「お兄ちゃん。ちょっとファスビンダーまで行ってくるから、お留守番お願いね」
朝、起きてきて顔を合わせるなり、ヴィオラートがそう言った。
「ファスビンダー? 何か依頼でも受けてたか?」
バルトロメウスは寝起きでボサボサの頭を掻きながら、すでに出かける支度を終えている妹に尋ねた。
「お酒と井戸水を仕入れに行こうと思って。フライングボードがあるから、行き帰りも早くなったしね」
「それでも片道二日はかかるだろ、一緒に行かなくて大丈夫か? 幾らお前が強くなったにしても、集団で襲われたら勝てねぇんだから、絶対に一人で行くなよ」
「心配しなくても、護衛はロードフリードさんにお願いしてあるから平気だよ」
「そうか、なら気をつけて行ってこい」
「うん、行ってきまーす!」
元気よく、表に出ていくヴィオラートを見送って、バルトロメウスはちらりと台所を見やった。
「帰ってくるまで、早くて四日か。メシどうすっかなぁ」
にんじん料理ばかり作るが、自分よりは美味しいものを出してくれる妹が数日いない。
少しばかり憂鬱な気分で、彼はヴィオラートが作り置きしておいてくれた朝食に手を伸ばした。
カロッテ村からファスビンダーを結ぶ街道は、徒歩だと約六日かかる。
それがフライングボードが完成してからは、三分の一の時間に短縮することができたのだ。
ボードで街道上を飛び、夕暮れ間直に途中の野営地に到着した。
かつてはあまり人が通らなかった街道も、カロッテ村が活気づいてくるにつれ、旅人が多くなった。
野営地には数組の旅人がいて、各々火を起こしたり、テントを張って寝床を作ったりと夜を明かす支度をしていた。
ヴィオラート達も明かりと暖を取るために、薪を集めて火を起こした。
焚火の前に敷物を置いて並んで座り、食事を取り始める。
「夕食用にブランクシチューを作ってきたんですよ」
ヴィオラートはアイテムかごに入れておいたシチューを出して、ロードフリードに渡した。
「ありがとう。でも、往復の食事は任せてくれって言ってたけど、本当にいいのか?」
「だって、護衛料払うって言ってるのに、いつも受け取ってくれないじゃない。せめて、このぐらいはさせてもらわないと」
「俺がヴィオを守りたいだけなんだから、気にしなくていいのに。だけど、せっかくだから甘えておくよ」
ロードフリードは受け取ったシチューを口に運び、美味しいと言ってくれた。
ヴィオラートはちょっとだけ照れくさくなって、食べることに集中する。
(守りたいって、特別な意味はないのかなぁ。心配してくれてるだけなんだろうけど、あんな言い方されたら勘違いするじゃない)
ロードフリードは決して軽い人ではない。
口にした言葉は本心からのものだろう。
家族同然だと思ってくれているからこそ、外に出るヴィオラートの身を案じてついてきてくれているのだ。
昔と変わらず向けられる好意は嬉しくて、だけど物足りなく思ったりもする。
その理由は、彼女自身もすでにわかっていた。
ふと、過去を振り返る。
今のロードフリードの姿に重なるのは、十二才の頃の彼だった。
ヴィオラートは、それ以降から現在に至るまでの彼のことを何も知らない。
騎士精錬所を優秀な成績で卒業したと聞いたのは、ほんの最近のことだ。
きっと竜騎士隊に入るのだろうと、村人達が噂していたのに、ふらりと帰ってきて村中を驚かせた。
『嫌だな、最初から帰ってくるつもりだったよ。俺が騎士になろうと決めたのは、この村を守りたいからだって言ってたじゃないか』
驚く一同にそう言って、十分強くなったから冒険者になって村を守ると宣言して、その通りに過ごしている。
ヴィオラートを手伝ってくれるのも、村に貢献するためもあるのだろう。
ロードフリードは、本当に生まれ育ったカロッテ村が好きなのだから。
(だけど、それだけじゃない気がする)
少しだけ、昔と違うのだ。
陰ができたと表現するべきか。
最近になって気がついた。
彼は貴族階級の人々に、何がしかの嫌悪感を持っているようだと。
ブリギットのことも、受け入れているように見えて、きっちりと線を引いて壁を作っているような気がする。特に、彼女が貴族的な振る舞いをした時は、微妙に空気がピリピリと冷たく震えた。
表に出さないように気をつけているのだろう、ブリギットは何も感じていないようで気がついていなかった。ヴィオラートも最初のうちは気づかなかったぐらい、それは完璧に隠されていた。
なぜ気がついてしまったのかといえば、単純に接する時間が長くなり、意識して彼を見るようになったからだ。
(貴族の人と何かあったのかな?)
尋ねれば答えてくれるかもしれない。
だけど、言いたくないから黙っているのだ。
周囲に悟らせないようにしているのであれば、気になっても知らないフリをするべきなのだろう。
「考え込んでるみたいだけど、どうしたんだ?」
声をかけられて、ハッと顔を上げる。
手にしたシチューは冷めかけていた。
慌てて、口に運び入れる。
「んーん、何でもないの。お店のこととか考えてたら、食べるの忘れちゃって」
えへへ、とごまかし笑いを浮かべれば、ロードフリードは首を傾げていたが、それ以上は聞いてこなかった。
食事が済むと、何もすることがないので体を休めることにした。
他に人がいるとは言っても、警戒は必要だ。
野宿の時は、仲間の内の誰かが起きているのが常だった。
「交代で寝ようか。ヴィオが先に寝る? 後が良い?」
「ロードフリードさんが先に寝てください。一度寝たら、起きるの難しいかも」
「わかった。何かあったらすぐに起こしてくれ」
荷物の中から毛布を取り出して彼に渡す。
ロードフリードは剣を左脇に抱えると、座った姿勢のまま毛布を羽織った。
横にならず、そのまま眠るつもりのようだった。
彼は毛布を握った右手を上げて、ヴィオラートを招いた。
「一緒に入る? 傍にいてくれた方が、何かあった時に対処しやすいんだけど」
「え? あ、うん。それにくっついてた方が暖かいよね」
腰を上げて、さらに隣に寄った。
毛布で体を包まれる。
大きめの物を用意していて助かった。
二人で使っても、布が足りないことはない。
ヴィオラートはちらりと横目でロードフリードを盗み見た。
もう目を閉じていて、眠ろうとしている。
ヴィオラートは深い記憶の底を探って、幼い頃のことを思い出していた。
(小さな頃はもっと遠慮がなかったよね、気がついたら一緒にいたんだもの。お兄ちゃんのお友達じゃなくて、いるのが当たり前のもう一人のお兄ちゃんだった)
伝い歩きを始めた頃から、彼は隣にいた気がする。
片言で喋り始めた時は、彼のことをなんと呼んでいたのだか。
(お兄ちゃんも小さい頃はロードって呼んでたから、あたしはローにぃって呼んでたっけ)
後ろをついて歩く小さなヴィオラートを、彼は決して邪険にすることはなかった。
行動的ではあったが乱暴な面はなく、遊びに夢中になると暴走しがちなバルトロメウスを諌め、ヴィオラートには常に優しく、時には危険から守ってくれた。
(昔から、物語に出てくる王子様みたいに頼もしくてカッコ良かったなぁ。あたしはすごく好きだった)
彼が村からいなくなった時は、寂しくて泣いてしまった。
年に数回の手紙のやりとりだけは続いていたが、会うことは叶わず、六年もの月日が流れる。
すっかり大人になって帰ってきた彼を目にして、思わず「ロードフリードさん」と呼びかけていた。
彼は何も言わなかったけれど、目を見張り、困ったように笑った。
それから話し言葉にも敬語が混ざるようになってしまった。
彼の方は、昔と変わらず気さくに話しかけてくれるのに、距離を置いているように思われているだろうか。
(だって、大人になったんだもの。いつまでも子供みたいに接していられない)
それでも、こうして毛布の中でくっついていると、昔に戻ったような気になってしまう。
(あたしが甘えるの、本当に迷惑じゃないのかな……)
子供の頃なら考えもしなかった不安が過る。
差し出された優しさを無条件で信じられないことが苦しい。
好きの意味なんて、考えたこともなかった。
他人の恋愛話は興味津々で聞いてみたり、勘違いばかりだったとはいえ男性からの告白紛いの言葉に慌てふためいたりしてきたものの、ヴィオラートは真面目に自身の恋心に向き合ったことはなかった。
ブリギットに、ロードフリードのことが好きなのかと聞かれて、とても驚いて返事ができなかったのは、認識してこなかったものを認めてしまった気がしたからだ。
会えると嬉しい。
一緒にいると、楽しくて、幸せ。
強くて、優しくて、カッコいい、誰も敵わないほど素敵な人。
(大好きなんだよ。独り占めしたいぐらい大好き)
これが家族に向ける愛情とは、質の違う愛だと気づいてしまった。
自覚すればするほど、心の中には恐怖の感情が積み重なっていく。
この想いを打ち明けて、本当に妹に向ける好意しか持っていないと言われてしまったらと想像すると、心が闇で覆われていく。
(気づきたくなかったな。村に残るためにはお店頑張らないといけないのに、余計なことばかり考えちゃうよ)
心を侵食してくる嫌な考えを振り払って、ヴィオラートは薪を掴むと炎の中に投げ入れた。