた。

「オレは大嫌いだ。昼間だってお前が喜ぶから兄妹を演じてやっただけだ。早く気づけよ、お前の兄貴なんてこの世のどこにもいないってな」
「やめて、やめてよぉ!」

 兄の存在を否定するオレの言葉を、雛は聞き入れようとはしない。
 耳を押さえて頭を振り、聞きたくないと泣き喚いた。

 オレは雛をソファの上に転がして、服に手をかけた。

「頭でわからないなら、体に教え込んでやる。お前が妹じゃなく、女だってことをな」

 体を覆い隠す邪魔な衣服を下着まで剥ぎ取った。
 自分の服も全て脱ぎ去り、上に跨った。
 右手で雛の両腕を頭の上でまとめて押さえる。

「やだぁ! したくない、触らないでぇ!」

 捕らえられた体を懸命に動かして、雛が暴れる。
 揺れる乳房を左手で包み込んで揉みながら、もう片方の膨らみを口に含んで舌で舐って弄ぶ。
 乳首に唾液をたっぷりつけて、口を離す。
 雛は泣きそうな顔でオレを見つめていた。

「うるせぇ、お前に拒否権なんてねぇんだよ。お前はオレのものだろう? どうして嫌がるんだよ、今まで散々やってきたことじゃねぇか」
「嫌、今夜だけは嫌。目が覚めるまでお兄ちゃんでいて欲しかった。お願いだから、昼間の思い出を消さないで、嘘だなんて言わないで」

 雛の瞳が潤み、溢れ出た滴が目尻を伝って落ちていく。
 あくまでオレに兄を求める姿が腹立たしく、悲しかった。

「いい加減に現実を見ろよ。昼間のオレはお前が追いかけている幻だ。本物は目の前にいるオレだ。過去のことは忘れろ。お前の兄貴なんて最初からいなかったんだ」
「お兄ちゃんはいたよ、わたしを守ってくれるって言ったもの。幻なんかじゃない」

 雛の中で、オレと兄は別の存在になろうとしている。
 それほどまでに強く求めながら、雛はオレ自身を見てくれない。
 教えてやる。
 オレの存在を体に刻み込んでやる。
 お前の傍にいるのが、兄貴じゃなく、一人の男であるオレだってことをわからせてやる。

 オレを拒む気持ちのせいで、雛の体は愛撫をしても濡れてこない。
 業を煮やしたオレは、雛の足を持ち上げて、準備のできていないそこに無理やり入れた。

「あうっ!」

 痛みに雛が声を上げる。
 持ち上げた足を肩に乗せて強引に動く。
 激しい律動を続けながらも、オレは快感を感じなかった。

「痛い! やめてぇ!」

 雛が悲鳴を上げて自由になった両腕でオレを叩いてきた。
 互いに苦痛しかもたらさなくても、やめることはできなかった。
 この交わりは雛を得るためのもの。
 過去のオレを消し去るには、これしか方法がない。

「お兄ちゃん! お兄ちゃん、助けてぇ!」

 悲痛な叫び声にハッとして動きを止めたが、雛が呼んだのはオレじゃなかった。
 どこにもいない兄貴に雛は助けを求めている。
 オレはここにいるのに、雛は過去しか見ていない。

「黙れ、雛! 兄貴なんか呼ぶな! 目の前にいるのは誰だ! お前を抱いているのは誰なのか、言ってみろ!」

 どうして消えない。
 オレがいるのに、どうして兄貴を呼ぶんだよ。
 自分の背中に張り付いている過去の亡霊が憎くてたまらない。

「痛いよ、怖いっ! お兄ちゃあんっ!」

 雛は混乱しているのか、完全にオレを視界から追い出していた。
 目の前のオレは悪夢でしかなくて、幻の中に現実を見出そうとしている。

「オレを見ろっ! 頼むから、オレを見てくれよっ! なんで兄貴じゃねぇとダメなんだよぉ……雛ぁ……」

 どうしようもない焦りと絶望で、意思に関係なく涙が湧いてきた。
 落ちた滴が雛の頬を濡らす。

「お兄ちゃん、どこにいるの? お兄ちゃん……」

 虚ろに宙を見つめた雛は、うわ言で兄貴を呼び続けていた。

「オレはここにいるのに、どうして見てくれない? そんなに嫌か? 兄貴じゃないオレは必要ないのか?」

 涙を流すのは、何年ぶりだろう。
 最も愛し、愛を求めた人に存在を消されて、オレはこらえ切れずに泣いていた。




 その後すぐに、雛は気を失うように眠りに落ちた。
 汚れた体を綺麗に拭いて、寝室に運び、ベッドに寝かせる。
 そうしてからチェストの引き出しにしまっておいた指輪のケースを取り出してベッドの縁に腰掛けた。
 いつか雛に渡そうと思って買った指輪。
 両思いになった記念にやるつもりでいたけど無理なんだろうな。

「お兄ちゃんか……」

 兄の存在が、こんなに重いなんて思ってなかった。
 立場を都合よく利用していたツケがまわってきたのかもな。
 こんなことなら、もっと早く血の繋がりがないことを教えておけば良かった。
 そうすれば雛は、オレを男として見てくれたんだろうか?
 ……やめよう。
 もしも、なんて考えても、過去は変わらない。

 指輪をケースに戻して、ベッドサイドのテーブルに置いた。
 雛の隣に寝転がり、添い寝をする。
 眠れない。
 雛の髪を撫でて、寝顔を見つめながら、まんじりともできずに夜明けが来るのを待った。




 マンションの側を複数のバイクが走り抜けていく音がする。
 騒音がきっかけとなったのか、雛が身動きして瞼を上げた。

「雛」

 体を起こして呼びかける。
 声に反応した雛は頭を動かしてこっちを向いた。
 表情のない顔に不安が押し寄せてきて、そっと手を伸ばして頬を撫でた。

「オレがわかるか?」
「うん、お兄ちゃん」

 即座に返事が返ってきて、緊張が緩んだ。
 愛しい気持ちを込めてキスをする。
 だが、雛の目に浮かんだのは悲しみの涙だった。

 雛はオレの手を払いのけてベッドの上でうつぶせになった。
 泣き顔は隠せても、声は抑えられずに、嗚咽が途切れ途切れに聞こえてきた。
 オレが兄であることを否定したから雛は泣いている。
 それでもオレは兄に戻りたくない。

 ベッドサイドに置いていたケースから指輪を取り出した。
 雛の左手を取って、薬指に指輪を通す。
 雛を縛る枷を増やすためだ。

「ご主人様が誰なのか忘れないように常に指にはめておけ。オレのものになったからには、どんな高価な品だろうが与えてやる。だがな、兄貴に戻れって願いだけは聞かない。兄妹ごっこなんてくだらないマネには、今後一切付き合わないからな」

 雛は呆然と指輪を見つめて、また泣き出した。

「嫌だよ、お兄ちゃん。わたしのお兄ちゃんを消さないで。いなくなっちゃやだよぉ……」

 泣いている雛の上に覆いかぶさって頭を撫でた。
 慰めの言葉も、追い詰める言葉も口にはできない。

 オレはお前が欲しくて、手に入れるためなら何でもしようと決めた。
 だけど、泣いているお前を見ているのは苦しい。
 解放してやれば、雛は幸せになれるのか?

 お前の望む兄に戻れない以上、オレができることは一つしかない。
 愛しているから離れよう。
 もうすぐ終わりにするから、それまでは傍にいてくれ。




 数日後、一流料亭の客室で、オレは見合いをしていた。
 相手は取引先の社長令嬢、雁野駒枝だ。
 雁野駒枝は振袖を淑やかに着こなし、礼儀作法も完璧。意思の強そうな瞳が印象的な女だった。
 先ほどから父親の雁野社長が一人で話を進めている。
 オレの経歴や業績を誉めそやして機嫌を取り、娘の長所を並べ立てて売り込んでくる。
 娘を紹介するというより、商品を勧めるセールスマンみたいだと、親子を見比べながらぼんやり考えていた。

「では、ワシはこれで失礼するよ。駒枝、しっかりな」

 娘に対して発破をかけて社長は帰っていった。
 どっちかというと、乗り気なのはあのオヤジの方だな。
 娘の方は済ました顔で茶をすすっていた。
 雁野駒枝はオレの視線に気がつくと、湯飲みを置いてにっこり笑った。

「父のことは気にしないでください。露骨過ぎて見苦しいでしょうけど、あの人なりに会社を大きくしようと必死なんですよ。子供もそのための道具にしか過ぎない。おまけに色好みで女にだらしのない、夫としても父としても最低の人間です」

 笑顔で辛辣に父親をこき下ろす娘に興味が湧いた。
 すぐに断って帰るつもりだったが、会話を続けることにした。

「道具にされることを承知の上で、あんたは見合いを受けたのか? あの様子じゃ、オレがあんたを気に入れば、意思を無視して結婚させかねないぞ」
「条件次第では、結婚しても構いません。お聞きになります?」
「ああ、参考までに聞いておこう」

 雁野駒枝が提示した条件。
 それは妻の立場の保障と財産を自由に使う権利だ。

「妻の責務は果たします。家内を取り仕切り、社交の場でのパートナー役はもちろん、後継者となる子供を生み養育することも含めてです。ただし、互いに愛を求めないこと。恋愛はご自由にどうぞ。家庭に女性を連れ込まない、子供を作らないことを守ってくださるなら、愛人を幾らお作りになっても口は出しません」

 変わった条件だ。
 まるで契約だな。
 夫婦間の愛を最初からいらないとは、随分冷めた考え方をしている。

「その条件ならあんたの恋愛も自由ってことだろ? 叶わない恋でもしてるとか?」
「その逆です。わたしは誰も愛せない、男女の愛など儚いものだと、幼い頃から見せ付けられてきましたからね。わたしの母は愛人です。母は本妻や他の愛人の子に負けるなと、常日頃からわたしに言って聞かせ、父の寵愛を勝ち取り、お金を得ることばかりを考えていました。娘のわたしにも競争を強いて、勝てば褒め、負ければ無視と自分の利にならぬ存在であれば、即座に切り捨てる態度で接していました。環境を言い訳にはしたくありませんが、わたしには正直言って、無償で相手を思いやる愛情というものが理解できません」

 冷徹な人生観は、彼女が悩み苦しんだ末に出した結論なのだろう。
 一度は親に捨てられたと思い、荒れたオレだが、彼女の場合はそれとも違う。
 始めから愛情を知らずに育った女。
 オレも愛は求めない。
 一緒にいるにはちょうどいいような気がした。

「オレには愛人がいる。オレはそいつに惚れているが、金で繋ぎとめているだけだ。ガキを作る気もない。オレは一生そいつが忘れられないだろうが、あんたさえ良ければ夫婦の契約を結んでもいい。オレを愛する必要はない。人前に出る時にだけ、妻の顔をして隣にいてくれればいい」

 包み隠さず本心を打ち明けたオレに、駒枝が返したのは微笑みだった。

「願ってもない良縁ですわ。不束者ですが、よろしくお願いいたします」

 オレは駒枝との婚約を決めた。
 雛を諦め、表面上は普通の人生を送るために。

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