憎しみの檻
フェルナン編・2
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ある日、近衛騎士団に所属する騎士が結婚したというので、私が主催して祝いの宴を開いた。
その数日後、レリアが思いつめた顔をして話があると声をかけてきた。
エリーヌを寝かしつけた後で、彼女は私の部屋を訪ねて来た。
彼女が私に話とは珍しい。
出会った時から警戒心を剥きだしにして、私を威嚇してきたレリアだが、その態度は今でも変わらない。
彼女の警戒心や敵意の理由が、全てエリーヌを守ろうとするがゆえのものだとわかっているから、苦手には思っても嫌いにはなれなかった。
逆に哀れに思う。
エリーヌの幼さで忘れがちだが、彼女自身もまだ十代半ばの少女なのだ。
戦は終わったとはいえ、敵国で暮らす不安や緊張は想像以上のものだろう。
「何か飲むかい?」
「いいえ、お構いなく」
寝酒にと部屋に置いていたブランデーを勧めたが、すげなく断られ、自分の分をグラスに注いで一口飲んだ。
レリアは勧めた椅子にも座らず、鋭い眼差しを私に向けた。
「フェルナン王子、あなたはどこで性欲を解消されているのですか?」
思いも寄らない露骨な問いに、驚いて咽た。
胸を叩き、呼吸を取り戻すと、呆然と彼女を見つめる。
レリアは頬を赤くして目を逸らした。
「大事なことです。あなたは娼婦を買われない、貴婦人達の誘いにも随分とつれない態度をお取りなると噂を聞きました。どこかの誰かさんとは大違いの禁欲生活を営まれているそうですね」
誰かさんとはアシルのことだろう。
その部分を語る時の彼女の口調は、わかりやす過ぎるほど不機嫌なものだった。
まあ、今はそのことが本題ではないのだろうが。
「そうだね。これでも一応経験はあるが、ここ数年はご無沙汰している。特に今はエリーヌがいるから、他の誰かを寝室に招く気はないよ」
私が側室を娶る心配をしているのだろうかと思って、にこやかに答えた。
すると、予想に反してレリアの顔は蒼白になり、引きつった。
「どうしたんだ?」
「やはり、あなたはそのおつもりなんですね?」
硬い表情で睨まれて困惑する。
彼女には日頃から、エリーヌに不埒な振る舞いをするのではと警戒されていたことを思い出した。
レリアは意を決したように、服のボタンを外し始めた。
白い喉が覗き、下着に包まれたふくよかな胸まで露わになる。
彼女のスカートが床に落ちた瞬間、我に返った。
シュミーズ一枚になったレリアの姿は、艶やかで美しかったが、見惚れている場合ではないと悟るほどには理性は残っていた。
「レリア、君は何をしているんだ!?」
「エリーヌ様はまだ子供です。女性が必要だとおっしゃるなら、わたしを抱いてください。エリーヌ様には手を出さないで」
レリアは目を閉じて、肌を覆う最後の一枚まで脱ごうとする。
仰天して駆け寄り、彼女の手を押さえた。
私が触れると、レリアの体に震えが走る。
レリアは動揺し、怯えていた。
私に身を任せようとしていたとは思えないほど、彼女は落ち着きをなくして立ち尽くしていた。
「大丈夫かい?」
素早く椅子にかけてあったマントを掴み、彼女の体に着せ掛ける。
レリアが小さな声で何か呟いた。
「一人が二人に増えるだけよ。何を怖がっているの」
独り言なのだろうか、聞こえないほどの小声だ。
顔を上げた彼女の顔は先ほどよりも赤くなっていた。
「わたしはどうなってもいい。エリーヌ様だけは傷つけないでください」
目に涙を浮かべて懇願する彼女は痛々しかった。
それと同時に不審に思った。
この国に来た時よりも、彼女の警戒心が強くなっている。
私に対する信頼も元より低かっただろうが、これほどではなかったはずだ。
何が彼女を怯えさせたのだろう。
できるだけ穏やかな表情を作り、柔らかい声を意識して話しかけた。
「君が身を投げ出さなくてもエリーヌは傷つけないよ。それより自分を大事にするんだ、こんなことはしちゃいけない。さあ、早く服を着て」
服を着るように促したが、レリアは動かなかった。
不安そうに私を見つめ、躊躇している。
「今はそうでもいつまで我慢できますか? エリーヌ様が成人なさるまで、何もしないと約束できるのですか?」
「確かに妻以外の女性を抱く気はないが、それで欲求不満になることはないよ。今までだってベッドを共にする相手なんていなかったんだ。性欲なんて起こらないぐらい、他の興味や関心ごとがたくさんあるからね。私は人の道に外れた行いはしない。君が心配するようなことは何もないんだ、信じてくれ」
その証拠に、肌も露わな美少女を前にしても、まったくその気が起きないのだ。
レリアの様子が尋常ではなく、情事に耽る雰囲気ではないこともあるのだが、男としてこれでいいのかと自分でも疑問に思うほどの無反応ぶりだ。
だが、レリアの信用を得るにはちょうど良い。
聖人君子のごとき言葉を並べ立てながら、股間を膨らませていては格好がつかないではないか。
レリアの瞳から疑いは消えたが、表情は固いままだ。
まだ私を信用しきれずにいる。
彼女をこんな行動に駆り立てた原因が最近起こったとしか思えない。
「何かあったんだね? 誰かが君を傷つけたのなら言うんだ。私は君のためでも剣を振るう。弱き立場の女性を守るのは騎士の務めだ」
レリアは俯き、首を横に振った。
諦めの表情が窺える。
訴えても無駄だと思っているのだろうか?
「いいえ、何もありません。わたしはエリーヌ様さえ守れればいいのです。そのためならば、この身など惜しくはない。フェルナン王子、あなたを信じてもよろしいですね?」
「ああ、私は信頼を裏切らない。エリーヌもだが、君のことも必ず守る」
レリアはマントを私に返し、こちらに背を向けて脱いだ衣服を身に着け始めた。
きちんと最後のボタンを留めてから、表情を引き締めてこちらを振り返る。
「仇に縋らねばならない、無力なこの身が憎い。ですが、大切な人を守るためなら、何の役にも立たないプライドなど捨てます。どうか、エリーヌ様を守ってください」
レリアはわたしに頭を下げて部屋を出て行った。
重い空気が残り、ため息をついた。
悲壮な少女の言葉と表情が何度も繰り返し思い起こされて、痛ましい気持ちに苛まれた。
レリアに何かが起こったことは間違いない。
だが、彼女が話してくれないのなら力になることも叶わないのだ。
明日にでも、アシルに相談しよう。
アシルもレリアのことは気にしているようだから、力になってくれるだろう。
翌日、近衛騎士団の兵舎にある執務室にアシルを呼び出した。
人払いをしてから、念のために声を潜めて昨晩のことを切り出す。
レリアが服を脱いだことだけは意図的に話さなかったが、それ以外のことは良いだろうと、彼女とのやりとりを話して聞かせた。
「レリアは私に触れられることを恐れていた。恐らく男に乱暴な振る舞いをされたのではないかと思うのだが、尋ねても答えてもらえなかった」
アシルは眉を顰めて話を聞いていたが、そっけない態度で私の心配を杞憂だと一蹴した。
「年頃の娘が男を警戒するのは当然でしょう、考えすぎです。彼女にとってここはまだ敵国だ。殿下が心配なさらなくても、レリアの身辺にはオレが目を光らせているんで大丈夫です」
「そうだろうか? わかった、レリアはお前に任せる。彼女はただでさえ精神的に疲れているんだ。なるべく穏やかな環境を与えてやりたい」
昨晩のレリアの姿が脳裏をよぎり、声に力が入った。
アシルは難しい顔で私を見ており、ためらうように口を開け、一呼吸置いて問いを発した。
「殿下は姫だけでなく、レリアも気に入りましたか?」
昨日から、予想外の問いばかりされている。
あっけに取られて何も言えなかった。
「レリアは他国のとはいえ、貴族の娘です。お望みなら妾妃にもできますよ」
アシルは不本意そうな様子を隠そうともせずに、そんな提案をしてきた。
頭が痛くなってきた。
レリアもアシルも、私をどんな人間だと思っているのだ。
大体、今の言動ではっきりした。
レリアを気に入ったのはアシルだ。
それなら昨夜のレリアの言動も、彼の気に入るものではなかったはずだ。
先ほどから難しい顔をしているのはそのせいか。
幼い頃から共に過ごしてきた男の初めての恋らしきものに気づいて頬が緩んだ。
私の笑みをどう捉えたのか、アシルの機嫌はさらに悪くなったようだ。
「笑い事ではありませんが?」
「ああ、すまない。レリアのことだが后にはしないよ。そんなことをすればエリーヌが悲しむし、レリアにも今よりもっと憎まれてしまう」
そしてアシルにも嫌われるだろう。
レリアは確かに魅力的な女性だが、そのようなリスクを受け入れてまで求めるほどの執着など始めからない。
「何だったら例の噂を本当にして、アシルが妻にすればいい。手順を踏んで求愛から始めるなら協力するぞ」
これまで女性経験が豊富なことを自慢してきた男だが、彼の経験とは全てベッドの中で行われる営みのみに過ぎない。
贈り物を捧げ、愛の言葉を紡ぎ、相手の信頼を勝ち得、幸福を分け合うという普通の恋愛の経験など皆無なのだ。
その点では私も同じだが、少なくとも私には心構えや知識がある。
求愛行動が順調に進んでいる証拠に、エリーヌは私に心を開いてくれている。
最近では起床に就寝、見送りや出迎えの時にする挨拶にも、キスや抱擁が加わった。
エリーヌはとても可愛い。
今朝受けた、愛らしい彼女の見送りのキスを思い出してにんまりした。
「手順を踏んでってのは難しいですよ。なんせ、オレはあいつの兄貴の仇だし、殿下よりも仲良くなるのが難しい立場なんです」
アシルは肩をすくめた。
彼がレリアと信頼関係を築くなら、私以上に努力をしないといけないのだ。
二人の間に立ちはだかる遺恨は最悪なものの上、女性にだらしのないアシルに、あの生真面目なレリアが心を開いてくれるのか私も不安になった。
しかし、これはアシルがどうにかせねばならない問題。
私ができるのはアドバイス程度の些細なことだ。
「まずは女性関係を整理してはどうかな? レリアの印象を良くするところから始めるべきだろう」
「それは無理です。女断ったら欲求不満でさらに最悪なことになりそうなんでね」
アシルは私の助言に首を振り、苦笑を残して部屋を出て行った。
最初から諦めてしまっては何も始まらないのだが、私が口を出しても良い方向には進まないかもしれない。
全ては時間が必要だ。
戦争の傷跡はそう簡単に癒えはしないのだから。
ネレシアを支配下に治めて六年が過ぎ、我がアーテスの国力はますます高まり、他国の脅威に怯えることはなくなった。
それでも遠征に出る機会は減らない。
賊の討伐や同盟国の救援要請などに応じ、近衛騎士団を率いて出陣することも数多くある。
私が留守の間、エリーヌには特に十分な護衛をつけている。
第三王子の寵妃という肩書きも彼女を守ってくれるが、やはり不安は付きまとう。
報告の書簡とは別に、エリーヌの安否を問う手紙を送り、父にも確認してもらえるように頼むのだ。
私の過剰ともいえる妻の溺愛ぶりを、父母や兄達はことあるごとに笑ってからかう。
だが、それと同時に冷静な忠告を受けることもあった。
「エリーヌ姫はただの子供だ。しかし、彼女の存在はそれだけで危険なものでもある。反乱を企てる者達にネレシア王家の血を利用されないとも限らない。そうなった時、お前は彼女を斬り捨てることができるか?」
次期国王と目される第一王子の兄上が私に問うた。
父母も第二王子の兄も、これに近い問いを私にしたことがある。
この問いへの答えは決まっている。
兄上の問いにも、私ははっきりと答えた。
「もし、エリーヌの存在がこの国の災いとなるならば、私は彼女をこの手で殺めることになろうとも躊躇いません。それは私がアーテスの王と民を守る騎士だからです」
微かに驚きを見せた兄に向かい、笑って見せる。
「ですが、私にとってエリーヌは生涯一人と決めた妻。その妻を殺めて生き延びるつもりはありません。この手で彼女を黄泉へと送った日が私の命日となるでしょう」
迷いなく答えた私に、兄はため息をついた。
「お前らしい答えだ。そんな事態に陥らないように我々も最善を尽くそう。ネレシア国内にいる不穏分子の掃討は順調に進んでいる。首謀者は利権を奪われた元貴族達だから燻りだすのは簡単だ。大半の民は与えられた自由に満足し、荒れた国土の復興を目指して懸命に働いているというのに、バカな連中は次々湧いて出てくる」
戦後、ネレシアに派遣されている軍や官僚は、多くがこの兄上の部下だ。
第一王子直属の部隊が治安維持に常駐し、先に述べたような反乱の火種を蒔こうとする者達を取り締まっていた。
私が戦で支配下に入れた国は、上の兄達が復興に手を貸し、混乱を鎮める役目を担う。
国を治めるに相応しい力量を持っているのは誰なのか、競い合って父に認めてもらうためだ。
どちらの兄も、今まで任された国をうまく治めてきた。
だから、ネレシアについても心配はしていなかった。
「欲に囚われて大切なものが見えなくなる人間が、何もネレシアにだけいるわけではないことは兄上もご存知でしょう? 私にはやはり王位を継ぐことは無理です。兄上達のどちらが王になられても、私は臣下の分を弁えてお仕えいたします」
騎士であることが、私の生きる道だ。
例えそれが、どれほど血に濡れていて辛くても、人を殺めた罪悪感や恐怖に震え、隠れて涙を流そうとも、大切な人を守り、生まれ育った国のために戦うことを後悔したことは一度もなかった。
遠征の道中、気を抜くと頭に浮かぶのはエリーヌの姿だった。
笑顔を思い浮かべて気力を奮い立たせ、気分が重くなった時の慰めにもする。
そのことも手伝って、敵の脅威を振り払った後はエリーヌへの土産を買うのが習慣になってしまった。
屋敷で待っている彼女の安否が心配でもあったが、土産を見て喜ぶ顔を想像するだけで幸せになれた。
「殿下、まだですか?」
アシルが呆れ顔で私を促す。
白い花の髪飾りと赤い花の髪飾り、どちらがいいかと悩んでいたところを肘でつつかれた。
「それで何個目ですか? 買い過ぎです。いい加減にしないと荷物持ちの従者の腕が潰れますよ。その髪飾りがなくても、姫は十分喜ばれます」
「エリーヌは土産がなくても帰宅を喜んでくれるさ。これは私が贈りたいんだ」
スキンシップがキスと抱擁だけなのが現状だ。
愛情を示す方法が限られている以上、プレゼントは重要な比重を占めている。
愛はお金に換えられないというが、これは私の気持ちだ。
一つ一つ自分で選び、気持ちを込める。
愛しいエリーヌ。
君が喜ぶ顔を見るのが楽しみで仕方ない
「これも可愛いな。エリーヌに似合いそうだ」
白の髪飾りに決めた後、その隣に置いてあったペンダントに目を留める。
私の背後でアシルが盛大なため息をついたのが気配でわかった。
そういえば、アシルは土産を買ったことがないな。
レリアと付き合っていながら他の女との噂も絶えないし、たまには助言すべきだろう。
「アシルは買わないのか? これなんか、レリアにプレゼントすれば喜ぶと思うよ」
真珠のネックレスを掴み、アシルに見せた。
もちろん、土産の品はアシルに選ばさねば意味がない。
アシルは渋々といった態度で陳列されている品に目をやったが、困り果てた顔をこちらに向けてきた。
「オレ、こういうのあんまり得意じゃないんですよ。変なもん贈ったら嫌われるでしょうが」
「レリアに似合うと思うものを贈ればいいんだよ。真心は必ず伝わるさ」
励ましの意味で微笑み、店員を呼んでアシルを引き渡した。
言葉通り乗り気ではない様子を見せていたアシルも、商品を見定めているうちに表情が明るくなり、自ら手にとって確かめるまでになった。
彼が何ゆえ恋人に対して不実な態度を取り続けるのかはわからないが、少なくとも好意がないわけではない。
アシルはレリアを愛している。
そして、レリアも……。
レリアは未だに私達と距離を置き、打ち解けようとはしない。
アシルに対しても同じで、人前での二人の会話は友好的とは言えないものばかりだ。
だが、ベッドを共にしていることは、何年か前から知っている。
二人の関係は、私の想像以上に複雑らしい。
一度、レリアに尋ねたことがある。
アシルの浮気について気にはならないのかと。
レリアは冷めた表情で「別に」と答えた。
「自由にすればいいんです。私は彼に何も望んではいません。むしろ、他の女に乗り換えてくださった方が清々します」
強気な態度でアシルのことはどうでもいいと言い放った彼女だが、言葉と態度には矛盾が垣間見えることがあった。
アシルの来訪が数日途絶えると、レリアの機嫌が目に見えて悪くなる。
不平や不満をこぼすわけではないのだが、近くにいると不機嫌なのがよくわかった。
そろそろ爆発するのではと不安に思った頃に、アシルがやってくる。
彼の来訪を知らされても無関心を装うレリアだが、瞳は輝きを帯び、不機嫌だった気配が瞬く間に静まるのだ。
彼らは確かに想いを寄せ合っているのに、何かが邪魔をしている。
それが何なのか、後にアシルから打ち明けられるまで、私が気づくことはなかった。
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