お嬢様のわんこ
第一章・お嬢様と可愛いわんこ・4
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お父様がクロを連れて来た夜、一枚の紙を渡された。
羊皮紙に魔法をかけて作られたそれは、奴隷契約書だった。
私がクロを気に入らなければ奴隷商に返すつもりで、契約はまだ結ばれていなかった。
「ここに血判を押せばお前を主人とした契約が結ばれる。そうすればあの子はお前に何をされようとも逆らえない。これができなければ傍に置くことは許さないぞ」
彼は動物とは違う。
意志を持っていて、話ができる。
飼い犬として傍に置くからには、絶対服従の保障が必要になる。
私に害を成さないように必要な契約だと、お父様は厳しい顔をして言った。
「わ、私はクロを奴隷にしたいわけでは……」
犬が飼えないから代わりに連れてこられた彼。
本当はわかっている。
獣人の彼はあくまで人で、動物とは違うということ。
奴隷だから咎められないだけで、人を犬のように飼うだなんて酷いことをしようとしているんだって。
「でも、返すのは嫌……です」
もう手放せない。
私が抱きついても、一緒にいても、許される存在を失いたくない。
震える手を動かして、ナイフで指先を切った。
血で濡れた指を羊皮紙に押し当てる。
血判を押した紙から黒い霧が吹き出し、一方向へと迷わず流れだした。
契約が結ばれ、奴隷を縛りつける忌まわしい呪いが、クロをめがけて飛んでいった。
獣人という種族が、身体能力において、人よりも優れた存在だということは広く知れ渡っていた。
人だけでなく獣とも祖先を同じくすると伝えられる彼らが、どのような進化を遂げてそうなったのかは、過程を記した書物もなく言い伝えすら定かではないため、誰も正確なことは知らない。
私が生まれた場所は、人族ばかりが住むグラス王国だ。
お屋敷で大切に囲われて育った私は、お父様が造ってくれた幸せな箱庭から出るまで、クロ以外の獣人に会ったことがなかった。
奴隷のクロがお屋敷の中でさほど差別を受けずにいられたのは、彼が獣人であり、噂通り優秀な能力を有していたからだと知ったのも外の世界に出てからだった。
現在、私達が住んでいるリオン王国の王様は獣人で、主要な役職に就いている人もまた然り。
人族も住んでいるけれど、人口の七割は獣人で占められている。
王様は獅子族の長で、獅子の名残を髪の色と耳と尻尾に残す黄金色の偉丈夫の姿は、絵姿などで見る機会がよくある。
王様が懇意にしている友好国の一つに、狼族の王が治めるロー王国があって、そちらの王様は漆黒の毛並みをしたこちらも雄々しい戦士だという。
その王様には、二十年前に生き別れた一人息子がいた。
幼児の頃に王様に恨みを持つ悪漢に連れ去られてしまい、犯人は捕まったけれど、彼らは王へ一矢でも報いようと全員自害してしまい、王子様の行方はわからなくなった。
王様は友好国にも協力を依頼して、王子様を探し続けている。
私達が住む街にも、王子様の特徴を記した張り紙が張られていた。
王様が諦めていない証拠に、張り紙は一年に一度新しいものに更新されていて、それによると王子様は生きていれば二十代前半の若者で、王様と同じく漆黒の毛並みを持つ狼族の青年になっているはずだった。
三年前、成長した王子様の想像図が描かれた張り紙を初めて見た時、衝撃を受けた。
だって、顔立ちは違うけど、クロと耳の形がそっくりだったから。
狼と犬って似てるんだと思い込もうとしたけど、そうじゃないってことは理解していた。
認めたくなかっただけ。
私のクロはただの犬で、奴隷として売られていた身寄りのない男の子。
言い聞かせるように繰り返し、張り紙の絵姿を頭から追い出して、その場から駆け去った。
三年も平穏無事に暮らせたのは運が良かっただけのこと。
仕事帰りの家の前に、灰色の狼族の獣人が立っているのを見つけた瞬間、終わりがきたのだと悟った。
男が身に着けている重装備の銀の鎧が、王家に仕える騎士だと示している。
クロよりも大きな体をした彼は、近所の人達に遠巻きにされつつ、不機嫌な気配を辺りに撒き散らしていた。
男の後ろに扉があるので、前に立つしかない。
この家の者かと問われたので頷いたら、殺気と怒声がぶつけられた。
「貴様がそうか! 脆弱で卑しい人族の分際で、忌々しい呪いであのお方を縛りつける毒婦めが!」
首を掴まれて、家の壁に叩きつけられた。
背中を強かにぶつけて痛い。
声を出そうにも喉が押さえつけられていて、うめき声が出るだけだった。
「契約書はお前が持っているのだろう? 素直に契約を破棄すれば、処罰は労役だけですませてやろう。本来なら拷問にかけて公開処刑が相当な罪だが、一生をかけて償う機会を与えてやるのだ、我らが王の慈悲深さに感謝しろ!」
彼が言う契約書とは、私がクロを得るために血判を押した奴隷契約書のこと。
人を思い通りに使役するために行う契約という名のそれは呪いだ。
呪いを操る魔術師が魔法をかけて作り上げた紙を触媒に、奴隷となる者の命を縛りつけ、主人となる者に絶対の服従を強制する。
両者の血と術者の魔法を持って成り立つ契約書は、物理的な力では決して破ることも燃やすこともできない。
例外は奴隷本人だけ。
だけど、デメリットしかないため、契約書を破壊する者はいない。
もしも強引に契約書を破ってしまえば、かけられた呪いは主人が死ぬまで解けなくなるからだ。
正式な契約の破棄、もとい解呪の仕方は、主人側が再度契約書に血判を押すことで成立する。
その他の解き方は、主人が死ぬこと以外にない。
奴隷本人は主人を害することはできないが、第三者によって殺されれば契約は無効とされ、呪いは自然に解ける。
私はクロが王子様だと確信した後、散々迷った末に覚悟を決めた。
彼を解放しようと決意したのだ。
大切にしまっていた契約書を差し出して、クロに言った。
「今から契約を解くわ、あなたは自由になれる。行きたい所があれば行けばいいのよ」
クロにはお父様がいた。
私はもう会えないけど、クロは今まで会えなかった。
ずっと探していたのだから、今帰ってもクロは大事にしてもらえるはず。
クロだって、あの尋ね人の王子様が自分のことだって気がついている。
ナイフで指を切り、契約書に契約破棄の血判を押そうとした。
「嫌だ!」
クロは叫ぶなり、契約書を奪い取った。
躊躇いもなく彼は契約書を引き裂いた。
細切れになるまで何度も何度も引き裂いて、魔法で出した炎で灰も残らないぐらい焼き尽くしてしまった。
「ど、うして……?」
これで私が死ぬまで契約は続く。
クロは私の傍から離れられない。
「俺はお嬢様の犬です。狼じゃない、王子でもない、どこにも行く場所なんてない。お嬢様がいる場所が、俺が帰る場所なんです」
クロは私に抱きついて、捨てないでくださいと訴えた。
ねえ、クロ。
私、嬉しかったの。
本当の家族や恵まれた王子様の地位より私を選んでくれて、生まれてきて良かったって思えたの。
だから、いつかこんな日が来ることを予感していても、逃げようとは思わなかった。
掴まれた首がさらに絞めつけられた。
鋭い爪が食い込んで血が流れ出す。
彼らの大切な王子様を奴隷にして飼い犬扱いしてきた私は、殺すことすら生温いと思うほどの憎悪を抱かれている。
このまま私が死んでしまっても、この人にとってはどちらでも良いことだ。
息ができない。
意識が薄れて、頭がぼんやりとしてきた。
周辺に多くの人の気配を感じられたけど、誰も近づいてこない。
それはそうだろう。
立派な鎧を着た騎士が痛めつけるのは犯罪者だと決まっている。
助けが来ることはない。
「このままだと死ぬぞ、最後の機会をやる、契約を破棄しろ」
返事を聞くためか、喉にかかっていた力が緩んだ。
何度問われても答えは一つしかない。
別の方法で契約を解くことができても、私は拒否する。
クロと引き換えにできるものなんて、この世には何もないから。
「契約は……、解か、ない……、クロが、い、ないと……だめ……だか、ら……」
声が思うように出ない。
呼吸がうまくできない。
首がまた強く絞められた。
目の前の男から出ていた殺気がさらに強くなる。
「やはり生かしておいては殿下の御為にはならぬな、さっさと死ね!」
胸に剣の刃が刺さったのを見た。
意識がそこで途切れた。
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