憎しみの檻

フェルナン編・1

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 私は昔から争いごとが好きではなかった。
 しかし、生まれ育った王宮は、激しい権力闘争が繰り広げられる醜い世界であった。
 同腹の兄弟である二人の兄は年子で生まれ、競い合わせて育てられた。
 父も兄達も、競争は次代の王の資質を育てるためであると認識しており、国を乱そうという気持ちはなかったのだが、臣下の者達はどちらの王子につけば得かと考えて勝手に派閥を作って張り合っていた。

 また後宮も戦場だ。
 王妃である母は、後宮の主だ。
 故国の豊かな財力を後ろ盾に輿入れしてきた母は、側室達を押さえ込み、逆らう者は排除した。
 冷酷なのではなく、それが王宮で生き残る術なのだ。
 母が持つ、絶大な権力を認識すると、側室達は保身のために従った。
 母は従う者には寛容に接し、時には優しく振る舞った。
 飴と鞭をうまく使い分けて、後宮をまとめ上げ、結果的に秩序ある穏やかな空間を作り上げた功績は父も高く評価している。
 母もまた、優秀な統治者である父には敬意を持っており、夫婦仲は良好だ。
 王の篭絡を目的とした美しい姫が献上されようとも、父が惑わされることはなく、常に母を立てた。
 父は弱みを見せないように決して口にはしないが、案外母のことを愛しているのかもしれないと思ったのは、私が妻と名実共に夫婦になった後のことだ。

 私の父母と兄達は、良い意味でも悪い意味でも王族である。
 個人の感情や利益は二の次で、一番に考えるのは国や周囲をどう治めるかだ。
 権力と富を得ようと蠢き、策略を弄する貴族達を制する為に、必要とあらば計略を用いて罠を張り、偽りを重ねて対抗する。
 しかし、私は違った。
 人間の底知れぬ負の部分と向き合うには心が弱すぎた。
 王位継承権を持つ王子として生まれながら、私は王宮の闇に太刀打ちすることができなかったのだ。

「フェルナンは優しい子ね。無理はしなくていいわ、あなたには頼もしい兄達がいる。そうね、一人ぐらい自由な息子がいてもいい」

 私の弱さを見抜いた母は、慰めの言葉をかけて頭を撫でてくれた。
 父や兄達も、なぜか母の言葉に頷いた。
 自由にする見返りに、彼らが私に望んだのは純粋な家族であることだった。
 見返りと呼ぶにはおかしいかもしれないが、私は駆け引きなどとは無縁の世界で生きることによって、彼らの単なる息子、弟になることができた。

 騎士になったのも、無用な争いを引き起こさないためだ。
 王位継承権を主張せず、家臣に第三王子の派閥を作らせないように、私は王宮を離れた。
 近衛騎士団は、家族が私に与えてくれた強大な剣と盾だ。
 最強の部隊に守られているからこそ、私は軍神と称えられるほどに勝利を重ねることができた。
 戦は嫌いだ。
 人を殺すのも嫌だ。
 戦いが終わった後は、犯した罪の重さに怯え、涙を流して己が殺めた魂に許しを請うた。
 しかし、私が剣を振るわねば、殺され、踏みにじられるのは私の愛する人々なのだ。
 私の存在理由は愛する家族を守ること。
 エリーヌに出会うまで、それが私の全てだった。




 それは私が経験した中で、最も長い戦いだった。
 二年という歳月は、決して短いとは言えない。
 開戦のきっかけは我がアーテスの支配国をネレシア軍が侵略したことによる。
 元々、両国は長年に渡り敵対してきた。
 周辺諸国を凌駕する高い国力を誇る二国は、何かと張り合って小競り合いを起こすことが多かった。
 お互い、ぶつかれば最後と慎重になっていたために、これまで大きな戦は起こらなかったが、今回のネレシア軍の侵攻がかろうじて保たれていた均衡を崩したのだ。

 この度の戦争は、ネレシア軍の壊滅という形で終焉を迎えた。
 王は私がこの手で討ち取り、亡骸を回収した。
 我が軍の兵達は、ようやく戦が終わったと安堵の表情を浮かべ、歓喜の声を上げた。
 報告では、この場にいたのが最後の軍勢。
 王都には僅かばかりの兵が残っているだけだ。
 ネレシアの王妃は聡明で穏やかな気性の持ち主だというので、むざむざ残った民を道連れに死を選ぶようなマネもすまいと考える。
 回収した遺体の処置を終え、全軍を指揮して王都を目指した。




 王城に到着し、開城を要求すると、王妃は抵抗することなく門を開けた。
 王妃との対面の場に、侍女に伴われて現れた王女はとても幼い姫だった。
 ネレシアの民の特徴である金髪碧眼の色は濁りなく鮮やかで美しい。
 子供らしい小さな丸顔は理想的に整い、笑みを浮かべればさぞや愛くるしいであろうと想像できた。
 しかし、王女の顔は不安で青ざめ、傍らに立つ侍女の手を握り締め、怯えた様子で成り行きを見ている。
 敵国の姫ではあったが、私の胸に湧いたのは憐憫の情だ。
 王族に生まれついた定めとはいえ、何も知らない幼子に戦の責任を負わせるのは気が重い。
 それでも役目は果たさねばならない。
 私は王女を人質として本国に連れ帰ることを告げ、必要なことを王妃とネレシアの家臣達に話すと、戦の事後処理を始めた。

 王や騎士達の遺体を城壁に晒すことは、戦の終結と我が国の勝利を周知徹底させるために必要なことではあったが、あまり気分の良いものではない。
 できるだけ遺体を傷つけることなく終わらせ、丁重に埋葬することで何とか心に折り合いをつけた。
 エリーヌ王女を部屋に軟禁したのは、遺体を見せたくなかったからだ。
 ただでさえ不安だろうに、ショックを受けるとわかっているものを見せたくはない。
 母とも引き離されて、さぞかし心細い思いをしているだろうと気にはなっていたが、片付けるべき案件が山積みで、様子を見に行くことができたのは彼女を軟禁して三日目のことだった。

 部屋に入ると侍女はおらず、王女一人だった。
 彼女は緊張しているのか、硬い表情で私を迎えた。
 あまり近づいては怖がらせてしまうような気がして、扉の近くで立ち止まり、声をかけた。

「急に来て悪かったね。三日も閉じ込めておいて言うのも何だけど、元気かい?」
「はい、大丈夫です」

 王女は頭を縦に振ったが、俯いた顔の下で鼻をすする音が聞こえた。
 泣いていたのだろうか。
 哀れに思い、慰めようと近づいていく。

「すまない。母君と引き離されて心細いだろうが慣れてくれ。もうじき君はアーテスに行かねばならないんだ」

 どう言えば、励ますことができるのだ。
 アーテスに連れて行ったところで、彼女の立場はますます苦しくなる。
 敗戦によって支配下に入った国の姫だ。
 父や兄にはすでに后が大勢おり、その中の一人になれば他の后達から侮られ、嘲笑を受け、虐げられる可能性は大いにあった。
 後ろ盾のない姫が王宮でどんな扱いを受けるのか、想像が容易いだけに辛くなる。

「わたしはネレシアの王女です。自分が何をしなければならないのかわかっています」

 私の表情を見てか、王女ははっきりと言い切った。
 未来に何が待ち受けているのかわからず、この場から逃げ出して母の胸に飛び込んで甘えたいだろうに、我慢して耐えている。
 幼くても王族としての役目を心得ている少女に称賛の念を抱いた。
 力になりたいと、何の打算もなく強く思った。

「エリーヌ王女、君は私が守る。この国も、君自身のことも、決して悪いようにはしない」

 私は国を守るために戦ってきた。
 だが、戦は終わったのだ。
 敗者を蹂躙したところで、戦の遺恨は消えず、新たな火種を増やすだけだ。
 この幼く健気な姫のためにも、私は剣を振るうことを密かに誓った。




 エリーヌ王女を連れ出すのは、ネレシア国内に残る危険分子を押さえ込むためだ。
 王家再興の旗頭となるべき唯一の王族が国外に消えれば、彼らは大義名分を失い統率が取れない。
 王家の血を引く傍系の貴族が蜂起しようとしても、誰が王となるかで揉めるのは明白。
 それに人々を導くほどの統率力を持つ者は、王に殉じて全て亡くなった。
 我らアーテス軍が節度ある行軍を認められ、大きな反発も受けずにネレシアの民に受け入れられたのは、反乱を主導する者がいないせいでもあった。

「殿下、本国よりの書簡です」

 部下から手渡された書簡を開き、目を通す。
 父上には毎日報告書を送っている。
 事後処理を任されているとはいえ、幾つかの重要な案件は父上の意見も伺わねばならないからだ。
 王女の処遇もその一つだ。
 父上も王女の立場をどうするか決めかねている様子だった。

 父上は王として時に冷酷な判断を下される時もあるが、血も涙もない暴君ではない。
 敵国の民であっても不当な扱いをしないようにと、厳しい軍律を徹底させたのも父上自身だ。
 そんな父上だから、王女を後宮に迎えたとしても蔑ろにすることはない。
 母上も、王女がおとなしく従うのならば可愛がってくれるだろう。しかし、他の后は違う、幼くとも競争相手なのだ。
 兄上達の許に嫁いでも同じだ。
 正妃の立場にいる兄嫁達は無力な姫には寛容だろうが、同じ立場となる側室達は良い顔をしない。
 父上は書簡でそれらの懸念を書いてきたが、私に対する具体的な指示はなかった。
 やはりと苦笑して、書簡を閉じた。

 両親も兄達も、私にだけは政略結婚を強いることはなかった。
 国の利益を考えての婚姻は避けられぬとはいえ、相手は自分で決めていいと言われていた。
 私は父や兄達のように割り切れない。
 政略によるものでも妻を娶るなら一人と決めている。
 だからこそ、人質としての価値しかない姫との縁組を父上が私に命じることはないのだ。

 兄達はエリーヌ王女を后にはしないだろう。
 彼女は父の後宮に入れられ、安定した生活と引き換えに寵愛を得ることはなく、側室達から蔑まれ、夢も希望もない寂しい人生を送ることになる。
 生き残った故国の民のために、自ら人質になろうとしている小さな姫を思うと胸が痛んだ。
 私が殺めた王が、最期の時まで気にかけていた娘が不幸になろうとしている。
 同情だけで伴侶を決めるのは愚かなことかもしれない。
 それでも、この胸の痛みに目を背けて成り行きに任せてしまい、死ぬまで後悔するよりはマシだ。
 私は王女を娶ることに決めた。
 愛情も利益もない結婚だったが、自らが下した決断に迷いはなかった。




 本国に戻り、私はエリーヌ王女を后にする旨を、父や兄、重臣達の前で告げた。
 慌てたのは前々から縁談を持ち込んできていた貴族達だ。
 王位継承権を半ば放棄しているとはいえ、父や兄達のお気に入りである私には、まだ取り入るだけの利用価値があると考えているらしい。
 王女が正妃に迎えられると知り、彼らは私に詰め寄ってきた。

「フェルナン様、お考え直しください! あの姫には正妃にする価値などありませんぞ! せめて側室になさり、正妃にはぜひ我が娘を!」
「いやいや、それならば私が良い娘をお引き合わせいたします! 持参金もたっぷりとありますし、年頃もちょうど良い。失礼ながらエリーヌ王女では果たせぬ妻の役目もご満足いただけるはず」

 エリーヌに財力も権力もないことと幼過ぎることを持ち出して、唾を飛ばさんばかりに叫ぶ貴族達。
 そんなことは百も承知で結婚するというのに、なぜ理解できないのだ。

「財力も権力も私自身が十分持っている。それに今は幼くとも数年待てばいいだけの話だ。それにお前達も承知の通り、私は両親にも兄達にも気に入られている。誰と結婚しても、婚姻によって得をするのは妻だけだ。それならば、心許ない立場の姫を守ってやる方がよほど良い」

 私はエリーヌを保護する目的を隠そうとしなかった。
 愛情からではなく同情や憐れみで娶ったことは明らかなわけだし、こうしてはっきりさせておけば、彼女に危害を加えようという愚か者も出ないはずだ。
 私の態度が明快だったせいか、彼らもそれ以上は強く言えずに引き下がった。
 しかし、数日もすれば私の考えが変わったのではないかと期待して、彼らが再び縁談を持ってやってくることは、これまでの経験でわかっていた。
 これは早めに式を挙げた方が良さそうだ。
 思いつめた者達が、エリーヌを亡き者にしようとすれば元も子もない。
 手続きや支度を急がせて、三ヵ月後には正式にエリーヌを正妃に迎えられるように指示を出した。

 念のため、エリーヌの周辺には常に警護の者を置いて警戒していたが、何事も起きず、我々の生活は穏やかなものだった。
 私の生活で一つ変わった点を挙げるなら、出がけと帰宅に華が添えられたことだろうか。
 エリーヌは唯一果たせる妻の務めと意識しているのか、毎日欠かさず見送りと出迎えに出てきた。
 彼女は小さな手を振って、元気いっぱいの笑みを浮かべる。

「フェルナン様、いってらっしゃいませ!」

 微笑ましさに目を細め、私も手を振って応える。
 彼女の可愛らしい笑顔は魔法のような効果を持っていた。
 その笑顔で見送られれば元気が出るし、疲れて帰れば癒される。
 家で帰りを待つ人がいるというのは嬉しいものだ。
 近衛騎士団の既婚者達が、毎日妻子が待つ家に帰るのを心待ちにしている気持ちがよくわかった。
 すぐにエリーヌは生活の一部になった。
 彼女の侍女のレリアは主とは違い、なかなか私に打ち解けてはくれなかったが、時間をかければ信頼してくれるようになるだろうと考え、今はエリーヌとの関係を良好に保つために努力することにした。

 同伴者が必要な場では、必ずエリーヌを連れて行った。
 彼女以外の后は必要ないと知らしめるため。そして、私がどれだけエリーヌを大切にしているかを見せ付けて、彼女の敵を減らすためだ。
 王子の寵愛を受ける姫を蔑ろにする勇気のある家臣はそれほどいない。思惑通り、私との縁組を企む一部の者を除き、多くの貴族達はエリーヌに敬意を表し、礼儀を弁えて接するようになった。

 それらの堅苦しい外出ばかりでは可哀想なので、観劇や買い物に誘い、遠乗りにも連れ出した。
 貴族達が大勢集まる社交の場では、不安そうな顔つきをするエリーヌだが、私と二人だけでの外出時には大きな声で笑い、緊張する素振りは少しも見せなかった。

 もちろん私が与える喜びや平穏が全ての埋め合わせになるわけではない。
 故国にいる母を思い出しているのか、時折寂しそうな様子のエリーヌを見かけることがあった。
 そんな時はレリアが彼女の傍にいて、二人で思い出を話しながら励ましあっていた。
 やはり王妃の懇願を受けて、レリアを連れてきて良かったと思う。
 私はエリーヌの悲しい顔を見るのが嫌だった。
 彼女にはいつも笑っていて欲しい。
 幼い姫への同情心は形を変えて、徐々に別の感情に育っていった。

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