憎しみの檻
エリーヌ編・2
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フェルナン様は王子であり、騎士でもある。
騎士達の統括を主な任務とし、合間に王族としてのお勤めもこなされている。
夜は貴族達が催す晩餐会などにも招かれて、忙しい日は帰宅が深夜になることもあった。
それでも時間を作っては、わたしを外に連れ出し、社交の場では必ず寄り添い、わたしに恥をかかせて排除しようと悪意を持って近づいてくる家臣達から守ってくださった。
フェルナン様と親交のある既婚の貴婦人を幾人か紹介されて、貴族社会に馴染む足がかりも作って頂いた。
彼のおかげでわたしの生活は穏やかなものとなり、僅かばかり居心地の悪い思いを味わうこともあったけど、始めに危惧したような辛い境遇に置かれることはほとんどなかった。
ある日、久しぶりにまとまった休暇が取れたと言うフェルナン様に連れられて、わたし達は郊外の城を訪れた。
城は王家が所有する領地に建てられていて、フェルナン様は狩りをするために戦のない時には年に数度訪れていたのだと話してくれた。
城の周囲には森が広がっていて、狩場としては最適な環境だ。
城壁で囲まれた石造りの城は、手入れが行き届き、隅々まで清潔に整えられている。
「今回は狩りをしに来たんじゃないんだ、エリーヌとゆっくり過ごそうと思ってね。近くに池があるからボート遊びもできるよ」
「わあ、楽しみです」
フェルナン様と手を繋いで、お城の中を見てまわった。
嬉しくてはしゃいでいたけど、ふと後ろが気になって振り返った。
わたし達より数歩離れて歩いている男女。
レリアとアシルだ。
アシルはフェルナン様の乳兄弟で、彼が一番信頼を寄せている騎士。
礼儀正しいとは言いがたい態度を取ることもあるけど、与えられた任務は責任を持ってこなす真面目なところもある。不真面目な面が目立つからか、レリアは彼を嫌っているみたいだけど、アシルの方は違うようだ。
ことあるごとにレリアに話しかけては怒らせている。
今この時も、レリアは険悪な目つきで隣を歩くアシルを睨んでいた。
「どうしてあなたまでついてきているんです?」
「オレはフェルナン様の側近で、常にお側でお守りするのが使命なんだよ。妃殿下を伴われてのお泊り旅行となれば護衛につくのは当然だろ」
「そう、ならせいぜい使命とやらを真面目に果たしてくださいませ。夜の闇に紛れてお城を抜け出して、近隣に住む女性を襲わないことね」
「ああ、そりゃ大丈夫だ。わざわざ外に行かなくても、城内に極上の女がいるからな」
アシルが声を出して笑うと、レリアは顔を赤くして怒っていた。
離れているから良く聞こえなくて会話の内容はわからないけど、今回も失敗したんだわ。
アシルがレリアを構う様子は、まるで小さな男の子が好きな女の子の気を引こうと頑張っているみたい。
好かれたいなら逆効果だと教えてあげた方がいいのかしら?
わたしがアドバイスしたところで、子供の戯言と流されてしまいそうだけど。
「アシルは派手な噂のせいで恋愛経験が豊富だと思われがちだが、女性の扱いがまるでダメなんだ。多分、レリアが初恋だと思うよ」
フェルナン様が小声で囁いた。
わたしは彼を振り返り、一緒に忍び笑いをした。
レリアは気づいていないけど、アシルと話している彼女は良くも悪くも感情がよく動いている。
あの敗戦の日から、レリアは感情を殺して生きている。
わたしに近寄る全ての者に警戒心を持って接し、常に注意をして、少しも気を休めることなく仕えてくれていた。
この国で一人でも心を許せる人ができれば、彼女ももっと穏やかに過ごせるはず。
アシルがレリアにとっての安らぎになってくれるのかはわからないけど、フェルナン様が信頼を寄せている人だから、わたしも信じたいと思った。
外に出る前に着換えるべく、与えられた部屋に入った。
屋敷にある私室と同じだけの調度品が揃えられていて、衣装箱も運び込まれていた。
「エリーヌ様、外出される前にお召し替えをいたしましょう」
レリアがにっこり笑って、衣装箱からドレスを出してきた。
彼女が笑う数少ない機会。
それがわたしを着飾らせる時だ。
他にも、わたしが何かの成長を見せるたびに笑ってくれるから、教養を培うための勉強や厳しい作法の修練も投げ出すことなく頑張れた。
フェルナン様に吊り合う姫になることが目標だけど、レリアが傍にいてくれるからこそ、わたしは心を強くしていられる。
「外出用に動きやすいデザインのものを選んでおきましたからね。ですが、淑女としての嗜みを忘れぬ程度にはお行儀良くしてくださいよ」
「ええ、なるべく期待に添えるようにするわ」
話しながらも、レリアは手を休めることなく、わたしにドレスを着せていく。
今日のドレスは少し大人びた雰囲気があった。
上品な青さの中に白いレースが要所に添えられ、綺麗に仕立てられている。
衣装のおかげか誇らしい気持ちになった。
大きなリボンで飾られた赤やピンクのドレスはかわいいけど、子供過ぎてフェルナン様に相手にしてもらえない。
相手にしてもらえないというのは語弊があるけど、わたしにしたら間違っていない。
フェルナン様は、二言目には可愛いとおっしゃるの。
頭を撫でて、良い子だねって。
可愛がってくれるのは嬉しいけど、レディとしては見てもらえていない。
レリアがわたしの前にしゃがみこんで、スカート部分を整えていた。
彼女を上から見下ろす形になると、衣服の上からでもわかる大きい胸の膨らみについ目がいってしまう。
自分の平らな子供の胸と見比べて落ち込んだ。
いくら大人みたいに振る舞おうとしても、わたしの体も心もまだ子供なんだ。
「エリーヌ様、どうかなされましたか?」
レリアの声に意識を引き戻される。
下から見上げる瞳と目が合い、気まずくなって横を向いた。
「なんでもないわ。少し気になることがあっただけよ」
「気になることですか? よろしければ、話してくださいませんか?」
心配そうに問われて困ってしまった。
どうしたらレリアみたいな大きな胸になれるのかなんて、聞かれても答えられないでしょうね。
悩みを言うべきか悩んでいるわたしの耳に、ドアをノックする音が聞こえた。
「誰かしら? 見てきますね」
レリアがドアに歩み寄っていく。
「どなたですか?」
「レリアか。オレだよ、オレ」
「オレなんて人は知りません、お引き取りください」
レリアはドアを開けることなく戻ってきた。
今の声、アシルよね?
レリアもわかってて開けなかったわね。
無視されてしまって困っているであろう彼は、再び扉を叩いてきた。
「意地悪しないで入れてくれよ。アシル=ロートレックです、侍女殿。フェルナン様のご命令で、エリーヌ妃殿下をお迎えにまいりました」
取り繕った真面目な口調に噴出してしまう。
面白い人だ。
くすくす笑ってから、顔を顰めているレリアに視線を向ける。
「レリア、入れてあげて。フェルナン様のお使いなら追い返してはいけないでしょう?」
「わかりました」
レリアはつかつか出入り口に歩み寄り、扉を開けた。
アシルが入ってくると、素早くこちらに戻ってきて、わたしの傍に立った。
そんなに警戒しなくても大丈夫なのに。
アシルがわたしに危害を加えるとでも思っているのか、レリアからはピリピリとした空気が発せられていた。
アシルはわたしを見て、感じのいい微笑を浮かべた。
「おや、新しいドレスですね。見違えましたよ、急に大人になられたようだ」
「ありがとう」
微笑み返して思いついた。
アシルに聞いてみようかしら?
「ねえ、アシル」
「はい、なんでしょうか?」
レリアが戸惑いの目で見ているけど、わたしは構わず問いを投げた。
「フェルナン様は胸の大きい女性が好みかしら? もしもそうなら、どうすれば大きくなるの?」
アシルもレリアも、目を見開いて固まっていた。
え?
や、やっぱり聞いてはいけないことだったのかしら。
何となくアシルなら聞きやすいと感じたのだけど。
アシルは彼にしては珍しく困った顔で唸った後、口を開いた。
「……そりゃ、まあ、ないよりはあった方がいいでしょうが、あの人はあまり拘らないかと思います。ですが、姫が大きくしたいとおっしゃるなら、今から殿下に揉ませ…・・・」
ぼくっと鈍い音がして、アシルの助言は途中で止められた。
レリアが暖炉の脇に積んであった薪で、彼の背中を殴りつけたのだ。
「あなた、エリーヌ様に何を吹き込む気!? エリーヌ様も、そのようなことは気になさらずともよろしいのです!」
「で、でも、わたしもレリアみたいになりたいの」
豊満な胸に細い腰、お尻の形も綺麗で、どんなドレスを着ても映える素敵な体型。
レリアはわたしの憧れなのよ。
いつの間にかレリアの背後にアシルがいて、わたしの言葉に頷きながら、彼女の脇からお尻までの線を両手で撫でていた。
「そうそう、侍女殿ほど見事な体つきの女は王都でも滅多に見ねぇしな。特にこの辺のラインなんかすげぇそそるっつーか……」
「触らないで、汚らわしい!」
レリアはまだ握り締めていた薪で、さらにアシルを殴りつけた。
少しも当たってはいないけど。
アシルは楽しそうにレリアの攻撃をかわし、手で受け止めたりしている。
やっぱり子供だわ。
わたしにもわかる彼の愛情表現も、レリアにはまったく伝わっていないのが悲しいわね。
アシルにダメージを与えられないことを悟ったレリアは諦めたのか薪を下ろして戻ってきた。
彼女はわたしの前に膝をつき、手を握って諭す口調で語りかけた。
「エリーヌ様、ご心配なさらなくても時がくれば体は自然に大きくなります。たとえ、成長が王子の好みと合わなくても気にすることも変える必要もないのです。神様が与えてくださったものを、人は感謝して受け取るべきなのです。王子が不満を述べられるのなら、それは神への冒涜です」
有無を言わせぬ口調に負けて、黙って頷いた。
これ以上、この話題を続けるべきではないんだわ。
わたしを説き伏せたことで満足したのか、レリアは晴れやかに微笑んで立ち上がった。
「お支度も整いましたのでまいりましょうか。騎士殿、案内お願いいたします」
「もちろんですとも侍女殿。それではこちらへどうぞ、姫」
侍女と騎士らしい言葉遣いで笑顔を作る二人。
繕われた空気に苦笑しつつ、わたしは彼らについていった。
森に入って少し歩くと、池が見えてきた。
湖と呼ぶには小さい、澄んだ水を湛えた大地の窪み。
桟橋が設置されていて、二人乗りの小船が数台置いてある。
フェルナン様は警護の騎士達を数人連れて先に行っておられて、小船の点検をされていた。
船底に穴が開いていたら危ないものね。
彼はこちらに気がつくと、ボートから降りてきた。
「準備はできているよ。エリーヌ、おいで」
差し出された手を、ためらうことなく取った。
ふわっと体が浮いたかと思うと、彼の両手で抱き上げられていた。
「エリーヌ様!」
レリアが血相を変えて駆け寄ってきたけど、フェルナン様は素早くボートに乗り込んだ。
わたしを中に座らせて、彼はレリアを振り返った。
「悪いがボートは二人乗りなんだ。心配だろうけど、私に任せてくれ」
レリアは不満そうだったけど頷いた。
わたしの行動一つ一つに神経を使っている彼女だから、今の心情も理解できた。
「レリア、心配しなくても大丈夫よ。それよりあなたも楽しんでね。そうだわ、アシルと一緒にボートに乗ればいいのよ」
いい思い付きだと思ったのに、レリアはとんでもないと顔を引きつらせた。
「結構ですわ。この男と二人でボート遊びをするぐらいなら、この辺の草むしりでもしていた方が楽しいです。お気遣いなく、わたしはエリーヌ様が遊ばれている間に、お食事の支度をしていますので」
「おいおい、酷い言いようだな。ボートぐらい幾らでも漕いでやるぞ」
アシルが口を挟んできたけど、レリアは無視して、フェルナン様に鋭い眼差しを向けた。
「では、王子。エリーヌ様からくれぐれも目を離されないようにお願いします」
「わかっているよ。万が一私が池に落ちても、彼女だけは無事に岸まで帰すよう努力する」
冗談なのだろうけど、そう言ってレリアに約束すると、フェルナン様はオールを操って船を池の中心へと向けた。
岸が遠くなる。
レリアの指示で騎士達が天幕を張って、椅子やテーブルを運び、侍女達がそれらを整えているのが見えた。
声は聞こえるけど、会話なんて聞こえない。
わたしとフェルナン様の会話も、誰に聞かれることもないんだわ。
日の光に照らされた水面がきらりと光る。
透明な水の下で悠然と泳ぐ影が幾つも見えた。
「あ、魚」
観賞用の魚のように綺麗な色彩を持つものではなかったけど、すいすい気持ち良さそうに泳いでいく姿に見惚れた。
フェルナン様がオールを動かすのを止めたので、ボートの速度が遅くなった。
風に任せてゆっくりと進んでいく。
わたしは飽きることなく水の中の魚達を観察していた。
「エリーヌ、あまり水面を覗き込むと落ちてしまうよ」
ぎゅっと腰に腕がまわされた。
フェルナン様はボートの中心に座ってバランスを取りながら、わたしの体を支えていた。
「ごめんなさい」
慌てて水面から目を離し、体を戻そうとした。
その拍子に小さな船体がぐらぐら揺れて、思わず小さな悲鳴を上げてフェルナン様にしがみついた。
「落ち着いて、エリーヌ」
頭を撫でて優しく諭す声。
彼の声は不思議。
どんなに不安を感じていても、全て打ち消してしまう力があった。
「私の首に腕をまわして。うん、そう、それでいいよ」
向かい合う形でわたしは彼の腕の中にいた。
フェルナン様は船底に座り込み、わたしを抱えて空を見ている。
「こうやって浮かべた小船の上でぼんやり過ごすのも好きなんだ。特に戦に出た後なんかにはね。反省したり、後悔したり、自分の中で持て余している感情を整理しに来るんだ」
今回フェルナン様がここに来られたのは、ネレシアとの戦争についてだろうか。
彼の腕の中で体を反転させ、わたしも空を見上げた。
「フェルナン様はネレシアとの戦を後悔されているのですか?」
「後悔とは違うかな。やれるだけのことはしたつもりだし、結果には満足できていないが、出た答えは最善のものだったと思う。それでも割り切れない気持ちはあるんだよ」
フェルナン様の手がわたしの金の髪を撫でる。
腰にまわされた腕が柔らかく体を抱いていた。
「私は争いごとが嫌いだ。できれば誰とも争わず、平穏の中で一生を終えたいと思う。だが、王子として生まれた以上、そんなことは口にできない。故国を守るためには感情を押し殺してでも戦わねばならない。だからといって、殺したくなかったなんて言い訳をしてはいけないんだ」
フェルナン様は戦の中で殺めた命について悲しんでいる。
そして、ご自分を責めている。
割り切れない感情とは、人殺しの自分を認めること。
正当性を主張して開き直ることも、仕方がなかったのだと責任を回避することもできずに胸に抱えこんでいるんだ。
「エリーヌは私が怖いかい?」
「いいえ」
「私が君の父上をこの手で殺めたのだとしても?」
耳に届いた言葉は衝撃的なものだったけど、驚くことなく受け入れた。
「お父様が最後まで戦うと言われたのでしょう? 父の気性はわかっています。敗北を認めるぐらいなら戦場での死を選ぶ。プライドの高い、負けず嫌いな人でしたもの。フェルナン様が降伏を勧められても頷きはしなかったでしょうね」
父の死を悼む気持ちはある。
それでもフェルナン様が喜んで殺めたわけではないこともわかっていた。
「お父様は最後に何か言っていませんでしたか? 例えば娘を嫁にやるとか、そんなことを。口癖でしたもの、自分を倒せるほどの男でないと嫁にはやらないって」
「うん、娘をくれてやってもいいと言っておられたよ。それから王妃様と君の命を助けてくれと……」
彼の顔を振り仰ぎ、すぐに視線を戻して目を閉じた。
フェルナン様の瞳にも、今にも涙が浮かびそうだった。
誰もいないこの場所だからこそ、フェルナン様は涙を流せる。
そんな大事な場所に連れてきてくれたことが、わたしへの信頼と愛情の証だった。
「ごめんね、もうしばらくここにいてもいい?」
「はい、気が済まれるまでお付き合いいたします」
わたしも国を出てから初めて泣いた。
もう泣かないとお母様とレリアの前で約束したけど、今この場所でなら、胸に秘めた悲しみを曝け出してもいいのだと思えた。
レリアはフェルナン様を仇だと言うけれど、わたしはこの人を憎めない。
父の返り血で濡れたであろう手を持つ人は、同じほど心で自らの血を流していた。
彼は奪った命の重みを知り、それら全てを背負って生きようとしている。
あの戦争で生まれた罪は誰か一人だけのものではない。
幼いわたしにできることは限られているけれど、彼が心に積み重ねている罪の意識を少しでも軽くしてあげたかった。
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