憎しみの檻

フェルナン編・3

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 遠征からの帰還後、屋敷にすぐ帰ることはできない。
 王宮にて遠征の報告を済ませ、留守中に溜まっていた執務の中で急ぎのものだけ片付ける。
 ようやく帰宅できたのは、空に星が瞬き始めた頃だった。
 
 先に知らせが行っていたので、屋敷の玄関に使用人達が勢ぞろいして待ち構えていた。
 彼らより一歩前で、エリーヌが微笑んでいる。
 我が家に帰ってきた喜びを噛みしめていた私だが、ふと違和感を覚えた。
 違和感はエリーヌからする。
 間違いなくいつもの彼女なのだが、何かが違って見えた。

「お帰りなさいませ!」

 迎えの言葉と共にエリーヌが抱きついてきた。
 私も腕を広げて迎え、愛しい少女を抱き締める。
 そこで違和感の正体がはっきりした。
 私の体に押し付けられている柔らかい二つの膨らみの存在が、以前よりずっと豊かになっていることに気づいてしまったのだ。
 視線を下に落とすと、ドレスの胸元から今までなかったはずの深い谷間が覗いている。
 腕をまわしている腰は女らしくくびれており、その先は尻の形を連想させる艶めかしい曲線を描きながら、スカートの裾へと続いていた。

 離れていたのはたった二ヶ月だぞ。
 いつの間に彼女はこんなに成長したんだ?
 子供だ子供だと思っていた少女の急激な変化に驚き、愕然とした。
 それとも私が気づかなかっただけなのか。
 どちらにしても、これは非常にまずい。
 触れている体だけではなく、エリーヌから漂う香りや気配までもが、私を熱くさせる。
 微笑みを湛える唇に、思いっきり吸い付きたい衝動に駆られた。

 待て!
 エリーヌはまだ十四才だ、早すぎる!
 落ち着け、私!

 必死で己を戒め、邪まな欲望を押さえ込む。
 エリーヌはまだ庇護が必要な年齢の子供なのだ。
 大人に近づいたとはいえ完全ではなく、体は成長途中にある。
 せめて出産に耐えうる年齢まで待つべきだろう。

「フェルナン様?」

 腕の中にいたエリーヌが、心配そうに見上げてくる。
 鼻血を吹かなかったのが不思議なほどだ。
 これまで出会ったどの女性に対しても、これほど強い欲望を抱いたことはない。
 笑顔を取り繕い、何でもない風を装った。

「ただいま。悪いが少し疲れているんだ。土産は部屋に運ばせておくよ。留守中の話は後でしようね」

 さりげなく体を離し、そそくさと部屋に引き上げた。
 扉を閉めた途端、張り詰めた緊張を解き、その場に座り込む。
 頭の中に幼い頃のエリーヌの姿を思い浮かべ、体の熱を冷まそうと足掻いた。
 まだ数年は待たねばならないのに、大変なことになってしまった……。




 遠征後、当分は戦の気配はないだろうと安堵した頃、エリーヌと観劇に出かけた。
 久しぶりの外出をエリーヌは喜んでくれた。

「フェルナン様、腕を組んでもよろしいですか?」
「ああ、いいよ」

 恥じらいながら申し出された願いを聞き、腕を絡める。
 エリーヌはぴったりと寄り添ってきて、意識から締め出そうとしてもできない胸の膨らみも腕にくっついてきた。
 甘美な感触を伴う柔らかい胸が腕を刺激し、私の理性を奪おうと攻撃を開始した。
 無論、エリーヌはそんなことを考えてもいない。
 彼女は無邪気に私を慕ってくれている。
 信頼を裏切ってはならない。
 私は必死で邪まな感情を振り払おうと頑張った。




 舞台を見渡せる位置に用意された王族専用の席に落ち着く。
 一般席とは区切られており、従者達は飲み物を運ぶと気を利かせて席から離れていった。
 警護の騎士は人が通る境界まで下がり、やはり離れている。
 人の目がないことでエリーヌはリラックスしているが、私は緊張していた。
 人がいないのは非常にまずい。
 自制心が弱まってしまう。

「楽しみですわね、フェルナン様」

 エリーヌが演劇の題目を見て、私に微笑みかけた。
 子供だった少女の笑みに、大人の落ち着きを見て胸が高鳴った。

 ああ、楽しみだとも。
 この邪魔なドレスを剥ぎ取り、真珠のような肌を愛で、剥きだしにした乳房を揉みしだく瞬間が。
 無邪気で愛らしい顔が淫らに喘ぐ背徳的な光景を想像しただけで、下半身が熱くなり、ズボンの前が苦しくなる。

 いかん、悪魔が、悪魔が私を乗っ取ろうとしている。
 エリーヌをこんな気持ちで汚してはならない。
 彼女は私の愛する女性だ。
 初夜は美しく、いつまでも覚えていておきたいものにするべきなのだ。
 このような場所で強引に奪うものではない。

『我慢は体に毒だぞ。舞台が始まればそちらの音に気をとられて、誰も気づきはしない。警護の連中だって、夫婦の情事には目を瞑るぐらいの分別はあるさ』

 黒い衣を着た悪魔は、どこかアシルに似ていた。
 幼い頃から私を悪戯に誘うのも、怪しい遊びに誘うのも彼だったからだろうか?
 心が作り出すイメージの世界で悪魔は私に囁き続けた。

『チャンスじゃないか、躊躇うことはない。可愛い姫を一刻も早く食べてしまいたいんだろう?』

 やめろ、誘惑するな。
 誰か、この声を止めてくれ!

『耳を貸してはだめです! しっかりしてください!』

 ついに救いの天使が現れた。
 白い衣を着た金髪の天使はレリアに似ており、戦乙女のように甲冑を身に纏い、剣を持っている。
 悪魔に比べて非常に小さな姿をしていたが、天使は大勢いた。

『さあ、フェルナン様! 力を合わせて悪魔を追い払いましょう!』

 天使達は剣を振り上げ、果敢に悪魔に挑んでいく。
 悪魔も鎧を纏って剣を持ち、天使達をなぎ払っていった。

『邪魔をするな! 欲望に従って何が悪い! 姫はお前のものだ、誰に遠慮する必要もないんだ!』
『黙れ、悪魔め! 姫はまだ子供なのだ、卑しい欲望をぶつけていい相手ではない!』

 悪魔と天使が、私の心を代弁して叫ぶ。
 悪魔の主張もまた、私が心に抱く醜い願望なのだ。
 巨大になっていく悪魔に対抗すべく、私と天使達は力を合わせた。
 だが、幾ら攻撃を繰り返しても悪魔は死なない。

「頑張れ、天使達! 私は負けるわけにはいかないんだ!」

 私はいつも戦場で行なっているように、弱っていく天使達を鼓舞して、悪魔と戦った。

『フェルナン様、心を強く持ってください! 我々の力の大きさはあなた次第なのです!』
『頑張って、フェルナン様!』
『あなたの愛する姫のために!』

 天使達の声援に力を得て、私は悪魔を心の奥底に封じ込めた。
 戦い終えた天使達が歓声を上げて消えていく。
 何とか勝った。
 自分の心にこんな魔物が潜んでいようとは思わなかった。

 我に返った途端、耳に盛大な拍手の音が響き、舞台の幕が下りていくのが見えた。
 もしかして、上演が終わったのか?
 私はどのぐらい戦っていたんだろう。

「今日の舞台、すごかったですね、フェルナン様」
「ああ、強敵だった。あの悪魔は……」

 舞台の間中、戦っていた疲れがどっと押し寄せてくる。
 私の呟きを聞いたエリーヌは怪訝そうに首を傾げた。

「え? 悪魔なんて出てきましたか?」
「すまない、間違えた。それよりエリーヌの感想を聞かせてくれないか」

 しまった。心の戦いに専念しすぎて、舞台の内容をまったく覚えていない。
 エリーヌの感想に相槌を打ってごまかしながら、私達は劇場を後にした。




 エリーヌを女性として意識してから、私は悪魔と戦い続けた。
 悪魔は何度も甦り、私を悪の道へと誘おうとする。

『彼女はお前の妻じゃないか。大人になるまで待つことはない。見ろ、あの体を、子供とは言えないじゃないか。姫はお前に抱かれる日を待ちわびているぞ』

 甘い言葉を囁く悪魔を、天使達が押し戻す。

『悪魔の囁きに耳を貸してはいけません! 後ほんの数年の辛抱じゃないですか! あなたは誇り高き騎士、アーテスの王子なのです! 姫はまだ子供、守ってあげなくてはいけないのです!』
『ええい、小うるさい奴らめ! 散れ!』
『うわあああっ! フェルナン様、負けてはなりません!』

 悪魔に振り払われて悲鳴を上げながらも、天使達は立ち上がる。

『消えろ、悪魔め!』
『フェルナン様、しっかり!』

 一人の悪魔に、大勢の天使達。
 多勢に無勢のはずなのに、天使達はいつも劣勢だ。
 神よ、私は欲深く罪深い男です。
 だが、だが、エリーヌを愛する資格を失うようなことには決してなるまいとあなたに誓います!




 夢の中でまで繰り広げられるようになった悪魔との戦いは、今日も私の勝利だった。
 現実の戦いがない日は特に激しいな。
 目を覚まして、息をつき、まだ夜中であることに気がつく。
 もう一度眠るには難しいほど、はっきりと目が覚めてしまった。
 外に出て見回りでもしてこよう。

 起き上がり、着換えて剣を装備した。
 自室の扉を開けて廊下に出る。
 歩いていると、扉の影に蹲っている人影を見つけた。
 部屋の扉は少し開いていて、覗いているのだとわかる。
 あれはレリアの部屋だ。
 アシルが部屋にいるらしく、情事の声が漏れ聞こえており、居たたまれなさで顔が熱くなった。
 覗きをしているのは家人だろうか? 女のようだが誰だろう。
 気づかれないように足音を忍ばせて近づいていく。
 女は私に気づいておらず、食い入るように覗きを続けている。
 暗がりでわからなかったが、よく見れば女の髪は金色をしていた。
 レリアは部屋の中にいるのだから、エリーヌに間違いない。
 この子は何をしているんだろう。
 とりあえず、中の二人に気づかれないうちに連れて行こう。

 背後から近寄って彼女の口を塞ぎ、小声で囁いた。

「驚かせてすまない。でも、覗き見はいけないよ」

 エリーヌを抱き上げて、彼女の部屋まで廊下を戻る。
 顔は平静を装っていたが、手は熱を帯びて熱くなっている。
 エリーヌの温もり、香り、存在さえもが、私を煽り立てて本能に忠実な獣にしようと迫ってくるようだ。

 なんとか耐えて部屋に到着し、エリーヌを下ろした。
 声が外に聞こえないように扉を閉めて、苦笑を浮かべる。

「ああいう場面は見てみぬフリをするものだ。レリアはともかく、アシルは気づいたかもしれない。覗いていたのが誰だかまではわからなかっただろうけどね」

 エリーヌは頬を押さえて俯いた。
 覗き行為をしていたことを指摘されて恥ずかしくなったんだろう。
 仕草一つとっても彼女は可愛い。
 ああ、だめだ。
 また悪魔の誘惑が始まってしまう。

 衝動的にエリーヌの手首を掴んだ。
 顔を上げた彼女の驚きの表情を間近で見つめ、さらに顔を近づけていく。
 エリーヌは怯えた様子で体を仰け反らせた。

 エリーヌの瞳に私が映る。
 戸惑いの視線が私の上を往復し、下腹部へと注がれたのを見逃さなかった。
 彼女もまた私に欲望を抱いていると確信した。
 アシルとレリアの情事を目撃した後だったせいか、彼女の体には確実に火が付こうとしている。あと一押しすれば情欲の炎は一気に燃え盛る。

「エリーヌ」

 エリーヌを抱き寄せて、顎に指を添えて上を向かせる。
 唇を近づけると、エリーヌは瞼を閉じた。
 艶のある小さな唇に、己のそれを重ねて舌を滑り込ませた。
 こんな深い口づけをするのは始めてだというのに、私は躊躇うことなく貪った。
 エリーヌの全てを求める私には、唇だけでは到底足りない。

「フェルナン様……」

 エリーヌが私を見つめて名を呼んだ。
 頬を染めて、潤んだ瞳で訴えかけてくる。
 もっとと、声が聞こえたような気がした。
 調子付いた悪魔も声を重ねる。

『ほらほら、さっさと頂いてしまおうぜ。姫様は乗り気じゃないか。ちょうどここは寝室、家人は寝ているし、お目付け役の侍女も自分の情事で忙しい。これは絶好のチャンスだ』

 エリーヌが欲しい。
 私は悪魔に屈しそうになった。

『だめです、フェルナン様!』
『神への誓いをお忘れですか!?』
『一時の快楽のために、一生の信頼を投げ捨ててはなりません!』

 欲望に負けそうな私の許に天使達が大挙して押し寄せ、口々に私を説得し、悪魔を剣でつつきだした。

『あ、くそ! もう少しだったのに!』
『ええい、去れ! 悪魔め!』

 間一髪で天使達が勝利を治め、悪魔はいなくなった。
 私はエリーヌをぎゅっと抱きしめ直し、理性を全て使って抱擁を終わらせた。

「おやすみ」

 普段の習慣を思い出そうと、彼女の頬に口づけた。

「良い子だから、おとなしく寝るんだよ」

 彼女はまだ子供。
 大切に思うから、後ろ髪を引かれる思いで部屋を出た。




 心から追い出すことのできない悪魔と戦う日々を送っているうちに、エリーヌは十六才になった。
 世間でも女性の適齢期は二十を過ぎたぐらいと考えられており、結婚の早い貴族達の間では十代半ばで子供を産む女性は珍しくない。
 そろそろ良いのではないだろうか?
 己の判断だけでは不安だったので、アシルに相談することにした。

「アシル、十六才とは大人だと思うか? ……その、夫婦として共に夜を過ごすのに支障がないかという意味なんだが……」

 恐る恐る問いかけると、アシルは考えることなく頷いた。

「体が熟してりゃ、年は問題ないと思いますけどね。初潮が済んでるなら体の準備はできているはずだ」
「熟してって……。ああ、いや、結局はそういうことなんだが……」

 もちかけた相談の生々しさに改めて気づき、うろたえてしまった。
 いや、アシルなら大丈夫だ。
 この程度の会話で彼が動じるとは思えない。

「そろそろ、いいんじゃないかと思っているんだ。エリーヌも私のことを好いてくれているとは思うし。レリアはあまり歓迎していないようだけど……」

 唐突にレリアのことが頭をよぎった。
 エリーヌには成人するまで手を出さないと、私は彼女に誓ったのだ。
 我が国では十六才はすでに成人であり、誓いを破ることにはならないだろうが、彼女の警戒する目は相変わらずだ。抱擁だけでも厳しい目を向けられているというのに、初夜を迎えたいと言えば反対されるだろうか。

「侍女殿の了解を得ようとしたら、死ぬまで無理ですよ。夫婦なんだから、夫の権利を行使すればいいんです。姫が同意したならそれで十分だ」

 アシルの言葉に勇気付けられた。
 そうだ、この件に関してはエリーヌの気持ちが重要だ。
 エリーヌが嫌がらなければ、レリアも許してくれるかもしれない。
 しかし、我々よりアシルとレリアはどうなんだろう。
 レリアはとっくに適齢期を過ぎている。二人の間に結婚の話が出ないのは不思議だった。
 やはり、戦争の遺恨が残っているせいなのか。

「近いうちに、エリーヌに話してみるよ。心の準備もいるだろうしね。できるなら、レリアにも祝福して欲しいんだ。もうあれから八年も経つ、アシルとも交際しているようだし、少しは戦のわだかまりも解れたかと思ったのだが、まだ無理なのだろうか」

 レリアとの仲について探りを入れてみた。
 私の問いにアシルが返してきたのは、予想もしない言葉だった。

「オレだってまだ憎まれている。あいつが復讐を考えずに耐えているのは、大事な主君のためだ。自分の役目が終わるまで心を殺して生きている」

 アシルが憎まれている?
 だが、二人は愛し合っていて、体の関係もあるのに。

「アシル、何を言ってるんだ? レリアとお前は恋人なんだろう?」
「いいえ、違いますよ。あいつはオレを殺したいほど憎んでいる。兄を殺し、体を陵辱し続けた最低の男としてね」

 アシルはこれまでレリアとの間に起きた事を話してくれた。
 彼女への正直な気持ちと、どうあがいても愛されることのない己の立場に対する憤り、それならばと選んだ愚かとしか言いようのない選択の結果を。
 全てを一気に聞かされて、何を言えばいいのかわからなかった。
 怒るべきなのかとも思ったが、今さらだった。

「バカだ、お前は」
「ええ、自覚はあります。さらにバカなことに、オレはあいつに殺されたがっているんです」

 これが狂った恋情の行く着く先だとは、救いようがない。
 アシルはバカだ、大バカ者だ。
 身勝手な男は、最後まで己の勝手な思いを押し付けて、彼女を振り回そうとしている。

「もしも、レリアがオレを殺したら、罪は問わないでネレシアへ帰してやってください。オレの最初で最後のお願いだ。今までの働きへの褒美としては安いもんでしょう?」

 それでもアシルは真剣なのだ。
 レリアとの間に何らかの絆を残したいと願っている。
 愛を得ることを諦めて、憎悪を得ることを選び、植えつけた憎しみをその身で晴らさせることで彼女が救われると本気で思い込んでいる。
 そんなはずはないのに。
 憎しみの元となる記憶は生涯消えない。
 たとえ憎い相手を殺そうとも、過去が消えることはない。
 だが、起きた事をなかったことにできなくとも、乗り越えることはできる。
 償おうとする心があれば、許しはいつか必ず与えられるはず。

「アシル、私はお前の考え方は間違っていると思う。罪を自覚しているのなら、死ではなく生きて償うことを考えろ。お前が望む通りの結末を迎えても、レリアは救われない。彼女の手を血で汚して人の命を奪った罪を一生背負わせる気か?」

 私は諭そうと試みたが、アシルは聞く耳を持たなかった。

「レリアにはオレの命を奪う権利がある。罪だと思うことが間違っているんです」

 アシルには自らの死による幕引きしか考えられないのだ。
 何とかしなければ、私はアシルを、エリーヌはレリアを失うことになる。
 この打ち明け話を聞いてから、私が手をこまねいている間に、事態は急激に動き、想像もしなかった結末を迎えた。

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