お嬢様のわんこ

第二章・わんこ、お嬢様への愛を叫ぶ・1

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 幼い頃、俺は常に飢えていた。
 与えられるのは、一かけらの干し肉と固いパン、野菜屑で作られた塩のスープ。
 味わうなんて余裕はない。
 これを食わなければ、さらに耐えがたい飢餓が待っていることを俺はすでに知っていた。

 水を汲んだ重い桶を、井戸から屋敷の裏口付近に並べてある水瓶まで運ぶため、ふらふらになって往復する。
 小さい体では多くを運べず、これだけで半日以上かかった。
 水運びが終わったら、使用人に混ざって掃除や洗濯の手伝い。馬小屋の掃除や汚物の始末なども手が空いていればやらされた。
 少しでも休もうとすると罵声が飛んでくる。
 馬に当てる鞭で殴られることもあった。
 泣けば、さらに酷く殴られた。
 身を守るためには、おとなしく黙って従うしかないのだと、その環境は俺に骨の髄まで叩き込んだ。

 ある日を境に、食事の量が増えた。
 骨と皮ばかりの薄い体に、筋肉がつき始める。
 もうすぐ売りに出すからと、己が奴隷であることを改めて教え込まれ、主人となる人に粗相を働かないように敬語の練習が始まった。

 いよいよ売りに出される日、風呂に入れられ、服は簡素なシャツとズボンだけだったが洗い立てのものを着せられた。
 木箱でできた檻の中に押し込められて、店先に並べられる。
 奴隷商人の男が檻をのぞき込んで、俺に声をかけた。

「いいか、良い暮らしがしたかったら、せいぜい媚びてお人好しの金持ちの旦那を捕まえるんだ。まあ、奴隷を買いにくるヤツらなんぞ、ロクな野郎じゃないがな」

 大勢の人間が目の前を通り過ぎていく。
 みんな俺を珍しそうに見ていくけど、選んで連れて行かれたのはもっと大人の男や女だった。

「どうです、旦那。獣人の奴隷なんて滅多にお目にかかれない貴重な代物ですぜ」
「うーむ、こちらはすぐに使える労働力が欲しいんだ。獣人とはいえ、子供じゃ役に立たないだろう」
「良い毛並みをしているがこいつ男だろ? 女だったら買うんだがなぁ」

 男は俺を売ろうと客に声をかけるものの、返ってくるのは渋い返事ばかり。
 苛立たしげに檻を蹴ってきたが、売れないのは俺のせいじゃない。

 何日かして、檻から出された。
 俺を買おうという人が現れたらしい。

「お嬢様が犬をご所望らしい。ところがお屋敷では動物は飼えないってことで、お前に目を留められたんだ。尻尾を振ってご機嫌を取ってこい、契約が成立すりゃ結構な額を払ってもらえるんだ、ヘマするんじゃねぇぞ!」

 男が喚くが、俺にはどうすることもできない。
 ご機嫌を取れと言われても、男の屋敷で雑用しかすることのなかった俺には、お嬢様とやらがどんな人間なのか、何をすれば気に入られるのか見当もつかなかったのだから。

 引き合わされたのは、俺より小さな女だった。
 見たこともない綺麗でふわふわした服を着て、目を見開いて俺を見ている。
 屋敷の主だという男が、俺を見て、お嬢様だと思われるその女に声をかけた。

「これなら動物の匂いはしないし、人と同じ環境で育てればいいから世話も楽だ。念のため、お客様がいらっしゃる間は部屋に入れておくんだぞ」
「はい、お父様! ありがとうございます!」

 お嬢様が俺に飛びかかってきた。
 殴られるのかと思ってびくっとしたけど、小さな体がぎゅっとくっついて、両手がしっかりと俺の体を抱きしめた。
 柔らかい手が頭を撫でる。
 耳をじっくりと触られてぞくぞくした。
 優しい手つきで行われるその行為は嫌なものではなかった。

「あなた、名前はあるの?」

 お嬢様が俺に向けて言葉を発した。
 威圧感も怒りもない、静かで優しい声に安心した。

「クロです」
「クロね。私はリュミエールよ、これからよろしく」

 他と区別をつけるためだけに呼ばれていた名前。
 彼女に呼ばれた瞬間、俺の名に命が吹き込まれた。




 お嬢様は俺を部屋に連れて行くと、ずっと抱きついていた。
 時々、耳や尻尾をさわさわと撫でられたが、気持ち良いのでされるがままだ。
 こんなに楽してていいのだろうか。
 後でものすごい重労働が待っているとかあるのかな。
 お嬢様がいきなり怒り出して鞭でぶったり、水をかけられて寒空の下に放り出されたりとかするかもしれない。
 幼少の頃から培われた恐怖が蘇りぶるぶる震えると、お嬢様は「寒いの?」と首を傾げた。
 温かい手触りの毛布で体を覆われて、お嬢様がその上から抱きしめてくれる。

「ほら、温かいでしょう?」

 目の奥が熱くなった。
 あ、だめだ。
 泣いたら殴られるから、泣くな。
 ぐっと堪えてやり過ごした。
 お嬢様は怒らなかった。
 俺が大丈夫ですと言うまで、毛布で包んで温めてくれた。




 夕食にお嬢様が出してくれたご飯は、食べたことのない凄いものだった。
 香ばしく焼かれた大きな骨付き肉が真っ白い皿の上に乗っている。
 深い器には、いろんな野菜がどっさりと盛られていた。
 たくさん並べられた小皿には、肉や魚を野菜と混ぜたよくわからないものがそれぞれ入っていた。
 スープからも良い匂いがしている。
 パンはスープにつけなくても簡単に噛み千切れるほど柔らかくて、どこか甘い味がした。
 恐る恐る口にして、世界が変わった。
 なんだこれ? ご飯? 食べ物に対して空腹を満たす以外の感情を初めて持った。
 手づかみで食べようとする俺の手を取って、お嬢様はスプーンとフォークの使い方を教えてくれた。

「ゆっくり覚えていけばいいわ。ナイフは難しいだろうから、しばらくは私が切ってあげる」

 お嬢様は器用に肉を切り分け、小さくしていく。
 俺はそれをフォークで突き刺して食った。
 スープはスプーンを使う。
 まどろっこしくて時間がすごくかかったものの、お嬢様はにこにこ笑いながら俺の食事を手伝ってくれた。

 風呂にも入れられた。
 お嬢様が一緒に入ってきて俺を洗った。
 今までは乱暴に水に突っ込まれて終わるのが普通だったのに、良い匂いのする石鹸で髪や体を洗われた。
 温かい水は気持ち良い。
 それにお嬢様の肌は滑々で触り心地が良かった。

 風呂から出て部屋に戻ると、お嬢様は旦那様に呼ばれて部屋を出て行った。
 俺は床の上でコロコロ転がりながらお嬢様を待つ。
 硬い床と違って、長い毛の絨毯が敷かれた床は天国だ。
 毎日掃除されているのか、埃一つ落ちていない。
 ここで寝てもいいかな?
 夜になってしまったし、外は暗くて冷える。
 お嬢様が俺を外に追い出さないか、ちょっと心配だった。

 しばらく経って、どこから入ってきたのか黒い霧がいきなり俺を包んだ。
 真っ黒いそれは嫌なもの。
 体の中に無理やり入り込んでくる。
 これは奴隷を服従させるための呪いだ。
 契約をして、お嬢様が俺の主人になったんだ。

 痛い! 息ができない! 体が動かない!
 身動きが取れなくなって、苦しくて、暴れた。
 全身を苛む激痛に悲鳴を上げた。
 体に入ったあの黒いのが、俺の自由を奪おうと広がっていくのが感覚でわかる。

「クロ!」

 扉が勢いよく開かれて、お嬢様が飛び込んできた。
 悲鳴を飲み込んで耐えた。
 涙が出ないように目をきつく閉じる。
 蹲る俺に、お嬢様が抱きついてきた。

「ごめんね、クロ! すぐに治まるはずだから我慢してねっ」

 お嬢様は泣いていた。
 俺の背中を撫でて、声をかけながら抱きしめてくれる。
 良い匂いだなぁ。
 痛みから逃避するようにそんなことを考えた瞬間、意識が遠のいた。

 次に目覚めると、俺はお嬢様に抱きつかれたまま寝転がっていた。
 しかも、床ではなく、お嬢様の寝床の上で。
 適度な硬さと柔らかさを持つマットと、ふわふわ暖かい布団に包まれて、ほわっと気が緩んだ。
 全身を苛んでいた痛みは綺麗に消えていて、あれは夢だったのかと思った。

「クロ? 起きた?」

 お嬢様が目を開けて、俺の頭を触ってくる。

「もう痛くない?」
「はい、平気です」
「良かった」

 お嬢様はにっこり笑うと、俺を再び抱きしめた。
 苦しんでいた間、優しく包み込んでくれていた匂い。
 一生忘れないほど強く記憶に刻み込まれた。




 お嬢様は賢い犬が欲しかったらしい。
 さらに俺は男なので、強くならなければいけないとも言った。
 朝から昼までは勉強、午後は夕方まで武術の稽古、夕方から寝るまではお嬢様に可愛がられる。
 俺の生活は概ねそのようなものになった。

 武術は冒険者だという男達が教えにやってきた。
 彼らは獣人族を知っているようで、俺を見て黒い狼族は見たことがないと珍しがっていた。

「俺は犬族ではないのですか?」
「ああ、その耳の形は狼族だろう? 昔、狼族の冒険者と仕事をしたことがあってな、そいつの毛は灰色だった。詳しくは知らんが、狼族は灰色や紺色のヤツが主流で、黒や白の一族は珍しいらしいぞ」

 狼族の国には冒険者ギルドがないらしく、ここグラス王国とも交流がないので、彼らが狼族について知っていることは少なかった。
 しかし、これはまずい。
 俺はお嬢様の犬なのだ。
 狼だとわかったら追い出されてしまうかもしれない。
 嫌だ。
 おいしいご飯と温かい寝床、さらにお嬢様にお世話される生活を手放したくない。

「先生、俺が狼族だってこと、旦那様やお嬢様には言わないでください」
「わざわざ言わんさ、そんなこと。それに旦那様も知っていらっしゃるんじゃないか?」

 この国の人は獣人を見たことがない人がほとんどだ。
 旦那様が俺を犬族だと思って買った可能性は大いにある。
 しっかり口止めしておかないと大変なことになる。

 冒険者達には、戦う術だけでなく、野営の仕方や野山の探索の方法まで教わった。
 実際に外に連れ出されて、魔獣と戦ったこともある。
 日々の鍛錬の成果はすぐに表れ、俺の脚力や腕力は大人の彼らにも負けないぐらいに強くなった。
 小さな魔獣は拳を打ち込んだだけで倒れた。
 獣人の潜在能力はすごいものだと感心された。

 勉強はお嬢様と一緒に礼儀作法や一般教養を学んだ。
 社交ダンスなんて、俺には縁がないものだけど、お嬢様の稽古相手を務めるために教えられた。

「クロと一緒なら楽しい、後でお稽古用の服を買おうね」

 お嬢様は俺に色んな服を着せた。
 似合う、カッコいいと目を輝かせる彼女を見るのは好きだ。
 金の刺繍でギラギラして息苦しい窮屈な服でも、お嬢様が喜ぶなら進んで着た。

 俺の世界はお嬢様を中心に周っている。
 お嬢様の膝に顔を埋めて、頭を撫でてもらうのが最高の幸せだ。
 あなたが望む理想の犬になるから、どうか俺を捨てないで。

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